撮影監督の映画批評

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下町ロケット TBS版、WOWOW版との比較

最初に断っておかなければならないのが、TBS版を見て原作を読み、そしてDVDにてWOWOW版を見るというその順序が、なんらかのバイアスとなっているであろうことである。たとえそれが逆であろうと評価は変らないと思うのだが、それこそバイアスによるものかもしれない。とにかく結論からいえば、今回のTBS版を高く買っている。

まずスタイルの違いから。TBS版は、「半沢直樹」のとき以上に「英国王のスピーチ」(トム・フーパー)を意識しているのではないかと思われるワイドレンズを多用した引きの画と、極端なヨリのコントラストで見せる。
WOWOW版は、長回しが多くクロースアップ以外は大概ゆるやかに移動している。ただ長回しと言っても、人物はほとんど動かない。カット数の多いTBS版がしっかり人物を動かしているのに対して、WOWOW版は一度対面して座った人物は一向に動かない。これは演出のパターンからくるものと思われる。
WOWOW版の演出が登場人物を着席させていって始まるスタイルなのに対し、TBS版の演出は席についている登場人物を立ち上がらせていくという基本的なスタイルの違いがある。一度席につけてしまうと動かしようがないが、立ち上がらせれば、いくらでも動かせる。もちろん着席してからでも起立することはできるが、さすがにハードルは高い。

WOWOW版にTBS版ほど予算がないのは明らかで、それは何よりも帝国重工のロケセットと1シーンに登場する役者の人数、カット数に顕著である。逆にいうとTBS版は、その違いを十二分に活かしている。つまりフレーム内に収まる人数の違いでカット間のコントラストを生み出し、それでドラマの葛藤/対立を演出している。
おそらく佃製作所のロケセットが目一杯で帝国重工側まで予算をかけられなかったのであろうWOWOW版は、TBS版の圧倒的な大企業感というのは出せていない。TBS版が巧いのは、ただ物量で大企業感を出しているだけでなく、度々出てくる帝国重工のエンブレムを巨大にして、それを後ろに財前(吉川晃司)ら人物を小さく見せているところである。サイズで小さく見せるのではなく、コントラストで小さく見せる。スペースを大きく見せるには人物を相対的に小さく見せればいい。

次にストーリー。TBS版が原作通りチームビルディングを描いているのに対し、WOWOW版は佃航平(三上博史)、財前(渡部篤郎)、神谷弁護士(寺島しのぶ)それぞれの並行するドラマに改変されている。これが大きな違い。
この違いはまず経理部長の殿村の扱いに見て取れる。TBS版では殿村(立川談春)がチーム(会社)の異物として登場し、第一話をかけて彼がチームの一員になるまでを描いている。ビジュアルとしても殿村が一人去っていく後ろ姿を何度も見せるのだし、それこそ数のコントラストを使って、殿村だけ常に一人離れて配置される。最も会社のことを考えてないと思われた殿村が、誰もがナカシマ工業の傘下已む無しというなかで、最後まで一人諦めないのである。
この話型が第一話のみならず、第三話では財前、第四話では反対していた社員、江原、迫田ら、第五話では帝国重工、というように繰り返され、回を重ねるごとにチームとして出来上がっていく。それぞれが ”見くびられていたバルブシステムが、最終的にロケットを飛ばす” というテーマの変奏なのだ。
高を括り見くびるのは、白水銀行、ナカシマ工業、帝国重工、海外のロケット産業であり、”敵の敵は味方” 式に、これら共通の敵を持つことで連帯していくのである。

一方、WOWOW版の殿村(小市慢太郎)はといえば、その他大勢の一人にすぎない。TBS版のようなチームビルディングに重きが置かれていないので、TBS版の佃(阿部寛)が、研究か経営かで引き裂かれるのと対照的に、WOWOW版の佃(三上博史)は、その都度最適解を探すような印象になってしまっている。
特に特許を売却するか使用契約にするかの話し合いのシーンがそうで、WOWOW版では神谷弁護士がそこに同席していて彼女に「使用契約の方が儲かるだろう」と言わせてしまっている。その後に佃(三上博史)が「使用契約でいこうと思う」と言うのだが、それはもうただ最適解を選んだだけにしか聞こえない。もちろんTBS版のようにその判断で会社が二分するというような描写もない。なぜならチームビルディングの話ではないからだ。

最後にもう一点だけ、ラスト、ロケットの打ち上げをどのように演出しているか。WOWOW版では全員が、飛んでいくロケットを目で追っている。TBS版では、皆がロケットを目で追う中、佃(阿部寛)だけが目を閉じ手を組んで祈る。それ自体はことさら採り上げるまでもない演出であるが、その佃を娘、利菜(土屋太鳳)に見つめさせているのだ。さりげないがこれができるかできないかが大きい。



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テーマ:最近のドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

  1. 2015/11/18(水) 22:42:22|
  2. 演出
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エール!(エリック・ラティゴ)

(ネタバレ注意)


冒頭、家族のなかで一人だけ耳が聴こえるポーラ(ルアンヌ・エメラ)が主人公であることを、耳の聴こえない家族がたてる音を殊更強調し、それが聴こえてしまうことで、そこから彼女と観客だけが引きこもることで、つまりは彼女の主観的音像を観客とだけ共有することで、表現している。
その直後、彼女はヘッドホンで音楽を聴きながら自転車を走らせ、本来なら彼女だけが聴くことのできるはずの音楽をわれわれ観客と共有する。
消極的に彼女だけ聴こえてしまうことと、積極的に彼女だけが聴くこと、それぞれを主観的な音の演出で見せ、一気に彼女に感情移入させてしまうのが巧い。

オバマと名付けられた黒い牛をかわいいと言う友人に、いずれ食肉にするために手放すのだから情が移らないようにしなければいけないと諭すポーラ。当然そこに家族からの自立というメタファーが見て取れる。
それが証拠に、そう言ったはずのポーラ自身が、その言葉にとらわれる。
中盤、野に放った牛を距離を持って見つめるポーラのまなざしは、すでに牛に情が移ってしまっていることを物語っている。そのポーラを距離を持って見つめるポーラの母。
さて、そうなるとこの牛を手放すシーンが象徴的に描かれるのだろうと高を括るのだが、さにあらず、もう牛は出てこないのだ。

学校での発表会で、観客は耳が聴こえない家族の主観的音像を共有する。
これは、冒頭のポーラの主観と対になっている。冒頭のポーラが、聴こえない家族の中で一人だけ、聴こえてしまうことで観客と引きこもったのに対し、ここではポーラの歌を聴いている聴衆の中で三人だけ、聴こえないことで観客と引きこもるのだ。
観客は、聴衆が絶賛するも、家族同様、手放しでは喜べない。なぜならそこでは歌が奪われているからだ。
その夜、ポーラののどに手をあてることで、ようやく父親とわれわれ観客は歌を聴くことができる。
ここでのわれわれ観客の感動(音像/ズレ)は、父親側からのものである。

ラスト、オーディション会場での歌は、手話を交えることで、ポーラにも、家族にも、もちろんわれわれ観客にも、聴こえる。
ここでのわれわれ観客の感動(音像)に、ここまでにあった偏り/ズレはない。

手話を交えて歌うということ自体は、実にシンプルな発想、この設定であれば誰もが思いつくたぐいのもので、それ自体にさして力はない。はずのものが、ここまで感動的なのは、そこまでをどう描き分けてきたかによるのである。ディスコミュニケーションを描いているからこそ、コミュニケーションが活きるのだ。





テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2015/11/01(日) 02:26:52|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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