撮影監督の映画批評

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「未来を生きる君たちへ」(スザンネ・ビア)

 原題はHÆVNEN、「復讐」という意味だそうだ。映画が復讐を描くとき、それは大抵自分ではない誰か(おおむね愛するもの)の無念を晴らすためになされる。なぜだろうか。

(ネタバレあり)
 
 劇中、医師アントン(ミカエル・ペルスブラント)は、子供のケンカの仲裁に入り、相手の父親に殴られてしまう。しかしアントンは決して抵抗しない。やりかえすべきだと主張する息子エリアス(マークス・リーゴード)とその友人クリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)に、復讐など愚かなことだと身をもって教え諭す。暴力にしかうったえるすべをしらない奴はバカだと切り捨てるのだ。
 それでも納得のいかないクリスチャンは「でも奴は自覚していない」と反論する。アントンはそれを説き伏せる言葉をもたない。
 
 クリスチャンの発言は全くもって正しい。バカであることを自覚させなければならないのだ。(しかし、誰に?)
 なぜそれがアントンにはわからないのか?
 それはアントンが殴られた当事者で、クリスチャンは当事者ではないからだ。
 クリスチャンは殴られたアントンの仕返しがしたい。クリスチャン本人は気づいていないが、復讐に託つけているだけなのだ。つまりクリスチャンはそのことを自覚していない。だから彼の反論は「でも僕は自覚していない」という訴えなのだ。バカなのは自分だとクリスチャンに自覚させなければならない。

 難民キャンプに戻ったアントンは、そこで自分ではないものの無念を晴らすために復讐をなす。なぜバカだと切り捨てることができなかったのか?それはアントンが当事者でなく、尚かつ彼がこの復讐に託つけているものに無自覚だったから。復讐を成し遂げても、復讐に託つけていた当ものは無傷のまま残る。それゆえ復讐は虚しい。

 冒頭の問いに戻ろう。なぜ映画は、自分ではない他者の無念を晴らすための復讐を描くのか?
 それは、その主人公の姿がそのまま映画を観る観客の姿に重なるからだ。観客は、映画に描かれる内容の当事者ではない。にもかかわらず、いや、だからこそ主人公の行動に託つけて感情移入を果たすことができる。だから、主人公が自分の託つけてきたものに気づくときカタルシスが訪れるのだ。
 
 
 
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  1. 2011/09/08(木) 01:01:02|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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