
あの夏、いちばん静かな海。
この映画の画面の上下(カミシモ)を考えてみたいと思う。
画面の右側を上手(カミテ)と言い左側を下手(シモテ)と言う。
これは演劇から借りられてきた言葉。
別役実著「別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ
映画についても同じことが言われている。映画とはやや異なるかもしれないが「機動戦士ガンダム」で知られる富野由悠季著「映像の原則?ビギナーからプロまでのコンテ主義
「あの夏、いちばん静かな海」では、毎日の海までの道行きは、下手から上手の逆路でとらえられる。もちろん海からの帰り道はその逆路の逆、順路でとらえられる。
通常、何も意図がなければ上記の原則からいくと、家から出かける描写は上手から下手の順路で、帰宅を下手から上手の逆路が、自然な描写と考えられる。
つまり通常ではないわけだ。家からの行き帰りの描写が、通常の逆になっている。
劇中主人公は何度かサーフィンの大会に出かける。しかし、これは原則に則っているのだ。出かけるときは、上手から下手。帰るときは、下手から上手。
ということは、あくまで恣意的な選択だったにすぎないのであろうか?
話は少し横道にそれるが、「いま会いに行きます」という映画を少し前に見た。
あまりにも浅い被写界深度に、これは少しやり過ぎではないかなどと思いもしたのだが、まぁそれはいいとして、どうしても苦言を呈したいのは、その方向性、空間処理の杜撰。
なぜこうまで無感覚でいられるのか驚いた。
竹内結子と中村獅童との家が話の主要舞台であり、劇中、中村獅童はそこから会社に何度か通うわけだが、全くといっていいほど方向性に統一がない。あるシーンでは、中村獅童が自転車を漕いでいるカットから始まっていて、その前のシーンなどからうけた方向性の印象で、会社から帰宅しているところだと思って見ていると、いや待てよどうも今から出社しようとしている道すがらのようだということがわかるのだ。その後も上下が無茶苦茶である。
もちろん編集によって整合性が狂ってしまったのかもしれない。が、その空間把握を犠牲にしてまでも必要なものがこの編集にあるのだろうか。
「あの夏、いちばん静かな海」には、そのような上下の恣意性は認められない。方向性は律儀に徹底的に守られていて、そこに混乱はない。
が、しかし先程も述べたように、別役が「空間の傾向」というそれ自体恣意性の高い、がしかし確かにあるとされる微妙なニュアンスというものに対してまでは、気にしていないようなのだ。
そのように理解して観ていると、ラストでフラッシュバックされるカットのなかに、砂浜で上手から下手に向かってサーフボードを持って歩く二人の姿を認めて、上記の意見の訂正を迫られることになる。
「あの夏、いちばん静かな海」で主人公の家は冒頭少しでてくるだけだったように記憶しているが、つまりサーフィンを始めて主人公は海を自らの起点とする家にしたのだとしたら。
毎日通っているように見えた海は彼にとっての家であり、つまり毎日海=家に帰ってるのだと考えよう。
家=海には彼女がいて、仲間がいる、つまり彼にとっての家族がいる。
その海=家に対して、主人公の設定上の家には、家族らしき人を認める事ができず、冒頭から先、設定上の家はでてくることはない。(彼女の設定上の家も同じで、そこに家族を認める事ができない)
ラストのフラッシュバックは家族のアルバムに他ならない。
海への道行きは、下手から上手の逆路でなければならない。なぜなら彼にとってそれは家へと帰ることに他ならないからだ。
--すごい!--
すごい観察眼ですね!
そこまで考えているとは……汗
すごい観察眼ですね!
そこまで考えているとは……汗
by: たけ * 2011/07/29 21:14 * URL [ 編集] | page top↑
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>たけさん
観察眼というより、こじつけといった方が、このブログの場合ふさわしいですが・・・
>たけさん
観察眼というより、こじつけといった方が、このブログの場合ふさわしいですが・・・
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