オリジナルの大ファンなので、はなからリメイクを及ばないであろうものとして、その及ばなさ加減はいかほどのものかと劇場に足を運んだ。決してほめられた鑑賞態度ではないが、もし万が一オリジナルを越えるようなことがあれば、それはきっと比較を忘れさせてくれるだろうし、そのときは虚心坦懐にその傑作に身を任すことになるのだろうから、なにも後ろめたく思うことはないのだと開き直った。
で、そのような鑑賞態度で臨んだからそうなったのだと言われれば返す言葉もないのだが、結局オリジナルの良さを再認する仕儀となった。以下その比較。
まず時間の比較。オリジナル128分、リメイク116分、オリジナルの方が12分長い。しかしこの違いにはさしたる意味はない。
問題は、オリジナルでサム(パトリック・スウェイジ)が殺されるまでの時間と、リメイクで七海(松嶋菜々子)が殺されるまでの時間の違いである。オリジナルはDVDを持っているので確認できるのだがおよそ20分で殺される。リメイクの方があきらかに殺されるまでが長い。オリジナルでは2人が同棲を始めるところからスタートするのに対して、リメイクでは2人が出会う前からのスタートに改変されているので、時間がかかるのは当然である。
次にラスト、エピローグの時間。サムがモリー(デミ・ムーア)の前に再び姿を現してから映画が終わるまで、およそ5分ほどしかかかっていないのに対して、リメイクで七海がジュノ(ソン・スンホン)の前に再び現れてから映画が終わるまでの時間は、あきらかに長い。
リメイクはその改変によって、セットアップとエピローグにより長い時間を充てたということであり、でありながらトータルのランニングタイムは短くなっているので、セットアップとエピローグに挟まれたメインの描写が割を食っていることがわかる。つまり2人の叙情的な描写に力を入れるあまり、叙事的な展開が疎かになったということだ。ひいては逆説的ではあるが当の叙情を阻害することになり、泣くことができない。泣かそうとする映画と泣ける映画の違いである。
ゴーストは見ることしかできない。モリーによりそうことはできても、なにもできない。われわれ観客と同じなのだ。見られずに見ることのできる観客は登場人物より多くを知っている(知らされている)。知っているが登場人物に伝える術がないのだ(当たり前だ)。ゴーストであるサムもそうである。モリーに迫る危機を回避することは、いとも簡単なことであるにもかかわらず、それができない。そのもどかしさを描くから、観客がそこに自分をみるのだ。
さらにサムが行動するためには、オダ=メイ・ブラウン(ウービー・ゴールドバーグ)によりそうしかない。サムがオダ=メイの力をかりて行動を起こす時、サムによりそっていた我々観客もまた能動性が満たされる。サムとオダ=メイの関係と、観客とサムの関係は、類比的である。感情移入=偽の能動性。
しかも唯一信用できるオダ=メイは、世間的にはおよそ信用できないとされる人物であるのが面白い。それゆえもどかしさは、そう簡単には解消されない。
次にサムは、オダ=メイを架空の人物リタ・ミラーに仕立て上げる。そこでようやく、うまくいくこと=機能することの快感を味わうことができる。巧いのは銀行での煩瑣な手続きを端折ることなく丁寧に描いていることだ。このひとつひとつが観客の偽の能動性を積み上げるように満足させていく。
リメイクには、まずもどかしさの描写が希薄である。もっともそれを感じたのが、それぞれの友人(オリジナルではカール(トニー・ゴールドウィン)、リメイクでは未春(鈴木砂羽))の姦計にモリーおよびジュノが陥るかというシーンである。オリジナルではそこに見ることしかできないサム=観客がいるのだが、リメイクではそこに七海がいないのである。
徐々にではあるが確実に主人公=観客の偽の能動性を積み上げるオリジナルに対して、例えば如上の銀行のシーンにあたるものが存在しないように、リメイクで叙事は重視されないのだ。
比較すべきは、「ゴースト/ニューヨークの幻」(ジェリー・ザッカー)と「ロボコップ」(ポール・バーホーベン)なのかもしれない。「ロボコップ」でラスト「マーフィー」と答えるように「ゴースト/ニューヨークの幻」でラスト「ditto」と答えるのだから。
で、そのような鑑賞態度で臨んだからそうなったのだと言われれば返す言葉もないのだが、結局オリジナルの良さを再認する仕儀となった。以下その比較。
まず時間の比較。オリジナル128分、リメイク116分、オリジナルの方が12分長い。しかしこの違いにはさしたる意味はない。
問題は、オリジナルでサム(パトリック・スウェイジ)が殺されるまでの時間と、リメイクで七海(松嶋菜々子)が殺されるまでの時間の違いである。オリジナルはDVDを持っているので確認できるのだがおよそ20分で殺される。リメイクの方があきらかに殺されるまでが長い。オリジナルでは2人が同棲を始めるところからスタートするのに対して、リメイクでは2人が出会う前からのスタートに改変されているので、時間がかかるのは当然である。
次にラスト、エピローグの時間。サムがモリー(デミ・ムーア)の前に再び姿を現してから映画が終わるまで、およそ5分ほどしかかかっていないのに対して、リメイクで七海がジュノ(ソン・スンホン)の前に再び現れてから映画が終わるまでの時間は、あきらかに長い。
リメイクはその改変によって、セットアップとエピローグにより長い時間を充てたということであり、でありながらトータルのランニングタイムは短くなっているので、セットアップとエピローグに挟まれたメインの描写が割を食っていることがわかる。つまり2人の叙情的な描写に力を入れるあまり、叙事的な展開が疎かになったということだ。ひいては逆説的ではあるが当の叙情を阻害することになり、泣くことができない。泣かそうとする映画と泣ける映画の違いである。
ゴーストは見ることしかできない。モリーによりそうことはできても、なにもできない。われわれ観客と同じなのだ。見られずに見ることのできる観客は登場人物より多くを知っている(知らされている)。知っているが登場人物に伝える術がないのだ(当たり前だ)。ゴーストであるサムもそうである。モリーに迫る危機を回避することは、いとも簡単なことであるにもかかわらず、それができない。そのもどかしさを描くから、観客がそこに自分をみるのだ。
さらにサムが行動するためには、オダ=メイ・ブラウン(ウービー・ゴールドバーグ)によりそうしかない。サムがオダ=メイの力をかりて行動を起こす時、サムによりそっていた我々観客もまた能動性が満たされる。サムとオダ=メイの関係と、観客とサムの関係は、類比的である。感情移入=偽の能動性。
しかも唯一信用できるオダ=メイは、世間的にはおよそ信用できないとされる人物であるのが面白い。それゆえもどかしさは、そう簡単には解消されない。
次にサムは、オダ=メイを架空の人物リタ・ミラーに仕立て上げる。そこでようやく、うまくいくこと=機能することの快感を味わうことができる。巧いのは銀行での煩瑣な手続きを端折ることなく丁寧に描いていることだ。このひとつひとつが観客の偽の能動性を積み上げるように満足させていく。
リメイクには、まずもどかしさの描写が希薄である。もっともそれを感じたのが、それぞれの友人(オリジナルではカール(トニー・ゴールドウィン)、リメイクでは未春(鈴木砂羽))の姦計にモリーおよびジュノが陥るかというシーンである。オリジナルではそこに見ることしかできないサム=観客がいるのだが、リメイクではそこに七海がいないのである。
徐々にではあるが確実に主人公=観客の偽の能動性を積み上げるオリジナルに対して、例えば如上の銀行のシーンにあたるものが存在しないように、リメイクで叙事は重視されないのだ。
比較すべきは、「ゴースト/ニューヨークの幻」(ジェリー・ザッカー)と「ロボコップ」(ポール・バーホーベン)なのかもしれない。「ロボコップ」でラスト「マーフィー」と答えるように「ゴースト/ニューヨークの幻」でラスト「ditto」と答えるのだから。
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なるほどです。
自分が一番感じていたこともこれだと思います。
オリジナル、大好きです。
リタミラーの口座解約シーンは何度見ても
イライラハラハラしますもんね(笑)
ヘンリ8世(でしたっけ?)の歌をずっと耳元で歌い続けるとかも好きです。
極めつけ
今回は、四季を盛り込みながら時間経過を
無理に作って二人の関係性を見せていますが
オリジナルは、いきなり冒頭で
「同棲を始める二人が部屋で荷物について語る」
だけじゃないですか
これだけで二人の関係性や抱える倦怠感やら何かが全て解ってしまうという。
この違いが全てかと思います。
お会いして語り合いたいですね(笑)
なるほどです。
自分が一番感じていたこともこれだと思います。
オリジナル、大好きです。
リタミラーの口座解約シーンは何度見ても
イライラハラハラしますもんね(笑)
ヘンリ8世(でしたっけ?)の歌をずっと耳元で歌い続けるとかも好きです。
極めつけ
今回は、四季を盛り込みながら時間経過を
無理に作って二人の関係性を見せていますが
オリジナルは、いきなり冒頭で
「同棲を始める二人が部屋で荷物について語る」
だけじゃないですか
これだけで二人の関係性や抱える倦怠感やら何かが全て解ってしまうという。
この違いが全てかと思います。
お会いして語り合いたいですね(笑)
by: takashi hiratsuka * 2010/11/19 10:18 * URL [ 編集] | page top↑
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>「同棲を始める二人が部屋で荷物について語る」
モリーがサムのソファをダサイからって置きたがらないのだけれど、お気に入りだからというサムにほだされるんですよね。それでサムがゴーストになってからも、彼はそのお気に入りのソファに座りつづける。
こういう細やかな描写を積み上げて彼らの生活に説得力を持たせるから、荒唐無稽なゴーストの話でも観客は受け入れることができるのだと思います。
>「同棲を始める二人が部屋で荷物について語る」
モリーがサムのソファをダサイからって置きたがらないのだけれど、お気に入りだからというサムにほだされるんですよね。それでサムがゴーストになってからも、彼はそのお気に入りのソファに座りつづける。
こういう細やかな描写を積み上げて彼らの生活に説得力を持たせるから、荒唐無稽なゴーストの話でも観客は受け入れることができるのだと思います。
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