撮影監督の映画批評

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ぐるりのこと。

ぐるりのこと

 (ネタバレあり)
 カナオ(リリー・フランキー)が法廷画家となり獲得していったものは、対象に対する距離のとり方、つまり自分という主体のたちあがるその仕方。
 法廷画家によって描かれる絵に意味はない。どれだけ重大事件の裁判であろうが、絵そのものに意味はない。意味は無いが必要とされる。
 カナオは、意味はないが必要とされる絵を描く為に、重大な意味があるとされる事件の被告人と距離をとる。それは、絵を描く為に必要な距離であり、カナオ自身がたちあがる為に必要な距離。
 何事もきちんと決めなければ気のすまない翔子(木村多江)のその意味を求める近すぎる距離とも、以前のカナオの逃げて見ようとしない距離とも異なる。

 意味のある絵を描こうとするのでもなく、かといって描かないのでもない。
 意味はない絵だけど描く。
 その距離感。
 たちあがる、「ぐるりのこと。」を見るということ。
 たちあがる、そのように「ぐるりのこと。」を見る私。

 翔子は、意味のある絵(天井画)を描けたから再生できたわけではない
 意味のない法廷画であろうが、意味のある天井画であろうが関係ない、絵を描く為に対象を見つめること、対象=「ぐるりのこと。」から身を引き離し距離をとること、意味があるとすれば、それは対象にも絵にも求められるものではなく、その距離感にこそ求められるべきであり、なぜならそこでこそ個がたちあがるからだ。
 翔子は「ぐるりのこと。」を見ることで、自分を取り戻していく。
 かつて日本画を描いていたカナオが、全く卑下することなく翔子の天井画を見ることができるのは、何に意味があるかをすでに知っているから。
 ラストその美しさに感動するのは、天井画ではなく、天井画を横になって見上げ同じ距離で見つめることでたちあがる夫婦である。
 
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テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/06/19(木) 22:40:07|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5
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コメント

バランス

久しぶりにコメントさせていただきます。
なるほど、距離を取ることは生きるバランスなんですね。ちょっと雰囲気が変わってしまう例えですが、昔、戸塚宏が、なぜ不良少年を更正させるのにヨットなのかを問われ、「ヨットの上で左右のバランスを取ることで右脳と左脳のバランスが取れるようになる」と言っていたことを思いだしました。「あいつらは右脳が強過ぎる」と。身体で取る心のバランスというのはあるのでしょうね。
僕の経験では、絵を描くのは対象に近づきすぎている時で、むしろアツくならないと絵という物を描かない。したがってバランスという意味ではくずれている時といえます。ぐるりの夫婦はそれが仕事だったから程よい距離を取ることが出来たのかも知れないと思いました。

いつも、他では見られない解釈、楽しみにしています。
ところで久しぶりにDPMNさんに観ていただきたい映画を観ました。『ミラクル7号』というファンタジーです。素晴らしい映画です。各シーンの画がまた素晴らしいのですが、その映画で、校門の柵越しに語り合う男女のシーンのカットにハッとする不思議なものがありました。ハッとしたのに明確な意図が分かりません(単純に特に意図のない生理的なカットなのかもしれませんが)。そんなときは、DPMNさんならどう解釈するのか気になってしまいます。
いずれにしろ、(素人目にも)映画技巧的にもとても優れた作品に思えましたので、DPMNさんの感想が聞きたくなりました。
もう新宿の1館しか残っていませんが、機会がありましたらぜひ。感想を聞かせていただきたいと思います。
  1. 2008/07/26(土) 10:33:41 |
  2. URL |
  3. keetz #glY25zV.
  4. [ 編集]

> keetzさん

コメントありがとうございます。

>僕の経験では、絵を描くのは対象に近づきすぎている時で、むしろアツくならないと絵という物を描かない。

心理的な距離が近づきすぎていても、実際絵を描くための像を捉えるのに物理的距離は必要です。心理的距離の長短にかかわらず、実際描く段になれば、対象に対してある程度の物理的距離をとらなければなりません。心理的距離が近いから対象に近づくのでは、対象の全体像をとらえることができませんし、心理的距離が遠いから対象から遠ざかるのだとしたら、よく見えません。
描くために、見ることが必要で、その見るという行為には適当な物理的距離を必要とする。この描くことに伴う見ることが要請する距離、これが狂ってしまった心理的距離感を矯正してくれたのだと思います。翔子の場合はクールダウンさせてくれたのだと思います。

「ミラクル7号」観ています。面白かったですね。
校門の柵越しのシーンとは、お父さんと先生のところですよね。二人が柵越しで別れた後、先生はふと立ち止まって振り返るのですが、去って行くお父さんの背中を見送って、また歩き出し、シーンが終わったと記憶しています。これが、後のお父さんの事故を予感した振り返りのようでいいんですよね。もちろん事故があって、事後的にそうとれるのですが、そのように後から意味合いを変えることのできる可塑性は、それだけで魅力です。
ハッとされたことの理由ではないと思いますが、同じシーンでそのように感心しました。
  1. 2008/07/26(土) 20:29:56 |
  2. URL |
  3. DPMN #-
  4. [ 編集]

心理的に近づきすぎていたとしても、絵を描くために物理的距離を取るようになり、それが心理にも影響するということですね。補足ありがとうございます。

ミラクルもご覧になってたんですね。いい映画でした。
正にその、お父さんと先生のシーンでした。そしてハッとしたのは、お互いの背後から肩越しに相手を見るカメラでした(父の背後から先生、先生の背後から父)。肩越しで、しかもそれぞれ、相手の目から下は肩に隠れて見えないショットでした(そこが不思議でした)。相手の目の表情を強調したかっただけなのでしょうか。またいつか再鑑賞してみます。
ありがとうございました。
  1. 2008/07/26(土) 22:33:39 |
  2. URL |
  3. keetz #glY25zV.
  4. [ 編集]

>keetzさん
肩ナメのカットバックだったんですね。なんとなくわかる気がします。
keetzさんの説明と、うろ覚えの記憶で暴走すれば、柵越しのカットバックにおいて二人を隔てている柵が相手を遮り強調されるのに対して、肩ナメのカットバックで相手を遮るものは、柵ではなくそれぞれ手前の人物であるということに何かある気がします。さらに暴走すれば、二人を隔てていたと思われた柵とは、実はそれぞれ当の本人たちであったと。物理的な距離(障害物=柵)が心理的距離(障害物=当人)にトランスレート(スライド)されたのだと。
あるいは、柵の消失、障害物の消失かもしれません。そうすると、解釈は全く逆になってしまいますけど。
  1. 2008/07/27(日) 11:11:05 |
  2. URL |
  3. DPMN #-
  4. [ 編集]

>さらに暴走すれば、二人を隔てていたと思われた柵とは、実はそれぞれ当の本人たちであったと。物理的な距離(障害物=柵)が心理的距離(障害物=当人)にトランスレート(スライド)されたのだと。

暴走どころか謎解けそうです!
一見、道路と校内を隔てているだけの校門。
父親は柵のすき間から腕をのばして構内の先生に感謝の握手。
そこで二人になんとなくお互いへのほのかな感情が芽生える。
でも実は二人を隔てていたのは校門という物理的なものではなく、
無理して進学校に息子を通わせるくたびれた貧乏親父と、その進学校の若くて奇麗な先生という“身分”が生む心理的なもの。
ととれますね。

これが正解かはわかりませんが、勝手に腑に落ちました。今回も伺ってよかったです。
ありがとうございました。
  1. 2008/07/28(月) 19:27:01 |
  2. URL |
  3. keetz #glY25zV.
  4. [ 編集]

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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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