封切り映画ばかりのレビューでは息苦しいので、たまには旧作の話も。
「フィールド・オブ・ドリームス」を再見して、大泣きする。
途中、レイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)は声に導かれ、1試合出場しただけで球界を去ったムーンライト・グラハム(バート・ランカスター)を探すことになるが、彼はすでにこの世の人ではなかった。だが、なぜか死んだはずのシューレス・ジョー(レイ・リオッタ)が彼のもとに現れたように、グラハムも現れる。レイは、グラハムをアイオワに連れ帰ろうとするが、医者として、愛する妻の夫として、この地を離れることはできないと固辞される。仕方なくアイオワへと戻るレイが、途中ヒッチハイクをする青年を拾うと、それは若き日のグラハムであった。
この若いグラハムは、球場にやってきたシューレス・ジョーら、自らが幽霊だと自覚している幽霊とは、あきらかに異なる。年老いたグラハムにしても、やり残したことがあることには変わりない。
青年グラハムは、他と違ってまだ挫折を経験していない幽霊なのだ。
そしてラストに現れるレイの父親。彼もまた希望に満ちあふれた、いまだ蹉跌を知らない若者である。
この二人の、この世に未練を残す前に現れる幽霊の顔に、観客は想いをのせずにはいられない。
もしかすると、これから自分がどうなるのか知っているのかもしれない。
そう考えずに見ることは難しい。しかし、彼らがそれを知っているかどうかは、我々にはわからないのだ。
それと同じ感覚は「ペパーミント・キャンディー」のラストでもある。観客は、主人公キム・ヨンホ(ソル・ギョング)の歩む道のりを、時系列を逆転して見せられる。
回想主のいない回想。あるいは「ふくろうの河」で死ぬ間際に見られた夢のごとく回想されたもの。
ラストシーンでのヨンホもまた、「フィールド・オブ・ドリームス」の青年グラハムのように、これから待ち受ける出来事など何も知らない。しかし、ここでもまた我々観客は、それに気づいているヨンホという想像を止めることができない。
監督のイ・チャンドンは、現在から過去に遡るストーリーに沿って撮影している。本来であれば、時系列に従い過去のラストシーンから撮影し、現在のファーストシーンを最後に、それから編集上でひっくり返せばよいはずである。なぜ、そのようにしなかったのか?
ラストシーンのこれから起ることを何も知らないはずのヨンホを、これからヨンホに起ることをすでに演じ終えたきたソル・ギョングに演じさせるためである。すでに役として知ってしまった役者が、それをいまだ知らない役を演じなければならない。ヨンホは未だ知らない。が、ソル・ギョングはすでに知っている。
観客は、グラハムやヨンホを見ながら、そこに我々を見てしまう。我々もまた、これから自身に何が起るかなど知る由もない。そうでありながら、どこかで知っているのかもしれないと思う自分を否定しきれないのではないだろうか。もちろん知っている必要などない。知っている人などいないのだから。知っているか知らないかは、どこかで知っているのかもしれないと思うことと全く関係がないのだ。
「フィールド・オブ・ドリームス」を再見して、大泣きする。
途中、レイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)は声に導かれ、1試合出場しただけで球界を去ったムーンライト・グラハム(バート・ランカスター)を探すことになるが、彼はすでにこの世の人ではなかった。だが、なぜか死んだはずのシューレス・ジョー(レイ・リオッタ)が彼のもとに現れたように、グラハムも現れる。レイは、グラハムをアイオワに連れ帰ろうとするが、医者として、愛する妻の夫として、この地を離れることはできないと固辞される。仕方なくアイオワへと戻るレイが、途中ヒッチハイクをする青年を拾うと、それは若き日のグラハムであった。
この若いグラハムは、球場にやってきたシューレス・ジョーら、自らが幽霊だと自覚している幽霊とは、あきらかに異なる。年老いたグラハムにしても、やり残したことがあることには変わりない。
青年グラハムは、他と違ってまだ挫折を経験していない幽霊なのだ。
そしてラストに現れるレイの父親。彼もまた希望に満ちあふれた、いまだ蹉跌を知らない若者である。
この二人の、この世に未練を残す前に現れる幽霊の顔に、観客は想いをのせずにはいられない。
もしかすると、これから自分がどうなるのか知っているのかもしれない。
そう考えずに見ることは難しい。しかし、彼らがそれを知っているかどうかは、我々にはわからないのだ。
それと同じ感覚は「ペパーミント・キャンディー」のラストでもある。観客は、主人公キム・ヨンホ(ソル・ギョング)の歩む道のりを、時系列を逆転して見せられる。
回想主のいない回想。あるいは「ふくろうの河」で死ぬ間際に見られた夢のごとく回想されたもの。
ラストシーンでのヨンホもまた、「フィールド・オブ・ドリームス」の青年グラハムのように、これから待ち受ける出来事など何も知らない。しかし、ここでもまた我々観客は、それに気づいているヨンホという想像を止めることができない。
監督のイ・チャンドンは、現在から過去に遡るストーリーに沿って撮影している。本来であれば、時系列に従い過去のラストシーンから撮影し、現在のファーストシーンを最後に、それから編集上でひっくり返せばよいはずである。なぜ、そのようにしなかったのか?
ラストシーンのこれから起ることを何も知らないはずのヨンホを、これからヨンホに起ることをすでに演じ終えたきたソル・ギョングに演じさせるためである。すでに役として知ってしまった役者が、それをいまだ知らない役を演じなければならない。ヨンホは未だ知らない。が、ソル・ギョングはすでに知っている。
観客は、グラハムやヨンホを見ながら、そこに我々を見てしまう。我々もまた、これから自身に何が起るかなど知る由もない。そうでありながら、どこかで知っているのかもしれないと思う自分を否定しきれないのではないだろうか。もちろん知っている必要などない。知っている人などいないのだから。知っているか知らないかは、どこかで知っているのかもしれないと思うことと全く関係がないのだ。
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線路が象徴の「ペパーミント・キャンディー」の撮影は、そういうことだったのですね。タイトルがいっそうよく思えてきますし、ソル・ギョングの役者としての力にかかること大だった作品ですね。
「フィールド・オブ・ドリームス」は何度か観ているのにおしまいのころしか印象に残っていないのは、私の役者の好みによるものだと思います。
線路が象徴の「ペパーミント・キャンディー」の撮影は、そういうことだったのですね。タイトルがいっそうよく思えてきますし、ソル・ギョングの役者としての力にかかること大だった作品ですね。
「フィールド・オブ・ドリームス」は何度か観ているのにおしまいのころしか印象に残っていないのは、私の役者の好みによるものだと思います。
by: rin * 2008/02/23 02:50 * URL [ 編集] | page top↑
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> rinさん
コメントありがとうございます。
誰もが死にむかって生きているにもかかわらず、これほど実感できない/したくないことはありません。
そんな我々の姿に酷似している登場人物だと思うのです。
「生きる」(黒澤明)のように、生が有限だと気づく人を主人公に据えられるよりも、気づかない人を見せられるほうが、切実に感じます。
線路の映像は、ハッとさせられますよね。いきなりそうだとわかるあからさまでなく、逆回だとわかるまでの遅れが魅力だと思います。
> rinさん
コメントありがとうございます。
誰もが死にむかって生きているにもかかわらず、これほど実感できない/したくないことはありません。
そんな我々の姿に酷似している登場人物だと思うのです。
「生きる」(黒澤明)のように、生が有限だと気づく人を主人公に据えられるよりも、気づかない人を見せられるほうが、切実に感じます。
線路の映像は、ハッとさせられますよね。いきなりそうだとわかるあからさまでなく、逆回だとわかるまでの遅れが魅力だと思います。
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