撮影監督の映画批評

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「四川のうた」(ジャ・ジャンクー)

<420工場>の工員たちが人生を語る時の表情や眼差しの美しさに感動しましたが、彼らは最初から心を開いてくれたのでしょうか。彼らの自然な表情を引き出すのにどんな工夫をしましたか。

正直なところ、取材はとても困難でした。実感として、(まず)あれだけの人数を取材した経験がなかった。でも大変だったのは、彼らが話してくれないことではなく、なかなか自分の話をしてくれないことでした。しかも勇気がないからではなく、自分を大事と思っていないからです。全体として生きてきた時代があまりに長くて、自分を大事な存在とは思えず、自分の話など聞いてどうする、と言いたげでした。それで他人の話ばかりになる。でも私が聞きたかったのは、一般の人である“あなた”の話だ。特殊な人生を聞きたいのでなく、一般的な“皆さん”の気持ちや普遍的な話が知りたいのだと伝えても、理解してもらえるまでに時間がかかりました。


OUTSIDE IN TOKYO / ジャ・ジャンクー『四川のうた』インタヴューより抜粋

 映画は、工場の引き渡し式典から始まる。合唱する労働者たち。その「全体」をとらえるキャメラ。
 そこに吹貫の螺旋階段をフィックスで俯瞰するカットが繋がれ、合唱の音響はやや遠くなる。式典をよそに、そこに在り続けてきた空間が示されている。その螺旋階段を上ってくる男。その男の上昇にともなって合唱の声が次第に遠くなっていく。
 キャメラがとらえた空間に依拠していると思われた音は、階段を上る男(おそらく最初にインタビューを受ける労働者)の主観であった。
 合唱から「“あなた”」の声へ。「全体」の記憶から個人の記憶へ。記憶のスパイラルを辿る映画。

 何度か繰り返される「工場の入口」を正対してとらえたカットのキャメラポジションは高く、光軸の水平を維持していると思われ、垂線に歪みがなく相応しい。同じようにとらえられた構図に「ミツバチのささやき」の家が想起される。
 本作はデジタルでの撮影のようで、軒並み窓外が白飛びしている。それがよくないと言いたいのではなくて、最初のインタビューの白く飛んだ窓に一瞬雨垂れを感じた。本当に見たのかどうか判然としないし、それがなんだと言われれば返す言葉もないが、見えたような気がするけれど、もう過ぎてしまい確認することができないものの魅力とでも言おうか。
 最後のインタビューは、成都の街を窓外に見下ろせる場所で撮影されている。途中黒みも挿んで同ポジションでインタビューはすすむのだが、窓外の光量がかすかに落ちていく。高速道路を走る車のブレーキランプがかすかに際立ってくる。このかすかな衰えが感動的である。これもかすかであるがゆえに、この衰えをとらえたのか否かが判然としない。そのように過ぎ去ったかどうかも判然とさせないままに過ぎ去るものの魅力。
 いわゆる黄昏時であり映画ではマジックアワーとも言うが、「四川のうた」ではもう一ヶ所、少女がローラースケートで不意にフレームインする屋上が忘れがたい。なぜ映画はローラースケートの少女をとらえるだけで、こんなにも人を感動させることができるのであろうか。(僕には全くわからない)

(前略)?彼女たちに演じてほしいとオファーしたが、みんなに断られてしまった。
女優たちが何を心配したかと言うと、「自分は役者だから、あれだけ労働者の人たちのリアルで自然な経験を語ることは出来ないだろう。自分の経験を語るわけではないのだから」とみんな心配しました。そんな彼女たちを、「登場人物のような自然さ求めて同化する必要はない。これは明らかにフィクションとして撮るのだからそれは心配ない」と説得しました。
(同上のインタビューから)



 「明らかにフィクションとして」撮られているのがわかる。とはいえ、女優たちが自然さへのアプローチを諦めたわけでもない。であるから尚更、何がそう見させるのかもわかる。
 フィクションとノンフィクションを隔てたのは、「労働者の人たちのリアルで自然な経験を語る」その自然さの優劣ではなく、キャメラの存在に対する態度である。
 ノンフィクション部分の登場人物にとってキャメラは常にそこにあるものであって、撮られていることを意識しているか、あるいは撮られていることを意識しないよう絶えず意識しているか、のどちらかであり、大抵揺らいでいる。
 フィクション部分の俳優は、撮られていることを意識している演技と、撮られていることを意識していない演技しかしていない。つまり撮られていることを意識しないよう絶えず意識している演技がないのである。もちろんそんなものは必要ない。だから「明らかにフィクションとして」撮られたわけだし、それゆえにその違いも明白なのだ。
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テーマ:映画レビュー - ジャンル:映画

  1. 2009/04/22(水) 23:44:28|
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著書

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Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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