撮影監督の映画批評

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エール!(エリック・ラティゴ)

(ネタバレ注意)


冒頭、家族のなかで一人だけ耳が聴こえるポーラ(ルアンヌ・エメラ)が主人公であることを、耳の聴こえない家族がたてる音を殊更強調し、それが聴こえてしまうことで、そこから彼女と観客だけが引きこもることで、つまりは彼女の主観的音像を観客とだけ共有することで、表現している。
その直後、彼女はヘッドホンで音楽を聴きながら自転車を走らせ、本来なら彼女だけが聴くことのできるはずの音楽をわれわれ観客と共有する。
消極的に彼女だけ聴こえてしまうことと、積極的に彼女だけが聴くこと、それぞれを主観的な音の演出で見せ、一気に彼女に感情移入させてしまうのが巧い。

オバマと名付けられた黒い牛をかわいいと言う友人に、いずれ食肉にするために手放すのだから情が移らないようにしなければいけないと諭すポーラ。当然そこに家族からの自立というメタファーが見て取れる。
それが証拠に、そう言ったはずのポーラ自身が、その言葉にとらわれる。
中盤、野に放った牛を距離を持って見つめるポーラのまなざしは、すでに牛に情が移ってしまっていることを物語っている。そのポーラを距離を持って見つめるポーラの母。
さて、そうなるとこの牛を手放すシーンが象徴的に描かれるのだろうと高を括るのだが、さにあらず、もう牛は出てこないのだ。

学校での発表会で、観客は耳が聴こえない家族の主観的音像を共有する。
これは、冒頭のポーラの主観と対になっている。冒頭のポーラが、聴こえない家族の中で一人だけ、聴こえてしまうことで観客と引きこもったのに対し、ここではポーラの歌を聴いている聴衆の中で三人だけ、聴こえないことで観客と引きこもるのだ。
観客は、聴衆が絶賛するも、家族同様、手放しでは喜べない。なぜならそこでは歌が奪われているからだ。
その夜、ポーラののどに手をあてることで、ようやく父親とわれわれ観客は歌を聴くことができる。
ここでのわれわれ観客の感動(音像/ズレ)は、父親側からのものである。

ラスト、オーディション会場での歌は、手話を交えることで、ポーラにも、家族にも、もちろんわれわれ観客にも、聴こえる。
ここでのわれわれ観客の感動(音像)に、ここまでにあった偏り/ズレはない。

手話を交えて歌うということ自体は、実にシンプルな発想、この設定であれば誰もが思いつくたぐいのもので、それ自体にさして力はない。はずのものが、ここまで感動的なのは、そこまでをどう描き分けてきたかによるのである。ディスコミュニケーションを描いているからこそ、コミュニケーションが活きるのだ。





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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2015/11/01(日) 02:26:52|
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著書

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Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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