撮影監督の映画批評

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『ちはやふる 上の句』(小泉徳宏)

チームプレイを描く青春部活ものというのは、おおよそ物語構造が似通っていて、それだけに採り上げられる部活動が、その映画のカラーを決める。
男子シンクロ部『ウォーターボーイズ』やボート部『がんばっていきまっしょい』、俳句部『恋は五・七・五!』やロボット部『ロボコン』など、運動系、文科系に限らずマイナーなものが好まれるのは、伊丹十三的な着眼点のユニークさ、それ自体が売りになるからだ。
しかし一方、ある意味語り尽くされた感のあるこのジャンルで、物語/語り口で差別化/勝負することを逃げているとも言えなくない。つまり消極的な選択であって、どうしてもその部活動でなければ描けないものではないケースが散見される。

マイナーであればあるほどセンスがあるかのように勘違いした作品が、手を替え品を替え量産される中、競技かるた部をとりあげた『ちはやふる』は、マイナーであるからという理由ではなく、映画的な選択であるという理由で秀逸である。つまり積極的な選択であって、競技かるた部でなければ描けないものを描いている。
もちろん人気漫画原作『ちはやふる』の競技かるた部は、映画のためになされた選択ではない。しかし、他の部活動を描いた原作ではなく、競技かるた部を描いた『ちはやふる』という原作を選択したことが、あるいはこの映画化は映画になると判断したことが、すでに映画的なのである。
では、なぜ競技かるたが映画的なのか?

シネスコのフレームいっぱいにスローモーションで捉えられるにたるアクションだからである。
以下、その考察。

乱発され、いささか食傷気味ではあっても、スローモーションが映画的な表現であることは論を俟たない。





競技かるたは「畳の上の格闘技」とも形容されるように、札を払う一瞬のアクションは、他のスポーツが見せる一瞬のアクションに比肩する。それどころか映画的には、どのスポーツよりもスローモーションに適している。

1)札を払うアクションが、水平の動きである
映画というメディアは、横長のフレームを持つ以上、垂直方向の動きより水平方向の動きに親和性が高い。だから、ありえないと言われようが『ロッキー』のパンチは大振りでなければならないのだ。

とはいえ水平のアクションを持つスポーツは他にいくらでもあるではないかと言う人がいるかもしれない。

2)アクションと顔を同時に捉えることができる
ほとんどのスポーツが、その水平のアクションを中心にフレーミングすると、アクションに合わせ引いた画になってしまう為に顔にクロースアップできないか、あるいは逆にアクションに合わせ寄った画になってしまい顔がフレーミングできない。つまりアクションの瞬間のスローモーションは、アクションか、その瞬間の顔のクロースアップかの二者択一になってしまう。
しかし競技かるたのように顔の前を水平にアクションが横切れば、アクションも、その瞬間の顔も、それぞれベストなフレーミングで同時に捉えることができる。

では、ボクシングはどうか? 顔をクロースアップで捉えつつ、パンチも水平に繰り出されるではないか。ボクシングの他にも『ピンポン』(曽利文彦)がそうだ。

もちろんボクシングは映画が飽くことなく描くスポーツのひとつである。しかし映画に愛されるスポーツ、ボクシングにもできないことが競技かるたにはできる。 

3)全身もまた同時にフレーミングできてしまう
競技かるたの畳を這うように構えるその姿勢は、まるでシネマスコープの高さに合わせるかのようである。全身がフレーミングされ、かつフレームを横切るアクション、さらに顔のクロースアップを同時にとらえられるスポーツが他にあるだろうか?
腕のスイングであろうと全身を使わなければならないのは、ボクシングも競技かるたも同じである。競技かるたであれば、全身で札を払うそのアクションを、キャメラを引くことなく、1カットにおさめることができる。

以上のようなことから逆に、机くん(森永悠希)の肩に手をかける4人の手だけを見せ、顔を見せないという演出が効いてくる。

4)かるたの飛び散る様
スローモーションはしばしば爆破や着弾の一瞬を引き延ばし、飛び散るパーティクルを見せる。『ちはやふる』では、破片の代わりにかるたが飛び散る。
その登場自体がスローモーションのように引き延ばされた千早(広瀬すず)の屋上での初登場シーンもまた、スローモーション。ここでは桜の花びらが、かるたの代わりに飛び散っている。

5)静と動のコントラスト
動の中にインサートされるスローモーション(引き延ばされた動)ではなく、静に続くスローモーション(動)。これはジョン・ウー的なメキシカン・スタンドオフに続くスローモーションに近い。
一瞬のアクションの後、白目を剥いて倒れる広瀬すずは、メキシカン・スタンドオフというより、むしろ一瞬の居合斬りの後、納刀する座頭市の勝新太郎を彷彿させる。そもそも耳へのクロースアップ、「音になる前の音」を聴きわけ一瞬で雌雄を決するあたりが座頭市である。まぁ、勝新の座頭市では居合斬りにスローモーションは使っていなかったと思うが。





文系の部活にみえて運動系、横長のフレームに過不足なくおさめられるアクションと顔、スポーツの絶え間ないアクションではなく膠着の静から一撃の動、砕け散るパーティクル、映画がスローモーションで捉えてきた多くの要素を兼ね備えたアクションが競技かるたにあったのだ。

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  1. 2016/04/18(月) 20:58:37|
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『ルーム ROOM』(レニー・アブラハムソン)

(ネタバレあり)

オールド・ニック(ショーン・ブリジャース)に監禁され、自由を奪われたジョイ(ブリー・ラーソン)は、そこでジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)を出産する。
ジョイは、「外の世界」を知ることのできないジャックのために、「ルーム」の中をホンモノの世界だと教え、TVや天窓のフレームから垣間見える「外の世界」はニセモノだというフリをする。
しかし脱出をひかえ、ジョイは今までフリをしていただけだとジャックに教え諭すのだった。


「外の世界」を知らなかったジャックが戸惑いながらも順応していくのとは対照的に、「外の世界」を知っているはずのジョイが心を閉ざしていく。医師が言うようにそれは、大人と違って子供がプラスチック(柔軟)だからだろうか?


脱出前のジョイにとって「ルーム」の中の世界は、オールド・ニックに強いられた、いわばニセモノで、「外の世界」こそがホンモノである。
が、ジャックのために「外の世界」がニセモノだというフリをしていて、そのフリが本当になってしまうのは、ジャックではなく、実はジョイの方なのだ。

脱出後のジョイにとって「外の世界」は、オールド・ニックに奪われた、いわばニセモノで、ジョイが思い描く「もしオールド・ニックに出会わなかったら」という仮想世界こそがホンモノになる。
つまりジョイは、「ルーム」の中にいても、外にいても、今いる場所がニセモノ(ルーム)で、ホンモノ(世界)は常にその外にあると考える。
一方ジャックはというと、「ルーム」の中にいても、外にいても、今いる場所がホンモノで「世界」なのだ。


脱出前、ジョイは「ジャックのため」に、「ルーム」が「世界」だというフリをしていた。しかし「ジャックのため」というのは口実で、本当はジョイ自身が「ルーム」を耐え抜くために必要なフリだったのだ。

脱出後、ジョイにはフリをする口実がなくなってしまう。彼女にとって「世界」はニセモノ(ルーム)のままにもかかわらず、もはやホンモノのフリをすることができない。それに耐え切れず、彼女は命を絶とうする。


ジョイが救われるには、「ルーム」もまた、ホンモノ(世界)だったと受け入れる他ない。
ジャックは、ジョイを促し再び「ルーム」を訪れる。ジャックは、あまりの変りように、この「ルーム」はホンモノかと訊ねる。ジョイは、どんなに変わり果てていようと(どんなに過酷な世界であろうと)それはホンモノだと答える。そう口にして初めて、「ルーム」にさよならを告げることができ、真に「ルーム」から立ち去ることができるのだ。


ジョイと「ルーム」の関係は、観客と映画の関係に類比的である。観客もまた、映画(ルーム)を映画監督によって語られたフィクション(オールド・ニックに強いられたニセモノ)だと知っている。しかし映画を見ている間(ルームの中にいる間)は、それを知っていて、映画の中で生きるフリ(ホンモノの世界を生きるフリ)をする。
しかし「いつのまにか」そのフリでしかなかったものが、本当になる。
ジョイが、ホンモノのフリでしかなかった「ルーム」もまたホンモノだったと受け入れるとき、観客もまた「いつのまにか」映画の中で生きていたことに気づくのである。



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  1. 2016/04/14(木) 16:59:23|
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『リリーのすべて』(トム・フーパー)

(ネタバレ注意)


アイナー・ヴェイナー(エディ・レッドメイン)が、妻ゲルダ(アリシア・ヴィキャンデル)とともにリリーを発見し、受け入れていく前半が見事。
主人公にフリをさせて、当初はフリのはずだったものが「いつのまにか」本当になるのである。

アイナーは、モデルとして女性のフリをさせられる。そこで「フリのはずが……」という描写が重ねられるのだが、まだアイナーにその自覚はない。つまり、まず主人公よりも先に観客が知るのである。

決定的なのはアイナーがゲルダの下着を身につけたこと。秀逸なのは、ゲルダがそれに気づく瞬間をアイナーと対面させていないので、お互いがどんな表情をしているか見ることができない(が、観客は見ることができる)点である。
ゲルダは、何かがおかしいと感じたはずであるが、そんなわけはない、これはゲームなのだ、とゲームに乗るフリをする。逆にアイナーは、ゲルダのリアクションを覚悟していたはずだが、ゲームなんでしょというゲルダに、そう、これはゲームなのだ、と自分に言い聞かせるようにフリを続ける。
もちろん、この時点で二人は知ってしまっているのだが、知らないフリを続け、自らを欺く。しかし同時にそれが続かないであろうことも知ってしまったのだ。

知ってしまった方のゲルダは、その晩一人起き抜けアイナーをスケッチしながら、そこにリリーを描いてしまう。
知ってしまった方のアイナーは、次の朝そのスケッチにリリーを見てしまうのである。

「いつのまにか」フリが本当になってしまったことに気づくためには、その自分を外から見る視点が必要なのだ。

だから、パーティーでのアイナーとヘンリク(ベン・ウィショー)のキスは、ゲルダに見られなければならない。
そして、ここまでゲルダの視点を借りてリリーを見ていたアイナーは、ついに自らの目でリリーを見るため鏡の前に立つ。同時にゲルダも、絵の中のリリーを完成させることで、アイナーを殺しリリーを現前させる。

と、ここまではパーフェクトな出来だと思ったのだが、ここから先がどうにも乗れなかった。リリーの絵が世間に認められていく過程と、アイナーがリリーとして存在しようとする過程が並行するのはいいとして、二人のその後が伝記映画にすぎないものになってしまっているのが残念だ。前半の、あのフリと知りつつフリをしあう二人の痛々しさが鮮烈だっただけに。

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  1. 2016/03/29(火) 14:48:39|
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『スティーブ・ジョブズ』(ダニー・ボイル)

(ネタバレあり)


この圧倒的な会話劇をどのように見せるか?

各発表会前の舞台裏の三部構成が、それぞれ発表会自体は見せないことで、発表会をゴールとする単線的な舞台裏の描写ではなく、常に発表会との緊張関係に置かれる。そのため観客は、それぞれに有名で、人によっては見たこともあるだろう実際の発表会の記憶なり知識(人によっては推測)を、ときに参照しながら見ることになる。つまり観客は、基本一対一の口論を見せられるだけではなく、発表会との二項表現として見るのである。

さらに、その場にはいないが、それを聞いているであろう/かもしれない人物を配する。舞台裏でスティーブ・ジョブズ(マイケル・ファスベンダー)にあいにくる人物はあとを絶たない。次の間で待っていたり、待たされたりする人物に、中の会話は聞こえているかもしれない。そのとき、観客は一対一の口論を見せられているのではなく、その口論が聞かれているかもしれないという二項表現として見るのである。

他にもジョン・スカリー(ジェフ・ダニエルズ)との会話シーンに顕著なフラッシュバックがそうである。観客は一対一の会話をフラッシュバックとの二項表現として見る。

ややもすると単調になりがちな会話シーンを、常にそこにはないものとの二項表現として見せ、観客を離さない。秀逸なのはこの三幕構成において、最後の第三幕に二項表現のバリエーションを見せることである。
第一幕でジョブズは、クリスアン(キャサリン・ウォーターストン)との面会に、ジョアンナ・ホフマン(ケイト・ウィンスレット)も立ち会えと説得するが、彼女は娘のリサと共に退席してしまい、結局クリスアンとの一対一の口論となる。再びジョアンナがノックするときには、すでに次の間にリサやアンディ・ハーツフェルド(マイケル・スタールバーグ)を含め、スタッフが居心地悪そうに待っている。遡及して二人の口論が、彼らに聞かれていたかもしれないという二項表現になる。
しかし第三幕でのジョブズは、会場でのスティーブ・ウォズニアック(セス・ローゲン)との口論に、スタッフがそこにいるジャーナリストを退席させようとするのを許さず、また、廊下でのリサとの口論では、そこにいるスタッフを追い払おうとするジョアンナを制し、それぞれ一対一の口論を、衆目の中で展開する。そのとき観客はそこにいる彼らと共に、まさにそこにいて一対一の口論を見るのである。




マノーニは、漁色家として知られたカサノヴァについてのあるエピソードを分析の対象としている。カザノヴァは、例によって、田舎娘をわがものにしようとした。彼は純朴な娘を騙そうと、権威ある魔術師の振りをしてみせたのだ。彼は魔術師の格好をして、地面に、「魔法の円」と称するものを描き、訳のわからない呪文を唱え始めた。と、そのとき突然、嵐になって、稲妻が轟音とともに光ったのである。これに驚いたのは、娘ではなくカザノヴァのほうであった。彼は、このタイミングで嵐になったのは、ただの偶然の一致であることをよく知っていた。が、彼は、あわてて、ほとんど反射的に、自分が描いた、嘘の「魔法の円」の中に飛び込んだのである。

大澤真幸 『不可能性の時代』



カサノヴァにとっての魔法の円が、ジョブズにとって獲るはずであったTIME誌のマン・オブ・ザ・イヤーであり、LISAがLocal Integrated Software Architectureの頭文字から名付けられたという由来であり、マカーだけでなく「いつのまにか」発した本人までをも呑み込んでいたという現実歪曲空間である。この「いつのまにか」の描き方/結構が、膨大なセリフ量の会話劇をドラマとして成立させている。




  1. 2016/02/21(日) 16:49:16|
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『キャロル』(トッド・へインズ)

(ネタバレあり)

昨年、クエンティン・タランティーノ、J・J・エイブラムス、クリストファー・ノーランらが、EKのフィルム工場閉鎖を阻止したニュースがあった。力のある人にしかできないことを、ちゃんと力のある人がするハリウッドが羨ましい。(翻って自国では、FUJIのフィルム製造中止にフィルム製造中止に何もできなかった/しなかった)
一方でそんな彼らがフィルムによって撮影した映画に、フィルムである意味を見出すのが、なかなかに困難だというのもまた事実である。ヤヌス・カミンスキーは、「粒子がなければ、映像はデジタル的なものになる」というが、その粒子感ですらデジタルでシュミレートできてしまう今、35㎜やましてや70㎜では尚更その違いはわからない。
しかし16㎜フィルムで撮影された本作は、フィルムで撮影された意味を十二分に堪能できる稀有な一本である。フィルムで撮影されるたびに口にされるフィルムにしか出せない深み(そう言われれば、そう見えなくもないが...)というのが、今回ばかりは言い訳に聞こえない。

「それからソウル・ライターの作品も見ました。彼はストリートフォトグラファーですが、より画家に近い存在です。ライターの写真は抽象化することで不明瞭にされた層状の構図でできています。彼のイメージはファウンドオブジェクトや質感、反射(光)で満たされていて、対象物は部分的にしか見えません。このようなライターのアプローチを使うことで、私たちは表象的な世界観だけではなく心理的な世界観を見せようとしました。たとえば戸口に立つテレーズ(ルーニー・マーラ)を窓や反射を通して部分的にしか見せないように撮ったシーンがありますが、そうすることで彼女のアイデンティティがはっきり見えるようになっていると思います。これは彼女の恋心、内側の世界を見せるために用いた視覚的方法のひとつですね」

撮影監督が語るトッド・ヘインズの『キャロル』『エデンより彼方に』


撮影監督エドワード・ラックマンがそう語るように、キャラクターをストレートには見せない。反射や透過だけでなくフレーム内フレームがいたるところに施されている。それはテレーズ(ルーニー・マーラ)が、キャロル(ケイト・ブランシェット)を見られずに見るPOV、逆にキャロルがテレーズを見られずに見るPOVに顕著である。つまり一方的な視線には絶えず越えるべき障害(フレーム)があるとでも言うように。それがメロドラマ。

視線に越えなければならないフレームがいく重にも重ねられているのとは対照的に、キャロルの手はいとも容易くテレーズの肩にのせられる。
物語は冒頭とラストで現在の同じシーンを繰り返し、それにサンドイッチされて過去が回想されるのだが、その二度繰り返されるシーンでも、やはりキャロルの手はテレーズの肩に置かれる。一方彼女らの視線はと言うと、テーブルに向かい合って座っている二人の間に何もフレームはないにもかかわらず、彼女らの顔を見るには切返さなければならなく(ショット、リバースショット、それぞれにフレームが二人を隔てる)「見つめ合う二つの瞳を同時に画面にはとらええない」。しかも、冒頭ではテレーズの顔が奪われ、ラストではキャロルの顔が奪われている。つまり冒頭とラストをまたいで視点を変え、切り返しされている。無媒介に触れ合う手と肩とは異なり、視線は直接に交じり合わない。

では、ついにその障害(フレーム)が越えられた、二人が結ばれるシーンが、どのように描かれていたか?

キャロルの両手が鏡台前のテレーズの両肩にのせられ、二人の視線は鏡(フレーム)の中で遮られることなく見つめ合う。そこに切り返しは必要ない。手が肩に触れるように、視線が直に触れ合う。

ラスト、テレーズのPOVが時間を引き延ばすように、しかし徐々にキャロルに近づいて行き、キャロルがその視線に気づいて映画が終わる。そして二人の視線が無媒介に触れ合うのであろう余韻を残して。

  1. 2016/02/16(火) 15:12:36|
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著書

プロフィール

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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