撮影監督の映画批評

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岡崎体育『MUSIC VIDEO』から考える



--このMV制作のアイデアが出たきっかけはなんでしょうか?

岡崎体育: 2010年代において、予算や費用の少ない中で活動するインディーズアーティストが知名度を上げるためには、ハイクオリティで類を見ないミュージックビデオのアウトプットが最も重要だと考えています。それを念頭においた上で色々な打ち出し方を探りましたが、結局もう「ミュージックビデオのことそのまま歌にしたら面白いんちゃうかな」というメタ表現に行き着きました。 きっかけとかは特になく、急にフワッとそういう方向に行き着きました。

SENSORS:岡崎体育「MUSIC VIDEO」MVの"あるある"をMVに 制作のきっかけとは

本人もメタ表現と言っているようにシニカルな視点が面白く、随分と話題になっているようである。これを見て思ったのは、「予算や費用の少ない中で活動するインディーズアーティストが知名度を上げるため」にこれから作られようとするMVが、いわば失語症のようなものに陥るのではないかということだ。

 私たちは、思想内容をいくら批判されてもこたえないが、思想を語る言葉遣いを批判されると一言も返せなくなる(おそらく、「文体」がバルトの言うように生物学的に刻印された私たちの宿命、私たちの「牢獄」だからである)。「言葉遣い」についての批判に反論しようとするとき、私たちは反論そのものが批判者の正しさを確証することしかできないことに気づく。つまり、その「パターン」をすっかり見透かされてしまった語法によってしか、自分が語り得ないということに気づくからである。
 才能のある論争家はこのこと直感的に知っている。例えばサルトルがそうだ。サルトルはモーリアック、メルロー=ポンティ、カミュと、論敵たちの「言葉遣い」をあげつらって、彼らを次々と失語症に追い込んでいった。

内田樹『ためらいの倫理学』角川文庫


とはいえ、MVはこれからも岡崎体育が歌った「パターン」で撮られていくにちがいない。なぜなら人は、自分がシニカルに笑った当のそのもので、感動することができるからだ。
ここで思い出されるのが、『くりぃむしちゅーのたりらリラ〜ン』という10年前のバラエティ番組内での1コーナーである。

クイズよくあるパターン ベタの世界
100人のアンケートに基づいて作られたベタなドラマを観ながら次の展開を予想するクイズコーナー。最下位にはベタな罰ゲームが待ち構えている(インパルスの堤下敦の時は、1回目は時間の関係で、2回目は番組側から堤下へのボケとして、罰ゲームのシーンがカットされていた)。後期には番組のメインコーナーとなった。
ドラマの内容は、テーマに基づいたベタなシーンが連発するストーリーで、登場人物がベタな演技ややりとりを見せる。各ドラマのタイトルは過去のヒットドラマなどをモチーフにしたものになっている。ドラマの途中の何ヶ所かで「アンケートによるこの後のベタな展開第1位は?」というクイズが出題され、解答者がそれぞれこだわったベタな展開を予想する。深夜番組の1コーナーにもかかわらず有名俳優が出演し、作品のクオリティも高かった。出演者はドラマのベタな展開に共感したり、ツッコんだりしながらのめりこみ、恋愛ベタドラマのエンディングでは感動して泣く出演者もいた。特に『101回目のベタポーズ』では、ゲスト解答者やこれまで泣くことのなかった関根勤も感動して泣いていた。

引用 - Wikipedia


ベタドラマで笑っていたはずの同じ「パターン」で泣かされることがある。いくらシニカルな笑いにされようとも、「パターン」をすっかり見透かされてしまった語法によってしか語れなくとも、ドラマが失語症に陥ることはない。
なぜなら、ベタであっても、ベタだとわかっていても「いつのまにか」そのベタに涙することを知っているからである。

メタレベルからシニカルに眺めていたはずが、「いつのまにか」感情移入し、オブジェクトレベルで感動する。その「いつのまにか」見る人の視点を誘導するテクニックこそが重要なのであって、描かれるものがベタであるかどうかはさして重要ではない。(その視点誘導の語法こそがベタだと言われればそれまでだが……)

ジム・ジャームッシュは、映画撮影の黄金法則の中で、ジャン・リュック・ゴダールの次の言葉を引用している。

“It’s not where you take things from – it’s where you take them to.”
重要なのは君がどこから物事を持って来たかではなく、どこへ持っていくかだ






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  1. 2016/04/28(木) 17:10:56|
  2. 演出
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『レヴェナント 蘇えりし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)

Alexa 65に24mm(35mmセンサーで12mm相当)、Alexa M(35mmセンサー)に12mmのワイドレンズで、時にマットボックスがレオナルド・ディカプリオの顔にあたりそうになるくらい接近して撮影されたという長回しは、圧巻である。

'The Revenant': Inside the Film’s Cold, Wet, Dirty, Determined Production

被写体との距離が常に3feet以内という極端な接写での長回しは、大自然の中でのサバイバルを描くのにこそふさわしい。
キャメラが、ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)に寄り添えば寄り添うほど、彼を取り巻く大自然との距離が強調され、観客も共に疎外され、その大自然/距離に圧倒される。
ただワイドレンズの接写ということだけでなく、それが長回しであることで、キャメラは文字通り被写体を舐めるように移動し、背景の大自然はそのパララックスでダイナミックに変化する。

誰も見たことがない映像の語り口(ワイドレンズで被写体に限りなく接近した長回し)と語られる内容(大自然の中でのサバイバル)が見事に一致した映画である。が、しかしグラスが蘇えりし者となり、後半パラレルモンタージュで描かれるジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)との追いかけになるとやや様子が異なってくる。

大自然から疎外された人間を魅力的に捉えていたワイドレンズには、見るべき距離が被写体と背景の間にあった。被写体(グラス)と背景(自然)との葛藤がドラマだったのだ。
しかし、パラレルモンタージュで描かれる距離は、被写体と背景の間ではなく、被写体同士の間にあり、ワイドレンズで捉えられる大自然は、残念ながらただの背景として退いてしまう。そこでは被写体同士(グラスとフィッツジェラルド)の葛藤が見るべきドラマになるからだ。

背景が背景であるがままに表面に出てくる、とでも言えそうな長回しで捉えられたグラスvs自然に対し、パラレルモンタージュで捉えられるグラスvsフィッツジェラルドを取り囲む自然は、他の映画同様背景にすぎず、後半になって普通の映画になってしまった感は否めない。

とはいえ、今まで見たことのない映像それだけで、やはり見られるべき映画ではある。





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  1. 2016/04/27(水) 20:24:24|
  2. 映画感想
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『ちはやふる 上の句』(小泉徳宏)

チームプレイを描く青春部活ものというのは、おおよそ物語構造が似通っていて、それだけに採り上げられる部活動が、その映画のカラーを決める。
男子シンクロ部『ウォーターボーイズ』やボート部『がんばっていきまっしょい』、俳句部『恋は五・七・五!』やロボット部『ロボコン』など、運動系、文科系に限らずマイナーなものが好まれるのは、伊丹十三的な着眼点のユニークさ、それ自体が売りになるからだ。
しかし一方、ある意味語り尽くされた感のあるこのジャンルで、物語/語り口で差別化/勝負することを逃げているとも言えなくない。つまり消極的な選択であって、どうしてもその部活動でなければ描けないものではないケースが散見される。

マイナーであればあるほどセンスがあるかのように勘違いした作品が、手を替え品を替え量産される中、競技かるた部をとりあげた『ちはやふる』は、マイナーであるからという理由ではなく、映画的な選択であるという理由で秀逸である。つまり積極的な選択であって、競技かるた部でなければ描けないものを描いている。
もちろん人気漫画原作『ちはやふる』の競技かるた部は、映画のためになされた選択ではない。しかし、他の部活動を描いた原作ではなく、競技かるた部を描いた『ちはやふる』という原作を選択したことが、あるいはこの映画化は映画になると判断したことが、すでに映画的なのである。
では、なぜ競技かるたが映画的なのか?

シネスコのフレームいっぱいにスローモーションで捉えられるにたるアクションだからである。
以下、その考察。

乱発され、いささか食傷気味ではあっても、スローモーションが映画的な表現であることは論を俟たない。





競技かるたは「畳の上の格闘技」とも形容されるように、札を払う一瞬のアクションは、他のスポーツが見せる一瞬のアクションに比肩する。それどころか映画的には、どのスポーツよりもスローモーションに適している。

1)札を払うアクションが、水平の動きである
映画というメディアは、横長のフレームを持つ以上、垂直方向の動きより水平方向の動きに親和性が高い。だから、ありえないと言われようが『ロッキー』のパンチは大振りでなければならないのだ。

とはいえ水平のアクションを持つスポーツは他にいくらでもあるではないかと言う人がいるかもしれない。

2)アクションと顔を同時に捉えることができる
ほとんどのスポーツが、その水平のアクションを中心にフレーミングすると、アクションに合わせ引いた画になってしまう為に顔にクロースアップできないか、あるいは逆にアクションに合わせ寄った画になってしまい顔がフレーミングできない。つまりアクションの瞬間のスローモーションは、アクションか、その瞬間の顔のクロースアップかの二者択一になってしまう。
しかし競技かるたのように顔の前を水平にアクションが横切れば、アクションも、その瞬間の顔も、それぞれベストなフレーミングで同時に捉えることができる。

では、ボクシングはどうか? 顔をクロースアップで捉えつつ、パンチも水平に繰り出されるではないか。ボクシングの他にも『ピンポン』(曽利文彦)がそうだ。

もちろんボクシングは映画が飽くことなく描くスポーツのひとつである。しかし映画に愛されるスポーツ、ボクシングにもできないことが競技かるたにはできる。 

3)全身もまた同時にフレーミングできてしまう
競技かるたの畳を這うように構えるその姿勢は、まるでシネマスコープの高さに合わせるかのようである。全身がフレーミングされ、かつフレームを横切るアクション、さらに顔のクロースアップを同時にとらえられるスポーツが他にあるだろうか?
腕のスイングであろうと全身を使わなければならないのは、ボクシングも競技かるたも同じである。競技かるたであれば、全身で札を払うそのアクションを、キャメラを引くことなく、1カットにおさめることができる。

以上のようなことから逆に、机くん(森永悠希)の肩に手をかける4人の手だけを見せ、顔を見せないという演出が効いてくる。

4)かるたの飛び散る様
スローモーションはしばしば爆破や着弾の一瞬を引き延ばし、飛び散るパーティクルを見せる。『ちはやふる』では、破片の代わりにかるたが飛び散る。
その登場自体がスローモーションのように引き延ばされた千早(広瀬すず)の屋上での初登場シーンもまた、スローモーション。ここでは桜の花びらが、かるたの代わりに飛び散っている。

5)静と動のコントラスト
動の中にインサートされるスローモーション(引き延ばされた動)ではなく、静に続くスローモーション(動)。これはジョン・ウー的なメキシカン・スタンドオフに続くスローモーションに近い。
一瞬のアクションの後、白目を剥いて倒れる広瀬すずは、メキシカン・スタンドオフというより、むしろ一瞬の居合斬りの後、納刀する座頭市の勝新太郎を彷彿させる。そもそも耳へのクロースアップ、「音になる前の音」を聴きわけ一瞬で雌雄を決するあたりが座頭市である。まぁ、勝新の座頭市では居合斬りにスローモーションは使っていなかったと思うが。





文系の部活にみえて運動系、横長のフレームに過不足なくおさめられるアクションと顔、スポーツの絶え間ないアクションではなく膠着の静から一撃の動、砕け散るパーティクル、映画がスローモーションで捉えてきた多くの要素を兼ね備えたアクションが競技かるたにあったのだ。

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  1. 2016/04/18(月) 20:58:37|
  2. 映画感想
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『ルーム ROOM』(レニー・アブラハムソン)

(ネタバレあり)

オールド・ニック(ショーン・ブリジャース)に監禁され、自由を奪われたジョイ(ブリー・ラーソン)は、そこでジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)を出産する。
ジョイは、「外の世界」を知ることのできないジャックのために、「ルーム」の中をホンモノの世界だと教え、TVや天窓のフレームから垣間見える「外の世界」はニセモノだというフリをする。
しかし脱出をひかえ、ジョイは今までフリをしていただけだとジャックに教え諭すのだった。


「外の世界」を知らなかったジャックが戸惑いながらも順応していくのとは対照的に、「外の世界」を知っているはずのジョイが心を閉ざしていく。医師が言うようにそれは、大人と違って子供がプラスチック(柔軟)だからだろうか?


脱出前のジョイにとって「ルーム」の中の世界は、オールド・ニックに強いられた、いわばニセモノで、「外の世界」こそがホンモノである。
が、ジャックのために「外の世界」がニセモノだというフリをしていて、そのフリが本当になってしまうのは、ジャックではなく、実はジョイの方なのだ。

脱出後のジョイにとって「外の世界」は、オールド・ニックに奪われた、いわばニセモノで、ジョイが思い描く「もしオールド・ニックに出会わなかったら」という仮想世界こそがホンモノになる。
つまりジョイは、「ルーム」の中にいても、外にいても、今いる場所がニセモノ(ルーム)で、ホンモノ(世界)は常にその外にあると考える。
一方ジャックはというと、「ルーム」の中にいても、外にいても、今いる場所がホンモノで「世界」なのだ。


脱出前、ジョイは「ジャックのため」に、「ルーム」が「世界」だというフリをしていた。しかし「ジャックのため」というのは口実で、本当はジョイ自身が「ルーム」を耐え抜くために必要なフリだったのだ。

脱出後、ジョイにはフリをする口実がなくなってしまう。彼女にとって「世界」はニセモノ(ルーム)のままにもかかわらず、もはやホンモノのフリをすることができない。それに耐え切れず、彼女は命を絶とうする。


ジョイが救われるには、「ルーム」もまた、ホンモノ(世界)だったと受け入れる他ない。
ジャックは、ジョイを促し再び「ルーム」を訪れる。ジャックは、あまりの変りように、この「ルーム」はホンモノかと訊ねる。ジョイは、どんなに変わり果てていようと(どんなに過酷な世界であろうと)それはホンモノだと答える。そう口にして初めて、「ルーム」にさよならを告げることができ、真に「ルーム」から立ち去ることができるのだ。


ジョイと「ルーム」の関係は、観客と映画の関係に類比的である。観客もまた、映画(ルーム)を映画監督によって語られたフィクション(オールド・ニックに強いられたニセモノ)だと知っている。しかし映画を見ている間(ルームの中にいる間)は、それを知っていて、映画の中で生きるフリ(ホンモノの世界を生きるフリ)をする。
しかし「いつのまにか」そのフリでしかなかったものが、本当になる。
ジョイが、ホンモノのフリでしかなかった「ルーム」もまたホンモノだったと受け入れるとき、観客もまた「いつのまにか」映画の中で生きていたことに気づくのである。



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  1. 2016/04/14(木) 16:59:23|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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