
復讐に至る原因となる事件が冒頭すぐに描かれるのだが、観客をエリカ(ジョディ・フォスター)に感情移入させる充分な描写になっているのが巧い。
暴漢にただ襲われるのではなく、それがビデオで撮影されるに及び観客は否応なくこの復讐劇の世界に入り込む。なぜか?
この許せない暴挙を撮影しているのが、「ブレイブワン」の撮影監督フィリップ・ルースロ(厳密に言うと彼のオペレーター)ではなく、登場人物である暴漢だからである。(もちろんそれも厳密に言えばオペレーターが撮影しているのであろうが)
いまだ映画の外にいる観客が、観客席に身を沈めスクリーンを見つめる。予告編が始まり、本編が始まる。いつ観客は映画の中に入るのか?
「撮影されたものとしての映画」として見られている限り、依然として映画の外=観客席にいる冷静な観客のままである。
が、ビデオで撮影された許されざる暴行を見る観客のフレームは、その時すでに映画の中にシフトしているのだ。
映画というフレームを忘れさせる為のフレーム内フレーム。
「撮影されたものとしてのビデオ映像」を撮影されたものとして見られることがない限り、観客はすでに映画の中にいる。
これは登場人物のPOVが、観客を感情移入させるのに極めて効果的であることと同根である。
婚約者が犬を連れてくる間、アパートの入口でひとり待つエリカの背中を、カメラは内側から外向けでドアのガラス窓で矩形に切り取っているのは、幸せの最中に来たりくるものを先取りしているようで素晴らしいカットになっている。
幸せだった主人公が不幸な事件に巻き込まれ・・・というようなストーリーを語るときに、ただシーケンシャルに描写するのではなく、このように予感させるようなカットをストーリーの要請とは関係なく紛れ込ませるセンスを映画的だとしたい。
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