歩いても 歩いても
歩いても歩いても

 (ネタバレ注意)
 類型的な描写を、類型的ならざる案配で重ねることで、ユニークな作品に仕上げている。
 それぞれのキャラクターのそれぞれの行動そのものは類型的でありながら、重ねられる類型的な行動の振り幅がユニークなのだ。
 
 脚本家の君塚良一氏は、著書「脚本通りにはいかない!」で「なつかしい風来坊」(山田洋次監督)を採りあげ、以下のように述べる。

人には、そのときどきのシチュエーションで、優しくなり、人の気持ちを思えるときがある。逆に、疑い深くて人の気持ちを考えられないときもある。心とも言えるそれは、そのときどきで揺れ動く。わたしは、それを「心の幅」と呼ぶ。胸から二本の羽根が出ていて、それが開いたり閉じたりしているようなものだ。人の気持ちを思えるときは、その羽根が開いていて、心に幅がある。逆のときは、羽根が閉じて、心に幅がない。この映画は、二人のキャラクターのその羽根が開いたり閉じたりする様を見せ、それが笑いと感動を呼んでいる。


 「なつかしい風来坊」では、その心の羽根の開閉は物語の展開に資するよう案配されている。つまり開閉=振り幅は、物語がコントロールしている。
 一方、「歩いても歩いても」では、その開閉=振り幅はその都度、類型的な物語の進行を裏切る。つまり心の羽根の開閉をコントロールするのは、物語ではなく、持ち主であるところの人なのだ。
 例えば母(樹木希林)と良多の妻(夏川結衣)とのやりとりの、あの目まぐるしい振幅。そこには物語ではなく、人が描かれていた。

 だから、唯一残念に思われるのは、長男のかわりに生き残ったヨシオ君なのだ。なぜあそこまで類型的人物にしなければならなかったのか。もっとニュートラルにして、それだからこそ親子の視点の違いで受け取り方が変わる、そのような人物像にすることはできなかったのか。もちろんそうすることで、笑いがなくなってしまうかもしれない。しかし、あそこだけやけに大きな顔をした物語が、シーンを支配していた気がしたのだ。
2008/07/01(Tue) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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