
すべて少女オフェリア(イバナ・バケロ)の幻想だったのかあるいは・・・というラストは、鮮やか。
露骨な夢オチ、妄想オチというのは、なぜか一般にはやたらに忌み嫌われるので(ちなみに私は大好きなのだが)、夢オチととれなくもない(例えば夢オチ映画の名作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」)という形でゲリラ戦を強いられているのが現状である。(夢オチファンにとっては、長い暗黒時代。というか、かつて暗黒じゃなかったことなどないではないか。そもそも夢オチファンって・・・)
本作を単に夢オチと片付けるには抵抗があるという感想を抱かせた本作は、夢オチファン待望の救世主ではないか。(夢オチファンって・・・)
夢オチ作品の夜明けは近い。(と思ったらこれもまた夢だった)
夢オチであることで、それまで観てきたものに意味がないとして憤る観客も、夢オチであるからこそ意味がある「パンズ・ラビリンス」には、何も言えない。
「いいぞ!ギレルモ・デル・トロ!」
話頭を転じ、ギレルモ・デル・トロの演出の確かさについて。
オフェリアに食べていけない葡萄を食べさせる。しかもオフェリア以外の誰もが絶対に食べてはいけないとわかるような、オフェリア以外の誰もがそこで食べようとするなんて信じられないと思うようなシチュエーションであえて食べさせている。「私もオフェリアだったら食べたかもしれない」などと思う観客は皆無であろう。
これがオフェリアの幻想だからという理由以外、(まぁ食事を抜かれてお腹が減っていたという解釈もできるが、それにしても度を越している。)物語上の要請としても理屈にあわない。オフェリアだって、それくらいわかるはずである。もちろんギレルモ・デル・トロは、百も承知である。では何故?
つまりオフェリアに感情移入/自己投影している観客に、「私だったら絶対食べないのに」と苛立たせるための演出の要請なのだ。
すると、怪物が背後で動き出すに及び、「ほらみたことか」となる。ここから先は「言わんこっちゃない。はよ逃げぇ!」ということになる。
天井にチョークでドアを書くくだりに至っては、「何で天井やねん!あーー!」
完璧。
オフェリアの鏡像でもあるメルセデス(マリベル・ベルドゥ)も同じく、ビダル大尉(セルジ・ロペス)をナイフで刺す際になぜか息の根を止める事をしない。これはまぁ、キャラクターの要請だとも言えなくはないが、観客に「私だったら」と思わせるには十分である。
追っ手が迫るに及んで「ほらみたことか、言わんこっちゃない」となるのは同じ。
どちらも(オフェリアは自力だけど)ラストミニッツレスキュー。
観客が「私だったらそうしない」と思うことこそ、させなければならないのだ。
サスペンスの醸成は斯くのごとくなされる。
サスペンスは、観客に感情移入/自己投影させた登場人物と観客との距離感に依存するのだ。
それは危険な作品世界と安全な観客席との距離感というわけではない。そのようなことであれば、どの映画でも描かれる作品世界は多かれ少なかれ観客席とは異なるのだから、おしなべてサスペンスフルということになってしまう。(危険かどうかは関係ない)
サスペンスは、感情移入した作中人物/観客になりかわって行動する作中人物が、観客の思いどおりに動かない時にこそ発動する。その意の侭にならなさ加減の振幅が、大きければ大きいほどサスペンスフルだと言えるのだが、もちろんその大きさにも許容があって、その大きさに耐えられるだけの感情移入がなされているかが問われるのだ。サスペンスの巨匠、ヒッチコックが、サブジェクティブトリートメントを重要視していたのも故なき事ではないのである。
この前フリがあって、ラストの決断が観客にも迫ってくる。「弟を差し出せ」というパン(ダグ・ジョーンズ)に対し、前と違って観客は「私だったら・・・」と歯切れはよくないはずである。
結末を知るに及んで「・・・」
ラストミニッツ・・・
このコントラスト。
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