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「ラースと、その彼女」(クレイグ・ギレスビー)
 等身大のリアルドールに恋するラース(ライアン・ゴズリング)を主人公とする設定は、マネキンに恋する主人公を描いた「マネキン」(マイケル・ゴットリーブ)と同じくピグマリオン的なものかとも思うが、同作のように人形が人間になることはない。
 むしろ「ハーヴェイ」(ヘンリー・コスター)の主人公にしか見えない身長2mのウサギがいつも側にいるという主張に近い。

 この3作品を比較してみる。
 「マネキン」では、マネキンが人間に変わることを観客とだけ共有させ主人公に感情移入させる。
 「ハーヴェイ」では、身長2mのウサギの存在は観客にも知らされない。しかし、周囲の無理解への反発から主人公に同情する。自分自身はさして変化せず周囲を変えていく、いわばカタリストヒーローである。
 「ラースと、その彼女」でなによりも特徴的なのは、周囲の人々である。「マネキン」「ハーヴェイ」をあげるまでもなくこの手の映画は周囲の無理解に孤軍奮闘する主人公に感情移入させるものであるが、そうではない。周囲の人々は、無理解どころかラースに同調してリアルドール=ビアンカを本物の人間として扱う。
 この映画の不思議な魅力はここにある。
 ビアンカがリアルドールでしかないことは重々承知の上で周囲の人々が、ビアンカ=人間という設定を受け入れるのは、「マネキン」や「ハーヴェイ」で、マネキン=人間、2mのウサギが絵空事なのは重々承知の上でその設定を受け入れ主人公に肩入れしてきた我々観客の感情移入と重なる。
 そう、周囲の人々に我々観客をみてしまう奇妙な感覚。
 「マネキン」や「ハーヴェイ」でその設定を否定してしまえば、そこで映画は終わってしまう。映画=嘘だとわかっていてその嘘に身を任せるから、物語が立ち上がる。
 「ラースと、その彼女」では、周囲の人々がラースの妄想だとわかっていて話を合わせるから、ラースの物語が立ち上がる。それが証拠に後半、ラース自身が物語を終わらせようとしているという主旨の指摘をバーマン医師( パトリック・クラークソン)がしなかったか。
 ラースの物語を享受する周囲の人々という物語を我々は享受する。

 
2008/12/23(Tue) | 映画感想 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
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『ラースと、その彼女』を見てきた
日曜日に宇部のシネマ・スクエア7でツマとともに『ラースと、その彼女』(クレイグ・ 椅子は硬いほうがいい【2009/05/25 13:56】
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