
デュアルフレームムービーと銘打たれた、全編2分割画面の実験的な作品。ヒッチコックが、全編一人称視点の実験的な「湖中の女」について語った言葉が思い出される。
そら、若い映画監督はよくこんなことを言うだろう。よし、観客がカメラになるようなシーンを撮ろうじゃないか、とね。これは紋切型の中の最たるものだ。ボブ・モンゴメリーは、「湖中の女」という映画でこの紋切型を実行してみせた。そんなことをする必要はないのに、だ。
「カンバセーションズ」も、そのような映画にすぎないのではないかと思っていたが、そうではなかった。(そう言う私は「湖中の女」を未見なので、「湖中の女」について語られたものを読んで、そのような映画なのだろうと想像しているだけなのだが)
冒頭からしばらくは、通常の映画が2分割画面ではないことの正当性を、いちいち確認するだけである。彼(アーロン・エッカート)のフレームと、彼女(ヘレナ・ボナム=カーター)のフレームは、そのままカットバックされればいい。
2分割画面でなされる工夫(相互のフレームへの侵入であったり、フラッシュバックであったり、現実と心象であったり)は、なるほど面白いけれども、このような趣向でいくと決めて、この発想は当然だと思われるし、2分割画面だからこそのアイディアでもない。
あらためて、2分割画面でなければいけなかったのだろうかと、そんなことをする必要がないのにと思うのだ。
しかし、あぁなるほど、これはいいかもと評価を修正するのが、現在のフレームとフラッシュフォワードのフレームに分割されるところだ。
これは現在のフレームとフラッシュバックのフレームの分割とは、似ていて異なる。
現在とフラッシュバックの分割は、フラッシュバックが現在を説明しているだけなのだが、現在とフラッシュフォワードの分割は、そのフラッシュフォワードが時間的に近接していることもあって、現在と現在の分割に戻ってから、その現在がフラッシュフォワードに追いつくのだ。
山中貞雄の「丹下左膳、百万両の壺」の冒頭、シンクロしていた「こけ猿の壷」を説明する音声が、次の画にズリ下がって画だけが先に展開していくように思われる。しかし再び画と音声がシンクロすると、ズリ下がっていた声だと思われていたのは、実はズリ上がりの声だったことがわかる。つまり画が音に追いついたのだ。
「カンバセーションズ」では、シンクロしていた画と画が、時間的にズレて、先行していた画に遅れていた画が追いつく。
「丹下左膳、百万両の壺」では、シンクロしていた画と音が、時間的にズレて、先行していた音に遅れていた画が追いつく。(しかも画の方が先行していると錯覚させてもいるのだから、凄い)
見続けると、どのようにこの二つのフレームが一つになるのかという興味がわいてくる。一つになるよとは、誰も言っていないのに、一つになるに違いないと確信させるのは、ハンス・カノーザの巧さであるし、それこそ2分割にした理由にちがいない。
つまり、きっと一つのフレームになるにちがいないと観客に思わせる為に、2分割画面が採用されたのだ。
そこまではいいのだが、どのように一つにするのかが難しい。
しかし、それも素晴らしかった。ストーリーとその語り口のバランスが危ういと思わせるのだけれども、実はそれが絶妙なのだ。
トラックバックURL
→http://pointbreak.blog66.fc2.com/tb.php/87-4752312e
→http://pointbreak.blog66.fc2.com/tb.php/87-4752312e

