撮影監督の映画批評

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半沢直樹

半沢直樹演じる堺雅人のあの張り付いたような笑顔がすばらしい。脇を固める俳優陣の芝居がかった芝居がまたすばらしい。木の葉は森に隠せ、死体は死体の山に隠せ、というが、記号的なわかりやすい芝居の山に、そこに何かあると思わせる演出がなされている。視聴者にそう思わせれば、しめたものだ。
ストーリーテリングと演出の観点から順を追ってみていこう。

◯第一話
冒頭の面接のシーンで半沢は、父親の会社を見捨てたのが地元の地銀で、救ってくれたのが御行だと(この時点ではそうとわからないが)嘘をつく。
続くフラッシュフォワード(融資事故)の後、その少し前からストーリーが語られる。
まず融資を願い出る町工場の社長に半沢は、すべてオートメーション化すれば考えてもいいと鎌をかける。であればと固辞する社長に、半沢は例の笑顔を見せる。
本来ここで見せられるべきは、半沢の隠された一面の笑顔である。にもかかわらず、その笑顔ですら何かを隠しているかのように張り付いている。そこに何かあると思わせる笑み。
そして5億融資の話が、キナ臭いながらも、何もできずに進んでいく。サラリーマンとして従うことしかできないという半沢の受動性が、視聴者の見ることしかできないという受動性と結託して、視聴者の感情移入を促す。

フラッシュバックする父親の土下座。
テレビドラマなので他に説明的なフラッシュバックは頻出するのだが、この土下座のフラッシュバックはちがう。そもそもフラッシュバック=回想は、(当の半沢にも)思い出す/見ることしかできないものである。しかも、その回想自体が、土下座する父親を見ることしかできなかったという少年時代の記憶。つまり「見ることしかできなかった当時の記憶を、見ることしかできない」という二重の受動性。それがその都度、執拗なくらいに反復されていく。
このようにドラマ内世界を見ることしかできないという一歩引きこもった視点を主人公に与え、視聴者のそれと共有させることで、感情移入を促す。
一方で、この半沢の受動性は、フラストレーションとして視聴者の中に蓄積されていき、それゆえ半沢が「X倍返し」することで視聴者は溜飲を下げる。これは半沢に感情移入をし終えた視聴者が、偽の能動性を半沢に仮託して実現する。

全エピソードを通して大和田(香川照之)への復讐が描かれ、エピソード毎に小さなカタルシスがあるという構造。
第一話のそれは、聞き取り調査になるのだが、半沢は相手に自己否定させ失語症に陥らせる。相手の放った言葉で相手をやりこめることほど、痛快なことはない。
その直後に竹下(赤井英和)が電話で、冒頭の町工場の社長から話を聞いたと告げ、協力を申し出る。この伏線回収と畳み込みが見事。
これは第三話での裁量臨店でも同じで、エキサイティングなシーン(倍返し)の直後に、その回の冒頭で描かれた伏線(人情話)が回収される。ともすればクサくなってしまうようなご都合主義の顛末も、エキサイティングなシーンの直後に持ってこられると、それなりに感動的になる。

◯第二話
第一話が主人公と視聴者だけが知っていることを共有する感情移入の回だとすれば、第二話は視聴者だけが知りうる(playing God)ことでサスペンスの回になっている。

5千万をめぐっての国税との二重の追いかけ。
ヒッチコックは自身が二重の追いかけ(例えば、警察に追われる主人公が真犯人を追う)にこだわる理由を、観客の同情が追う側より、どちらかといえば追われる側に集まりやすいからだと言っている。
5千万の行方を追いつつ、国税から追われる半沢。視聴者が誰に感情移入すればいいかに迷いはない。
ちなみに部下を引き連れて、いつも一足遅れになり悔しがる国税の様は、「ミッドナイトラン」のFBI捜査官を彷彿させる。

第二話のカタルシスは、板橋(岡田浩暉)に渡した資料が実は偽物だと半沢が告げるところで訪れる。
騙していると思っていた人物が、実は騙されていたという構造は、第一話(聞き取り調査)での、相手を論破したはずの当の理屈で、自分を否定していたというそれと同じである。
つまりどちらも、箱の外側にいると信じて疑わない人物に、実は箱の内側にいるのだと気づかせる面白さなのだ。
メタ視点からの引きずり落とし。倍返し!痛快である。
しかし、誰がその箱の内側の人物を笑うことができるのか?箱の外側にいる人間?
半沢が倍返しした直後、竹下がこう言う。
「あんたのことようわからんようになった。ほんまはものごっつう悪い奴ちゃうかなと思って....」
復讐する時、人間はその仇敵と同列である(ベーコン)とするなら、竹下は、自分は箱の外側にいると信じて疑わない半沢が、箱の内側に堕ちた仇敵を笑っているのをかいま見たのではないか。
竹下にそういわれた半沢は一人、無心に竹刀をふる。
これらの描写が、ただ痛快なだけではない何かを視聴者に感得させる。
(ちなみに二話のラストは、「羊たちの沈黙」で有名なミスリードさせる平行モンタージュ)

◯第五話
半沢と花(上戸彩)との会話
「父親を殺したのも銀行なら、助けてくれたのも銀行」「復讐?それもある...」「銀行を変えたい」
これらは半沢が用意した言い訳にすぎないはずだった。復讐が目的であったはずだった。
しかし半沢自身がいつのまにかこの言い訳を信じ始めているのに、視聴者は気づく。もちろん半沢自身は気づいていないし、気づいたとしても否定するだろう。

半沢の浅野支店長(石丸幹二)への復讐を止めるのは、浅野の妻のすべてを知悉しているかのような視線。
竹下はその半沢をやっぱりいい人だと言う。(ダブルスタンダード)
当たる占い、栄転/出向(ダブルスタンダード)

◯第六話〜(東京編)
大和田に宣戦布告する半沢が、土下座をかける。「そんなことができるものなら、やってみたまえ」
これらは全く大阪編の浅野に対するものと同じである。(基本的なパターンは他もほぼ同じ)
その中で大和田がこう言う。
「ミクロとマクロの違いであって、同じことを言っている」(ダブルスタンダード)
つまり東京編では、基本フォーマットは大阪編と同じくして、半沢の葛藤(仇敵と同列ではないのか)が深化して描かれる。
もうひとつ大きく異なるのは近藤(滝藤賢一)がよりフィーチャーされていることである。大阪編での彼は、半沢もまかり間違えばそうなったかもしれないというコントラストづけの為の役回りだったが、東京編では、半沢に感化され、半沢の似姿、つまりは視聴者の似姿として活躍する。
しかし、それが実に危なっかしい。張り切れば張り切るほど、大阪編での彼を知っている視聴者は本当に大丈夫かとハラハラする。(サスペンス)
その近藤の裏切り。それを許す半沢。
「人の善意は信じますが、やられたらやり返す。倍返しだ!」という半沢の「しっぺ返し(Tit-For-Tat)戦略」が報復連鎖に陥らないようにするには、ときとして許すことが必要である。
「結局俺は大和田と同じ穴のムジナかもしれない」
「おまえは全然違うよ」大和田と違って半沢は人を切り捨てないと言う渡真利(及川光博)

ラスト、大和田への100倍返しとなり、半沢は土下座を要求する。
かつて「土下座はパフォーマンスにすぎない。いくらでもしてやる」と言ったはずの大和田は、その土下座がなかなかできない。パフォーマンスにすぎないものだからこそ(二人にとって)意味があるのだ。(ダブルスタンダード)
報復感情が満足されるには、報復されるものがその理由を知っている必要があり、ここで大和田がパフォーマンスにすぎないはずの土下座を必死に拒むのは、それを知っているからに他ならない。(であるから逆に当初の大和田は、すっかり忘れている必要があった。それゆえに半沢と視聴者の報復感情に火がついたのだから)
一方で、執拗に、しかし、絞り出すように、土下座を強要する半沢は、そのことで仇敵と同列になることを知っている。かつて自分が否定したものに、今、自ら成り下がろうとしている。そうと知っていても止めることができない。
二人は対峙しながらも、抗っているのはそれぞれ己自身なのだ。









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テーマ:半沢直樹 - ジャンル:テレビ・ラジオ

  1. 2013/10/01(火) 00:38:10|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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