「母なる証明」(ポン・ジュノ)
 (ネタバレあり)
 漢方薬店で働く母(キム・ヘジャ)が、その奥まった店内から外の道端に佇む息子トジュン(ウォンビン)を見ている。徐徐にその視線が手元に及ばなくなっていき、トジュンが車に跳ねられると、その拍子に自分の指を切ってしまう。「吸血鬼ノスフェラトゥ」(F・W・ムルナウ)でも、怯えながらパンにバターをぬっていると(サイレントだが)突然時計が鳴り、その拍子に指を切ってしまうシーンがあった。何に心を奪われているかの巧みな演出である。さらにこの手前と奥という空間配置、キャメラの視点といい実に巧い。
 次にこの構図が繰り返されるのは、手前に漢方薬店の女主人、奥に連行されるトジュンを配してである。ここでも観客は、そこまで蔑ろにしてはクビを切られるのではと危ぶみながら、そこまでトジュンが心配でならないのだと了解する。

 トジュンに面会する母は、なんでもいいから思い出せと言う。そしてトジュンが思い出すのは、ミラーを壊したのは自分ではなくジンテ(チン・グ)だと事件に関係のないこと。しかし母はそれを、殺したのはトジュンではなくジンテだとパラフレーズする。
 次にトジュンが思い出したのは、子供の頃母が自分を殺そうとしたということ。母は、嫌な思い出を忘れることのできるツボに鍼を刺してやると言う。トジュンは、今度は鍼で殺すのかと応える。
 
 ラスト、トジュンは母に字義どおり忘れものを手渡す。母は思い出す、その忘れ物のことではなく、忘れようとしていたことを。それは、トジュンが全て知っているのではないか、全ておぼえているのではないか、無垢なフリをしているだけなのではないか、ということだ。気づいてしまった母を、バスの中で踊る乗客から一人際立たせる。その恐れを忘れる為に、そして今度は自分を殺す為に、自ら鍼を刺すのである。そのようなツボがあるわけがない。しかし母は、あたかもトジュンが何も知らないかのように無垢なままであるかのように、あたかも全て忘れてしまったかのように踊りだすのだ。無垢なフリであることを気づかないフリをすることが、「母なる証明」なのである。フリであるだけに、ラストカットの埋もれ方それ自体が埋もれたままに際立ち、迫りあがってくるのだ。
 冒頭の野原での踊りは2度繰り返されるが、背景に退く野原に対してポジ像として現れる。バス車内のカットで乗客の踊りは、一人座る母に対してネガ像として現れる。そしてラストカットの踊りは、ネガポジ、つまりはなにものも背景に退くことなくかたまりとなって迫ってくる。
<追記>
 「真実の行方」(グレゴリー・ホブリット)を、ポン・ジュノが描くとこうなる。ウォンビンにエドワード・ノートンのような見得を切らせることはない。全てはなかったことにするのだ。
2009/11/01(Sun) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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