撮影監督の映画批評

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『エヴェレスト 神々の山嶺』(平山秀幸)

(ネタバレあり)

何かに取り憑かれてしまった人物を描いた映画は多々あって、例えば、海に取り憑かれた男を描いた『グラン・ブルー』(リュック・ベッソン)、宇宙に取り憑かれた男を描いた『ガタカ』(アンドリュー・ニコル)等がある。
山に取り憑かれた男を描いた原作の『神々の山嶺』(夢枕獏)を読んだときに思い出した映画がその二つだった。
 
上下巻にわたる長編小説を二時間程度の映画にするための取捨選択は容易ではないが、何かに取り憑かれてしまった男を描く際のテンプレートさえ押さえておけば、そこに描かれているドラマを取り逃すことはない。
実際、原作に描かれていたドラマも、『グラン・ブルー』『ガタカ』と同じテンプレートに則っている。

それはどのようなテンプレートか?

取り憑かれるものが山であろうが、海であろうが、宇宙であろうが、観客自身が今現在それらに取り憑かれていない以上、彼らに感情移入することもできないし、彼らがなぜそれらに惹かれるかすら、われわれ観客には理解できない。

であるから、何かに魅せられている人物を描くには、その人物を「見ることしかできない」別の登場人物が必要なのである。

それが『神々の山嶺』であれば、羽生丈二を「見ることしかできない」深町誠と岸涼子であるし、『グラン・ブルー』であれば、ジャック・マイヨール(ジャン=マルク・バール)を「見ることしかできない」エンゾ(ジャン・レノ)とジョアンナ(ロザンナ・アークエット)であり、『ガタカ』であれば、ヴィンセント(イーサン・ホーク)を「見ることしかできない」ジェローム(ジュード・ロウ)とアイリーン(ユマ・サーマン)である。

観客は登場人物の視点から、彼らが魅せられているもの(山、海、宇宙)を見ることはできるが、観客が登場人物と共有しているのは「見ることしかできない」という一点のみである。同じものを見ることはできるが、同じようには見ることができない。したがって観客が見る以上のものを登場人物が見ている、つまり魅せられているということを観客に見せるには、魅せられている主人公を見ることしかできない他の登場人物の視点が必要になるのである。

拙書『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』


二人の滑落をシャッターを切ることしかできない「見ることしかできない」深町の無力感で始まる物語は、マロリーのカメラを口実に登攀史上最大の謎を解くことができるかもしれない「見ることできる」という賢しらにとってかわる。そこで羽生丈二という天才クライマーを調べることになる深町だったが、その壮絶な人生に圧倒され、山に取り憑かれた羽生という男を「見ることしかできない」。しかし羽生のエベレスト南西壁冬季無酸素単独登頂計画を知ることになった深町は、それを撮ることができる「見ることできる」と羽生に食らいついていく。そして深町は生死の境をさまよい一度は諦めるのだが「おれを、撮れ」という羽生の言葉に「見ることできる」のだとシャッターをきる。

これが大まかに原作の物語であるが、さらに搔い摘めば、「見ることしかできない」という無力感から「見ることできる」という賢しらを経て「見ることできる」という気づきにいたるという成長譚としてみることができる。

「欲望とは存在欠如の換喩である」というラカンの顰みに倣って言えば、観客の欲望とは「見ることしかできない」ことの換喩である。

(略)すべての観客に共通し、かつ具体的なもの――それはつまり「見ることしかできない」ということである。
 主人公の置かれた状況と、観客の個々の事情との近接性が、共感の多寡を左右することに異存はない。しかしターゲットにする観客が多ければ多いほど最大公約数は下がり、つまりステレオタイプにならざるをえなく共感は難しい。そこで観客個人個人の事情ではなく、観客であることの事情にフォーカスすれば、具体的なまま、アクチュアルなまま、すべての個々人にぴたりと当てはめることができる。
 すべての観客は、今まさに客席に縛られ、スクリーンを見ることしかできない、ただただ受動的な存在である。主人公をそのような存在にするだけでいい。

拙書『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』


しかし映画『エヴェレスト神々の山嶺』では、深町(岡田准一)がそのように描かれない。「見ることしかできない」という受動性とは無縁の行動する人物として描かれる。「見ることしかできない」登場人物の視点を欠いたまま進む物語を、われわれ観客は冷めた目で客席から「見ることしかできない」。
そこには少なくとも如上のドラマはない。原作を持つ映画が、原作のドラマを再現する必要はないが、もし再現しようとして失敗したのなら、以上のようなことが原因なのだろう。
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  1. 2016/05/15(日) 22:15:10|
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著書

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中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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