
世評の高いペドロ・コスタ作品をただの1つも観ていなくて、「コロッサル・ユース」が初になる。なので退屈だったとも、すばらしかったとも言うのが躊躇われるのは、映画のせいではない。
どちらとも言えない自分に言えることだけ言いましょう。
自然光のみで撮影されたと言われているが、決してライティングされていないわけではない。自然光のみとは、俄に信じがたいのだが公式サイトでのインタビューで、「8枚とか9枚の鏡やレフ板を配置するだけで、光を取り込むのに使えたのはそれが全て、あとは窓やドアの近くで撮影するようにしました」と語られているように枚数としては相当量のレフと鏡はあったようだ。おそらく自然光を鏡やレフを複数リレーするかなり不自然なルートで使用していると思われる。というのもそのライティングは、実にPhilip‐Lorca diCorciaのそれと似ていて、いわゆる日中シンクロのようなスポット感のある人工的で計算されたものだからだ。光線の角度からして人物にスポットされる、自然光が光源だと言われる光は、幾枚かの鏡を経由した不自然光にちがいない。(以下、Philip‐Lorca diCorciaの作品)

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またローアングルで広角気味に捉えられ、しかもバックが壁一面であったりして奥行きを欠くので気づきにくいが、要所でダッチアングルを使っている。ダッチアングルと気づかせずに構図に影響を与えるフレーミングは難しい。
ベントゥーラの格好はみすぼらしく、汚い。
部屋を案内する男は、ベントゥーラの触った壁の汚れを気にし、美術館ではベントゥーラの立ち去った後の床が掃われる。その一方で、何度かベントゥーラの背広の汚れが掃われもした。
汚れに対するその対応が、ベントゥーラとの関係性を物語るわけで、この演出のわかりやすさ自体は実にオーソドックスなのだが、そのわかりやすさが何かの助けになるのかと問われれば、何の助けにもならない。オーソドックスなものの背景を失ったあり方が、ペドロ・コスタのヘテロドックスなのかもしれない。
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