撮影監督の映画批評

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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#4

前回『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)のカットバックの解説で使用した図をもう一度。

SRS#

ここでのキャメラのナンバーは便宜的にふったものなので、マルチキャメラのナンバーではない。このシーンが何台のキャメラで撮影されたかは知らないが、もし一台のキャメラで撮影されたのであれば、間違いなくナンバーの順番に撮影されていったであろうナンバーである。
ここでなぜ#2のあとに#4へ行かず、先に#3のポジションに行くのか?
その答えに、映画ではマルチキャメラが限定的にしか使用できない理由がある。
『L.A.コンフィデンシャル』(カーティス・ハンソン)、ラストのカットバックを見てみよう。

la1.pngla2.png

この角度であれば2カット同時に撮影しても、それぞれのカットにもう一台のキャメラが映り込むことはない。しかし、そうは撮られていない。
見てのとおりライティングが異なるからだ。エド(ガイ・ピアース)越しのリン(キム・ベイシンガー)のカットは、リンに逆光があたっていて彼女のブロンドがハイライトで縁取られている。しかし、そのリバースショットであるリン越しのエドでは逆に、エドに逆光があたっている。
もちろんこれはリンのブロンドを美しく見せるためである。リンのバックの人物には順光(太陽光)があたっているので、この逆光はライティングされたものである。これをもしこのまま2キャメで撮影すると、リバースショットのリン越しのエドは、エドよりもリンの後頭部が光り輝いて目も当てられないことになるだろう。だからそうならないよう切り返してもまたリンのブロンドがハイライトに縁取られるようライトの位置が変えられている。
それでも2キャメで撮るというなら、どちらのカットも許容できるフラットで退屈なライティングにするしかない。

ライティングだけではない。例えばリン越しのエドのカットが、果たして同じ場所で撮られているかどうか、われわれにはわからないのだ。
もしエドのバックに見せたくない、しかも移動できないようなもの(例えば電柱、下図参照)があったとして、それがバックに入らない位置まで、キャメラと被写体の関係位置はそのままで、(平行/ピボット)移動しているかもしれない。
それどころか、たとえそれが別場所であっても、われわれにはわからないのだ。つまり1キャメで構図逆構図の位置関係さえ崩さなければ、逆構図の背景を自由に選ぶことが出来る。
それでも2キャメで撮るというなら、どちらのバックも満足できる場所を探すか、妥協するほかない。


lac.pnglac#2


一見つながりそうにもない、このような改変が、全く違和感なくつながれるのが映画である。むしろリアルにつなげられたものの方が、そのつながりが弱い。なぜなら、フラットなライティングや整理されていない背景では、被写体が背景から際立たない。そうすると自ずとそれら被写体同士、カット同士のつながり(イマジナリーライン)も際立たなくなるからだ。

見せるべきは、被写体同士を結ぶ見えることのない関係性の線(イマジナリーライン)である。

このようにライティング、あるいは背景を考えると、等方向のセットアップをまとめて撮影するべきだとわかる。最初の問いに戻ると、それゆえ#2の撮影後は#4ではなく、等方向の#3を撮影するべきなのだ。
その際、それぞれのレンズ、ディスタンス、角度を記録しておくべきなのは言うまでもない。

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  1. 2015/08/31(月) 20:19:44|
  2. 演出
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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#3

今回はまず、会話シーンでよく見られるカットバック(切り返し/構図逆構図/Shot reverse shot)について解説する。
『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)から有名なロシアンルーレットのシーン。
手のヨリなど2、3カットインはあるが、基本的には以下の5つのセットアップで構成されている。

DH1.pngSRS#


dh2.pngDH4.png
DH3.pngdh5.png

CAM#1から撮られるのは、引き画/状況説明カット/エスタブリングショットと言われるもの。
CAM#2とCAM#4、CAM#3とCAM#5のペアが、構図逆構図とも言われる教科書的なカットバックである。鏡に映したかのような構図で交互につながれている。
では、このような構図逆構図を撮影するにはどうすればいいか。
1)レンズ
構図、逆構図ともに同じ焦点距離のレンズを使用する。
2)ディスタンス
構図、逆構図ともに被写体までの距離を同じにする。
3)角度
ここでマイケル(ロバート・デ・ニーロ)とニック(クリストファー・ウォーケン)の二人を結ぶ線(視線)をイマジナリーライン(想像上の線)と呼ぶ。図上では点線で示されるイマジナリーラインと、キャメラの光軸がつくる角度を、構図、逆構図とも同じにする。

以上、3点をそろえれば、正確な構図逆構図を得ることができる。

次にCAM#1、CAM#2、CAM#3を比べてみると、キャメラ(光軸)がイマジナリーライン(視線)に近づくにつれて、被写体のサイズが大きくなっているのがわかる。
会話シーンを引き画ではじめ、会話の内容が核心に近づくにつれ被写体のサイズが大きくなり、その正面にまわりこんでいくのがセオリーである。

一般にキャメラ(光軸)とイマジナリーライン(視線)がつくる角度が、垂直に近く横位置に近いほどより客観的、イマジナリーラインに近く縦位置に近いほどより主観的とされる。キャメラが登場人物の視線(イマジナリーライン)に近づくのだから、それが主観性を帯びるのは当然のことだ。もしキャメラの光軸がぴったりイマジナリーライン(視線)に重なれば、それは見た目、Ponit Of Viewと呼ばれる主観ショットになる。

角度とサイズが、主観と客観の度合いを計る重要なファクターである。

ゆえに次のような表現が可能になる。
『ファミリー・プロット 』(アルフレッド・ヒッチコック)
宝石店で、店主と客を装い密談するアーサー(ウィリアム・ディヴェイン)とフラン(カレン・ブラック)

FP1.pngFP.png


FP2.pngFP3.png
FP4.pngFP5.png

完全プロフィールのカットバックと、完全正面のカットバックで構成されている。ちなみに完全正面ではあっても完全なキャメラ目線(光軸=視軸)ではないので、見た目ではない。この場合俳優はレンズのやや上を見るように指示されている。
ヒッチコックは、店主と客を装う表向きの会話をプロフィールのカットバックで、他聞をはばかる話を正面のカットバックでと描き分けている。疎外された客観的な視点と、登場人物の主観に寄り添った視点を自在に使い分けているのだ。

構図逆構図でカットバックすることは、われわれが見ることのできないイマジナリーライン(視線)が、そこにあることを含意する。
であるから逆にないはずのイマジナリーラインだけで、全く関係のないカット同士をもつなぐことができる。次の動画がそうだ。



ここでのイマジナリーラインはボールの動線であるが、そのイマジナリーラインに対して構図逆構図になるよう入念にキャメラの角度がそろえられているのがわかる。逆にそうしなければつながりづらいからだ。

以上のようなことからカットバックのなかでも構図逆構図は、イマジナリーライン/関係性を強く観客に感じさせることができる。それゆえマイケルとニックの間に走る友情というイマジナリーラインを見せるには、構図逆構図で描くほかないのである。


  1. 2015/08/30(日) 23:31:52|
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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#2

前回の内容を一言でいえば、上手から下手の動線が順路で、下手から上手の動線が逆路になると、要はそれだけである。

今回は人物配置について、『天使』(エルンスト・ルビッチ)をとり上げる。
英国外交官パーカー卿(ハーバート・マーシャル )の妻、マリア(マルレーネ・ディートリッヒ )は、夫に内緒でパリに行き、そこで出会ったアンソニー(メルヴィン・ダグラス)とディナーを共にする。必死に口説こうとするアンソニーに、決して名前を明かさないマリア、彼は彼女を「天使」と呼ぶ。
この関係では、明らかにアンソニーからマリアへのベクトルが優勢である。ルビッチは、その二人をどのように配置したか。
サロンでも、レストランでも、公園のベンチでも、常にマリアを下手、アンソニーを上手に座らせる。

angel#1


パリから戻ったマリアと、夫、パーカーを、ルビッチはどのようにフレームに収めるか。
常にというわけではないがほとんど、親密なシーンでは必ず、パーカーを下手、マリアを上手に配置する。アンソニーに惹かれながらもマリアは、夫を愛している。しかしその夫は仕事で多忙を極め、なかなか相手をしてくれない。パーカーとマリアとでは、明らかにマリアからパーカーへのベクトルが優勢である。

angel#2


そして実は友人同士であったアンソニーとパーカーが再会し、パーカーは彼の言う「天使」が自分の妻とはつゆ知らず、アンソニーを自宅に招待する。その三人が一同に会する席をどのように配置するか。
ルビッチは、下手にパーカー、中央にマリア、上手にアンソニーを置く。

angel#3


この厳格な配置がどういう効果を生むのか。

前回解説したのが動線の上下(カミシモ)なら、今回は視線の上下(カミシモ)である。
上手から下手の方向が順路で、下手から上手の方向が逆路であるなら、『天使』での視線(恋情)のベクトルは、順路で統一されている。恋するものが常に上手に位置し、下手の人物に熱い視線を投げかけるのだ。
視線のベクトルが、上手から下手の順路に重なる。

そして、このようにブロッキングすることで、アンソニーに対するときのマリアは常に顔の右側面、パーカーに対するときのマリアは常に顔の左側面を、観客に見せることになる。人間の顔は左右対称ではないので、顔から受ける印象も当然異なり、その違いがディートリッヒの演じ分けを助けている。

もちろんディートリッヒの顔は左右対称に近い。人間の顔を平均化していくと(つまりは左右対称に近づくのだが)美しくなっていくのはよく知られているとおりだ。
【画像】日本をはじめとする世界各国の平均顔

しかし完全に左右対称の顔がありえないこともまた事実である。
「右半分の顔」と「左半分の顔」は全然違う

人の顔は、平均に近づけば近づくほど美しくなるが、魅力的に感じるのは、平均から少しだけ外れた顔だと言われる。「少しだけ」というところがポイントで、要はコントラストの話。平均、左右対称の美しさを際立たせるために外れた部分が必要なのだ。
これは17~8世紀に流行した白い肌を際立たせるための付け黒子(ミルクの中のハエ)の考え方と同じであり、撮影技術で言えば、ナイター(ローキー)撮影の考え方と同じである。暗さを表現するのに、本当に暗くしてしまっては何も見えない。ゆえに見える程度には明るくしなければならない。しかし、ただうす暗いだけのナイターは、観客の眼が徐徐に慣れてきてしまうので、その暗さをさほど暗いと感じなくなる。そのためナイターにはハイライト(もちろんその面積は「少しだけ」)が必要なのだ。
白い肌を際立たせるための黒子、暗さを際立たせるためのハイライト、シンメトリーを際立たせるためのアシンメトリー。

閑話休題。
この場合、空間の癖を活かした上下(カミシモ)の配置はむしろ口実にすぎない。なぜならその上下(カミシモ)が、たとえ逆であっても、このブロッキングは同じくディートリッヒの演じ分けに寄与するだろうからだ。
つまり、元からある意味(空間の癖/傾向)はとりあえずの拠り所でしかなく、要諦は上手と下手に新たな意味を与える演出にある。
前回とりあげた『スノーピアサー』(ポン・ジュノ )では、下手を列車後方、上手を列車前方に統一することで、下手に人間性(humanity)という意味合いを付与し、その都度、前進すること(上手)との選択を主人公に課していた。
ルビッチも夫かアンソニーかの選択を”Left or Right”で語っている。

上手、下手の方向性に意識的でなければならないのは、そこに空間の癖があるからではなく、観客の方向性の記憶(時間)を無視できないからである。
前回とりあげた『いま、会いにゆきます』(土井裕泰)では、それが軽視されたために観客を混乱させた。
そのような無用の混乱を避けるためにも、そしてそれを演出に用いるためにも、上手、下手の方向性を意識したブロッキングが重要になるのである。


  1. 2015/08/29(土) 13:24:28|
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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#1

著書『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』に収録したかったのだが、動画の引用が必須であったため、何回かにわけて、ここで番外編として解説していきたい。

もう何年になるだろうか、大学と専門学校で撮影の授業を受け持っている。その導入として学生に「ピストル」と「人の横顔」と「馬」の画を描いてもらうのが恒例だ。別に彼らの画力を問うわけではないし、添削するわけでもない。ちょっとしたクイズのようなものである。これを読んでいるあなたも試しに描いてみてはどうだろう。

さて、それらは左右どちらを向いているだろうか。そのほとんどが左向きだと思う。
もちろんその時々で多少のばらつきはあるが、圧倒的に左向きの画が多い。大学では毎年100人以上の生徒が聴講しているので、その差は歴然である。
では、画家が描く肖像画はどうか。面白い統計がある。自画像では右向きが多く、他人、特に女性の肖像では左向きが圧倒的になる。レンブラントに限って言えば、自画像57点中、右向きが48点、左向きが9点であり、女性の肖像(被親戚)66点中、右向きが14点、左向きが52点だという。ここから導き出されるのは、自分に近いものは右向き、自分から遠いものは左向きに描かれるという傾向である。
また複数の人物が描かれる場合、右側に身分の高い人物を左向きに、左側に身分の低い人物を右向きに、配置する傾向があると言われている。これはテレビのゲストとインタビュアーの関係にも当てはまり、ゲストは右側左向き、インタビュアーは左側右向きに配置される。もちろん例外は多々あって、特に番組ホストの名前を冠したライブトークショーなどは、番組ホストが右側左向き、ゲストが左側右向きで、通常のケースとは逆になる。
(参考 鈴木武『街と都市の空間配置 -左右の位置の意味一』

自分から遠いもの身分の高いもの、つまり自分に相対するものを右側左向きに配置する傾向があるということ。この伝でいうと、番組ホストが右側左向きに位置するのは、ゲストよりもゲストに相対するホストのリアクションを見たい/見せたいのだと解釈できる。

と、とりあえずこのような傾向があることを頭に入れてもらい、次に「教室の真ん中より右側に座っている人は手をあげてください」と唐突に訊ねる。すると、生徒たちは一様に手をあげるべきか否か戸惑い顔になる。もちろん私の言う右側が、私から見て右側なのか、彼らから見て右側なのかが判然としないからだ。
右だの左だのという指示は、話者と聞き手が等方向を向いていない限り、そこに誤解が生じてしまう。そのような混乱を避けるため撮影現場では、キャメラから見て右を上手と呼び、左を下手と呼ぶことになっている。これは客席から見て舞台の右を上手、左を下手と呼ぶ演劇の慣習に由来するものである。

別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ』で著者は、「目に見えない空間の癖」のようなものが舞台には存在し、「舞台には上手から下手に風がゆるやかに吹いている」と述べている。これはそのまま映像にも当てはまる。

走るだけの人物を、いろいろなサイズで撮影したカットをそろえて、動きの方向を統一したものと、カットごとに方向を変えたもののふたつを見比べる実験です。フィルムの長さは両方とも同じにします。
これを映写して見比べると、同一方向の動きにまとめたフィルムのほうが、あきらかに三分の一ほど短く感じられたものです。
次に、右から左に方向が統一されたもののほうが、左から右のものより短く感じます。そして、方向性を逆に取り混ぜたものが、一番長く感じるのです。
富野 由悠季『映像の原則―ビギナーからプロまでのコンテ主義』



と、このように舞台であろうがスクリーンであろうが、上手から下手に風が吹いていて、観客には追い風になる上手から下手の動き(順路)の方が、向かい風になる下手から上手への動き(逆路)よりも速く感じられると結論づけられる。

『スーパーマリオブラザーズ』に代表されるような横スクロール型のゲームでは、プレイヤーキャラクターのほとんどが向かい風(逆路)の方向性、つまり下手から上手に動く。ゲームという性格上、敵に立ち向かいクリアしていくわけだから、向かい風がふさわしいだろうし、プレイヤーキャラクターは、まさに自分に近いものであるわけで、自画像に右向きが多いように上手向きであっていい。上手に相対する敵キャラクターは、プレイヤーにとってまさにゲストである。

ここでようやく映画の話になる。まずは『オールド・ボーイ』(パク・チャヌク )。主人公のオ・デス(チェ・ミンシク)がハンマー片手に単身殴り込みにいくシーンを見てみよう。動画にはスパイク・リーによるリメイクの同シーンが収められている。

oldboy.png




オ・デスを横移動でフォーローするこのショットは、もちろんセットでなければ(壁を壊さない限り)撮影できない。つまりセットであるのだから、進行方向は上下(カミシモ)でも下上(シモカミ)でもどちらでも可能であるが、下手から上手への向かい風(逆路)の方向が採用されている。
これは横スクロール型ゲームの理屈と同じと考えていいし、むしろ横スクロール型ゲームのイメージで撮影されたシーンではないだろうか。
そのリメイクであるスパイク・リー版では、その逆、上下(カミシモ)の追い風(順路)で撮影されている。役者もセットも全く違うので、ニュアンスの違いを即方向の違いにつなげるのは無理があるが、参考にはなると思う。


次に『汚れた血』(レオス・カラックス)の名シーン。

汚れた血



これも下上(シモカミ)の向かい風(逆路)で撮られている。もがくように疾走し、ときにフレームからはみ出そうになるこの動きには向かい風がふさわしい。


そして『フランシス・ハ』(ノア・バームバック)。

フランシス・ハ



この『汚れた血』のオマージュは、オリジナルと進行方向が逆である。ここにはもはやアレックス(ドニ・ラヴァン)の身悶えはない。描かれるのは、上下(カミシモ)の方向、文字通り追い風に乗って走るフランシス(グレタ・ガーウィグ)の軽やかさである。


次に『時をかける少女』(細田守)のケース。踏切のある商店街の坂道が、どのように描かれているか見てみよう。

時をかける少女
時をかける少女2


ご覧のとおり、坂上が上手、坂下が下手で描かれている。上るのに抵抗がある上手への動きは、向かい風(逆路)。勢い良く転がり落ちる下手への移動は、追い風(順路)。
アニメであるからセット撮影の『オールド・ボーイ』と同じく実際の環境に左右されることはない。左右になにを配置してもいい、左右どちらに動かしてもいいときに、上記の傾向を知っていれば迷うことはない。


『いま、会いにゆきます』(土井裕泰)から

fig1.png
117065a.jpg

fig2.png


上が、巧(中村獅童)がオフィスに向かう朝の描写。下が、帰宅する同じ日の午後の描写。どちらも同じ橋の上で、登下校する女子学生とすれ違う。
行きは、女子学生に追い抜かれ、帰りは、雨が降るとわかって高揚する巧が逆に追い抜くという演出はいい。
しかし、その撮り方がよくない。どちらも上下(カミシモ)の方向で描かれているので、日替って翌日の朝の光景かと観客が混乱してしまう。もちろん程なくそうでないとわかるのだが、この混乱は観客にとって全くのノイズでしかなく、ない方がいい。
ではなぜそのようなことになったかと言えば、真ん中のイラストを見てもらえばわかるように、キャメラが動線というイマジナリーラインを越えて上手下手を反転させてしまったからだ。
キャメラカーで並走して撮影しているため、同じ車線を逆走できず、やむなくこのようになったのかもしれない。そうだとしても、そうまでして撮った演出が、ノイズに掻き消されて観客に届かないようでは本末顛倒である。


最期に『スノーピアサー』(ポン・ジュノ )。



台詞に頼らず主人公の選択をどう見せるか?その答えがこのビデオエッセイのタイトル”Left or Right”である。
『スノーピアサー』では、下手(Left )が列車後方、上手(Right)が列車前方で、主人公は下手から上手(逆路)に進んでいく。そして主人公が下す全ての決断は、上手か下手かの選択として表現されている。


今回は、主に人物の動きについて解説した。次回は、人物の配置についてふれたいと思う。


  1. 2015/08/26(水) 17:19:16|
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「日本のいちばん長い日」(原田真人)

(ネタバレしています)

岡本喜八監督の昭和版を世評ほどは評価していないのだが、今回の平成版を観てやっぱりよくできていたのだなぁと考えをあらためた。決して平成版が悪いわけではないのだが。

そもそもそのタイトルが『史上最大の作戦』の原題The Longest Day から採られているように、旧作の英題はJapan's Longest Dayであるが、平成版にはThe Emperor In Augustの英題が冠されている。
この違いがそのまま内容の違いになっていて、旧作では後ろ姿や部分、ロングショットなどで直接描かれなかった昭和天皇が平成版では主要キャストとして描かれている。

もちろん1967年当時は天皇を正面から描けないという苦労もあったでしょうし、これはいつか誰かが別の形で描かないと駄目だなと思っていました。

でも、戦後50年の区切りのときに出るだろうと思ったら出なかった(笑)。60年になっても出なかった。そうこうしているうちに、2006年、昭和天皇が主役の映画『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督、イッセー尾形主演、露・伊・仏・スイス合作)が日本でも公開されたんですよ。

ただ、僕はイッセー尾形さんが演じた昭和天皇は"違うな"と思ったんです。昭和天皇の形態模写をしたことが話題になったけれど、本来は2時間という枠の中では、天皇の風格、ある種の神がかり的な部分を描かなければいけないんじゃないかと思っていたし、畏敬の念があったらそんなことはできないだろうと。あの時点から完全に、自分がやらなければいけない、という気持ちになっていました。

映画『日本のいちばん長い日』原田眞人監督インタビュー

旧作の前半は、諸々がなかなか決まらない様が伝言ゲームになって、それを逐一丁寧に描写することで長さを演出し、後半は一転して玉音盤がいわばマクガフィンとなって、その争奪戦が描かれる。そしてその間、昭和天皇の顔が映し出されることはない。そのかわりに頻繁に顔を出すのが、時計の文字盤なのだ。天皇の不在を埋めるように時計の文字盤と、玉音盤が、映画を駆動させる。
なるほど、時代がそのような描写を要請したのかもしれないが、結果不在であるがゆえに平成版や『太陽』より「天皇の風格、ある種の神がかり的な部分」が描けていたように思われる。
消極的な手法に思われた不在が、積極的な実在より力を持つということ。

原田監督に「畏敬の念」があり、だからそこまで積極的にはできなかったのか、その意図に反して昭和天皇(本木雅弘)の描写はつつましい。エピソードは描かれるが、やはりよりフォーカスされるのはその家族を描かれた阿南惟幾(役所広司)になる。
阿南がもう帰ってこないことを知っている妻が、電話をかけてきた娘の何気ない一言でそれを再認識させられる。気づかないフリをしていたが、気づいてしまったのだ。その電話のせいで当の阿南からの電話に出られないことを知るのは観客だけ。この登場人物たち、そして観客との距離感がすばらしい。

エンターテイメントを真面目な題材で描写した昭和版と、真面目な人間ドラマに、息抜きのような描写をところどころ配した平成版。
旧作は基本エンターテイメントなので人物描写は生真面目であってかまわない。そうでなければ玉音盤がマクガフィンにすぎないことがばれてしまう。しかし平成版は人間ドラマにシフトした御陰で、題材が題材なだけに息抜きがほしくなってしまったのではないだろうか。その差を体現するのがそれぞれ佐々木武雄大尉を演じた天本英世と松山ケンイチである。
バランスをとるはずのキャラクターがバランスを崩してしまったように思われた。

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

  1. 2015/08/16(日) 03:37:29|
  2. 映画感想
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ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション(クリストファー・マッカリー)

(ネタバレしています)

スパイアクションもので肝なのは、なんといっても遠隔で交信できるガジェットの存在だろう。オープニングの神経ガス奪還作戦でもウィリアム・ブラント(ジェレミー・レナー)、ベンジー・ダン(サイモン・ペグ)、ルーサー・スティッケル(ヴィング・レイムス)らは、それぞれ別々の場所からイーサン・ハント(トム・クルーズ)に全てを託す他なく、彼の一挙手一投足をそれぞれのガジェットを通して見ることしかできないように、しかし、見ることだけはできるように描かれる。その際の彼らのクロースアップは、同じく見ることしかできないわれわれ観客の似姿としてあり、すでに観客はこのオープニングで彼らのクロースアップを通し映画の中に折り込まれてしまっている。
アクションがリアルなのは、CGではなくトム・クルーズがスタントを使わず上空5000フィートで本当に演技したからかもしれないが、アクションがわれわれに手に汗握らせるのは、「ドアを開けろ」という彼らの顔のクロースアップがあるからだ。

IMFが解体されCIAがイーサンを捕えようとすると、独自にシンジケートを追うイーサンとの二重の追いかけ、『逃亡者』(アンドリュー・デイヴィス)のような展開になるかと思いきや、『羊たちの沈黙』(ジョナサン・デミ)でおなじみの平行モンタージュでシーンが閉じられると、あっさりその展開は捨てられてしまう。
ここでもCIA長官のアラン・ハンレー(アレック・ボールドウィン)のもとで面従腹背のウィリアムとベンジーが、イーサンを応援することもできず、ただ見ることしかできずにいる。
『ビバリーヒルズ・コップ』(マーティン・ブレスト)が地元警察の二人の刑事がどうアクセル(エディ・マーフィー)に協力するかを描いたように、ウィリアムとベンジーがCIAの内部にいながらどうイーサンに協力するか、という展開も面白いと思うのだが、そこにも拘泥しない。とにかく次から次へと新しいエピソードをつなぎ、とにかく同じ場所にとどまらないのが魅力である。

次のヒッチコック的な劇場での攻防から後は、イルザ・ファウスト(レベッカ・ファーガソン)を追うイーサンとシンジケートの追いかけになったり、次から次にアクションが展開し飽きさせない。
基本は、ガジェットで見ることならできる人物(=見ることしかできない観客)を配するアクションか、あるいは追いかけになる。どちらもシンプルなだけに、創意工夫でいくらでも映像的に盛り込むことができる。

『ユージュアル・サスペクツ』(ブライアン・シンガー)の脚本家として名高いクリストファー・マッカリーらしいのは、同じくどんでん返しの名作である『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル)で、ジョニー・フッカー(ロバート・レッドフォード)が、FBIに寝返るかのように見せる描写を、ウィリアムを使ってCIAに寝返るかのようなそれとして再現しているところだろうか。

めまぐるしいアクションの連続も、イーサンのやられたやり方でソロモン・レイン(シーン・ハリス)にやり返し、冒頭の公聴会でのウィリアムの台詞をラストの公聴会で再び言わせることで、二重に括弧とじしてパッケージされ、統一感を与えられているのが見事。
  1. 2015/08/08(土) 15:17:18|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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