撮影監督の映画批評

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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#4

前回『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)のカットバックの解説で使用した図をもう一度。

SRS#

ここでのキャメラのナンバーは便宜的にふったものなので、マルチキャメラのナンバーではない。このシーンが何台のキャメラで撮影されたかは知らないが、もし一台のキャメラで撮影されたのであれば、間違いなくナンバーの順番に撮影されていったであろうナンバーである。
ここでなぜ#2のあとに#4へ行かず、先に#3のポジションに行くのか?
その答えに、映画ではマルチキャメラが限定的にしか使用できない理由がある。
『L.A.コンフィデンシャル』(カーティス・ハンソン)、ラストのカットバックを見てみよう。

la1.pngla2.png

この角度であれば2カット同時に撮影しても、それぞれのカットにもう一台のキャメラが映り込むことはない。しかし、そうは撮られていない。
見てのとおりライティングが異なるからだ。エド(ガイ・ピアース)越しのリン(キム・ベイシンガー)のカットは、リンに逆光があたっていて彼女のブロンドがハイライトで縁取られている。しかし、そのリバースショットであるリン越しのエドでは逆に、エドに逆光があたっている。
もちろんこれはリンのブロンドを美しく見せるためである。リンのバックの人物には順光(太陽光)があたっているので、この逆光はライティングされたものである。これをもしこのまま2キャメで撮影すると、リバースショットのリン越しのエドは、エドよりもリンの後頭部が光り輝いて目も当てられないことになるだろう。だからそうならないよう切り返してもまたリンのブロンドがハイライトに縁取られるようライトの位置が変えられている。
それでも2キャメで撮るというなら、どちらのカットも許容できるフラットで退屈なライティングにするしかない。

ライティングだけではない。例えばリン越しのエドのカットが、果たして同じ場所で撮られているかどうか、われわれにはわからないのだ。
もしエドのバックに見せたくない、しかも移動できないようなもの(例えば電柱、下図参照)があったとして、それがバックに入らない位置まで、キャメラと被写体の関係位置はそのままで、(平行/ピボット)移動しているかもしれない。
それどころか、たとえそれが別場所であっても、われわれにはわからないのだ。つまり1キャメで構図逆構図の位置関係さえ崩さなければ、逆構図の背景を自由に選ぶことが出来る。
それでも2キャメで撮るというなら、どちらのバックも満足できる場所を探すか、妥協するほかない。


lac.pnglac#2


一見つながりそうにもない、このような改変が、全く違和感なくつながれるのが映画である。むしろリアルにつなげられたものの方が、そのつながりが弱い。なぜなら、フラットなライティングや整理されていない背景では、被写体が背景から際立たない。そうすると自ずとそれら被写体同士、カット同士のつながり(イマジナリーライン)も際立たなくなるからだ。

見せるべきは、被写体同士を結ぶ見えることのない関係性の線(イマジナリーライン)である。

このようにライティング、あるいは背景を考えると、等方向のセットアップをまとめて撮影するべきだとわかる。最初の問いに戻ると、それゆえ#2の撮影後は#4ではなく、等方向の#3を撮影するべきなのだ。
その際、それぞれのレンズ、ディスタンス、角度を記録しておくべきなのは言うまでもない。

  1. 2015/08/31(月) 20:19:44|
  2. 演出
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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#3

今回はまず、会話シーンでよく見られるカットバック(切り返し/構図逆構図/Shot reverse shot)について解説する。
『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)から有名なロシアンルーレットのシーン。
手のヨリなど2、3カットインはあるが、基本的には以下の5つのセットアップで構成されている。

DH1.pngSRS#


dh2.pngDH4.png
DH3.pngdh5.png

CAM#1から撮られるのは、引き画/状況説明カット/エスタブリングショットと言われるもの。
CAM#2とCAM#4、CAM#3とCAM#5のペアが、構図逆構図とも言われる教科書的なカットバックである。鏡に映したかのような構図で交互につながれている。
では、このような構図逆構図を撮影するにはどうすればいいか。
1)レンズ
構図、逆構図ともに同じ焦点距離のレンズを使用する。
2)ディスタンス
構図、逆構図ともに被写体までの距離を同じにする。
3)角度
ここでマイケル(ロバート・デ・ニーロ)とニック(クリストファー・ウォーケン)の二人を結ぶ線(視線)をイマジナリーライン(想像上の線)と呼ぶ。図上では点線で示されるイマジナリーラインと、キャメラの光軸がつくる角度を、構図、逆構図とも同じにする。

以上、3点をそろえれば、正確な構図逆構図を得ることができる。

次にCAM#1、CAM#2、CAM#3を比べてみると、キャメラ(光軸)がイマジナリーライン(視線)に近づくにつれて、被写体のサイズが大きくなっているのがわかる。
会話シーンを引き画ではじめ、会話の内容が核心に近づくにつれ被写体のサイズが大きくなり、その正面にまわりこんでいくのがセオリーである。

一般にキャメラ(光軸)とイマジナリーライン(視線)がつくる角度が、垂直に近く横位置に近いほどより客観的、イマジナリーラインに近く縦位置に近いほどより主観的とされる。キャメラが登場人物の視線(イマジナリーライン)に近づくのだから、それが主観性を帯びるのは当然のことだ。もしキャメラの光軸がぴったりイマジナリーライン(視線)に重なれば、それは見た目、Ponit Of Viewと呼ばれる主観ショットになる。

角度とサイズが、主観と客観の度合いを計る重要なファクターである。

ゆえに次のような表現が可能になる。
『ファミリー・プロット 』(アルフレッド・ヒッチコック)
宝石店で、店主と客を装い密談するアーサー(ウィリアム・ディヴェイン)とフラン(カレン・ブラック)

FP1.pngFP.png


FP2.pngFP3.png
FP4.pngFP5.png

完全プロフィールのカットバックと、完全正面のカットバックで構成されている。ちなみに完全正面ではあっても完全なキャメラ目線(光軸=視軸)ではないので、見た目ではない。この場合俳優はレンズのやや上を見るように指示されている。
ヒッチコックは、店主と客を装う表向きの会話をプロフィールのカットバックで、他聞をはばかる話を正面のカットバックでと描き分けている。疎外された客観的な視点と、登場人物の主観に寄り添った視点を自在に使い分けているのだ。

構図逆構図でカットバックすることは、われわれが見ることのできないイマジナリーライン(視線)が、そこにあることを含意する。
であるから逆にないはずのイマジナリーラインだけで、全く関係のないカット同士をもつなぐことができる。次の動画がそうだ。



ここでのイマジナリーラインはボールの動線であるが、そのイマジナリーラインに対して構図逆構図になるよう入念にキャメラの角度がそろえられているのがわかる。逆にそうしなければつながりづらいからだ。

以上のようなことからカットバックのなかでも構図逆構図は、イマジナリーライン/関係性を強く観客に感じさせることができる。それゆえマイケルとニックの間に走る友情というイマジナリーラインを見せるには、構図逆構図で描くほかないのである。


  1. 2015/08/30(日) 23:31:52|
  2. 演出
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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#2

前回の内容を一言でいえば、上手から下手の動線が順路で、下手から上手の動線が逆路になると、要はそれだけである。

今回は人物配置について、『天使』(エルンスト・ルビッチ)をとり上げる。
英国外交官パーカー卿(ハーバート・マーシャル )の妻、マリア(マルレーネ・ディートリッヒ )は、夫に内緒でパリに行き、そこで出会ったアンソニー(メルヴィン・ダグラス)とディナーを共にする。必死に口説こうとするアンソニーに、決して名前を明かさないマリア、彼は彼女を「天使」と呼ぶ。
この関係では、明らかにアンソニーからマリアへのベクトルが優勢である。ルビッチは、その二人をどのように配置したか。
サロンでも、レストランでも、公園のベンチでも、常にマリアを下手、アンソニーを上手に座らせる。

angel#1


パリから戻ったマリアと、夫、パーカーを、ルビッチはどのようにフレームに収めるか。
常にというわけではないがほとんど、親密なシーンでは必ず、パーカーを下手、マリアを上手に配置する。アンソニーに惹かれながらもマリアは、夫を愛している。しかしその夫は仕事で多忙を極め、なかなか相手をしてくれない。パーカーとマリアとでは、明らかにマリアからパーカーへのベクトルが優勢である。

angel#2


そして実は友人同士であったアンソニーとパーカーが再会し、パーカーは彼の言う「天使」が自分の妻とはつゆ知らず、アンソニーを自宅に招待する。その三人が一同に会する席をどのように配置するか。
ルビッチは、下手にパーカー、中央にマリア、上手にアンソニーを置く。

angel#3


この厳格な配置がどういう効果を生むのか。

前回解説したのが動線の上下(カミシモ)なら、今回は視線の上下(カミシモ)である。
上手から下手の方向が順路で、下手から上手の方向が逆路であるなら、『天使』での視線(恋情)のベクトルは、順路で統一されている。恋するものが常に上手に位置し、下手の人物に熱い視線を投げかけるのだ。
視線のベクトルが、上手から下手の順路に重なる。

そして、このようにブロッキングすることで、アンソニーに対するときのマリアは常に顔の右側面、パーカーに対するときのマリアは常に顔の左側面を、観客に見せることになる。人間の顔は左右対称ではないので、顔から受ける印象も当然異なり、その違いがディートリッヒの演じ分けを助けている。

もちろんディートリッヒの顔は左右対称に近い。人間の顔を平均化していくと(つまりは左右対称に近づくのだが)美しくなっていくのはよく知られているとおりだ。
【画像】日本をはじめとする世界各国の平均顔

しかし完全に左右対称の顔がありえないこともまた事実である。
「右半分の顔」と「左半分の顔」は全然違う

人の顔は、平均に近づけば近づくほど美しくなるが、魅力的に感じるのは、平均から少しだけ外れた顔だと言われる。「少しだけ」というところがポイントで、要はコントラストの話。平均、左右対称の美しさを際立たせるために外れた部分が必要なのだ。
これは17~8世紀に流行した白い肌を際立たせるための付け黒子(ミルクの中のハエ)の考え方と同じであり、撮影技術で言えば、ナイター(ローキー)撮影の考え方と同じである。暗さを表現するのに、本当に暗くしてしまっては何も見えない。ゆえに見える程度には明るくしなければならない。しかし、ただうす暗いだけのナイターは、観客の眼が徐徐に慣れてきてしまうので、その暗さをさほど暗いと感じなくなる。そのためナイターにはハイライト(もちろんその面積は「少しだけ」)が必要なのだ。
白い肌を際立たせるための黒子、暗さを際立たせるためのハイライト、シンメトリーを際立たせるためのアシンメトリー。

閑話休題。
この場合、空間の癖を活かした上下(カミシモ)の配置はむしろ口実にすぎない。なぜならその上下(カミシモ)が、たとえ逆であっても、このブロッキングは同じくディートリッヒの演じ分けに寄与するだろうからだ。
つまり、元からある意味(空間の癖/傾向)はとりあえずの拠り所でしかなく、要諦は上手と下手に新たな意味を与える演出にある。
前回とりあげた『スノーピアサー』(ポン・ジュノ )では、下手を列車後方、上手を列車前方に統一することで、下手に人間性(humanity)という意味合いを付与し、その都度、前進すること(上手)との選択を主人公に課していた。
ルビッチも夫かアンソニーかの選択を”Left or Right”で語っている。

上手、下手の方向性に意識的でなければならないのは、そこに空間の癖があるからではなく、観客の方向性の記憶(時間)を無視できないからである。
前回とりあげた『いま、会いにゆきます』(土井裕泰)では、それが軽視されたために観客を混乱させた。
そのような無用の混乱を避けるためにも、そしてそれを演出に用いるためにも、上手、下手の方向性を意識したブロッキングが重要になるのである。


  1. 2015/08/29(土) 13:24:28|
  2. 演出
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「いつのまにか」の描き方

このたびAmazonのKindleから『「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析』を出版しました。過去のブログ記事をまとめたようなものではなく、完全書き下ろしです。このブログをお休みして1年半近く経ちますが、その間、映画について考えたことを、この本にまとめました。紙の本にするには短いこともあり電子書籍として、そのかわりKDPセレクトで設定できる最低価格にしています。
Kindle端末がなくても、PC、Mac、スマホ、タブレット用の Kindle 無料アプリで読むことができます。
もしよかったらみなさんも読んでみてください。

そして明日2015年6月25日の17:00から、6月29日の16:59までの5日間はどなたも無料で購入することができます。
この機会に是非。



  1. 2015/06/24(水) 13:18:36|
  2. 演出
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「カーネーション」第7週「移りゆく日々」(第42話)

 朝ドラの「カーネーション」が面白い。とくに今回の42話の完成度は傑出していて、凡百の映画より見事な演出だと思った。
 唄の稽古をつける善作(小林薫)は、すでに一人だけになってしまった弟子に今日で終わりにさせてくれと告げる。弟子は実を言うと一人になってしまってやめるにやめられなかったのだと言って承知する。このシーンがただの前フリに堕してないのは、この弟子の言い訳だ。この言い訳は、売るものがなくなっても尚小原呉服店をやめるにやめられなくなった善作本人に重なる。それを受けての「千秋楽」とのセリフだから味わい深い。
 そして我々視聴者は電器屋で布に包まれた看板らしきものを見る。誰もがそれがなにであるか即座にわかるというのに、それをこの回では一切見せない。わかっていても、あえて見せないことで(ドラマを)見せる。料亭でも、善作が何を商店街の人々に告げたのか誰もがすでにわかっているのに、あえて聞かせない。そのことで(ドラマを)効かせる。(まるでエルンスト・ルビッチの演出を見るようだと言えば、褒め過ぎか)
 善作が朝の光あふれるなか店じまいをし、最期に感慨深げに看板を見上げる。すばらしいのは、ここで妻の千代(麻生祐未)が善作を家のなかから見つめていることだ。対峙しているのに視線が交差しない。そして2人の間には、善作が見つめている看板ではなく、しっかりとミシンがフレーミングされている。このカットバックに看板がインサートされることはもはやない。
 見ている人を見るのは我々視聴者であって、ここでの千代、そして料亭での奈津(栗山千明)がそうなのだ。この一つ引きこもった視線は本来映画の得意とするところのものであるはずだが、まさか直接的なわかりやすさを第一義とするテレビドラマ(しかもたった15分)で見るとは思わなかった。
 
  1. 2011/11/20(日) 14:33:28|
  2. 演出
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著書

プロフィール

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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