撮影監督の映画批評

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「愛する人」(ロドリゴ・ガルシア)

 カレン(アネット・ベニング)とエリザベス(ナオミ・ワッツ)の母娘は、お互いがどこにいて何をしているか、そして顔すらも知らない。映画はそんな2人のお互いを欠いた生活を平行して描く。この手の設定はそれだけで、いかにして2人を会わせるかという期待を観客に抱かせる。その点「愛する人」には工夫があった。(ちなみに、いかにして会わせるかではなく、いかにして会わせないかの映画である「ターンレフトターンライト」は、ジョニー・トーの傑作)
 とても些細な指摘を、さも大げさに一点だけ。
 エリザベスが、ポール(サミュエル・L・ジャクソン)に別れを告げ、彼の家を立ち去るシーン。キャメラは2人をとらえている。エリザベスがポールから離れて玄関へと向かうのにキャメラはワンテンポ遅れてパンする。ゆっくりとしたパンニングは、エリザベスをフォローすることができず、無人のフレームがつづく。玄関までパンニングしたフレームはようやくエリザベスをとらえ、そこに遅れてフレームインするポールとの2ショットになる。このキャメラオペレートがさりげなくすばらしい。
 通常このようなケースでキャメラは、
1)立ち去るエリザベスにつけて彼女をフォローパン。そこにポールがフレームイン。(エリザベスに寄り添うキャメラ)
2)エリザベスをフレームアウトさせ、残されたポールが、彼女を追うのにつけてフォローパン。(ポールに寄り添うキャメラ)
のいずれかを選択するだろう。
 ではなぜ1)でも2)でもなく、如上のようなオペレートがなされたのか?
 エリザベスをフォローできずに、そのあとを追うパンは、彼女のわずかながらも、あとに心が残るニュアンスの見事な表現であり、なおかつ玄関でキャメラのパンが再び彼女に追いつくのは、そこにフレームインするポールの追いつきと見事にシンクロしている。つまり1)や2)のようにキャメラがどちらかの視点をクリアカットに選択するのではなく、むしろ2人の関係こそ、キャメラがとらえている。無人のフレームのパンは、最初エリザベスのものであり、再び2ショットになって、遡行してポールのものである。つまり2人のパンである。
 素直になれない大人の映画はキャメラに代弁させる。しかしその手柄は、俳優に。見習いたいものだ。
 
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  1. 2011/01/31(月) 20:46:45|
  2. 映画感想
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「人生万歳!」(ウディ・アレン)

 続けて観たのが、たまたまそうだったから、そう思うのかもしれないが、「ソーシャル・ネットワーク」(デヴィッド・フィンチャー)で描かれたマーク・ザッカーバーグと、本作のボリス(ラリー・デビッド)はよく似ている。
 全く毛色の異なる2作だが、どちらも冒頭にヒロインとの噛み合ない会話シーンが配されている。しかし噛み合なくしているのは、「ソーシャル・ネットワーク」がマーク本人である一方「人生万歳!」では、メロディ(エバン・レイチェル・ウッド)なのだ。これがシリアスとコメディを分つ分水嶺となる。
 メロディが男に誘われ、自分は平気だと信じるボリスは友人と過ごした後帰宅するのだが、彼女はまだ帰ってきていない。部屋に一人のボリス。メロディが帰ってくる。玄関に迎えにいくボリスにキャメラは着いていき、そのままデートの愚痴を捲し立てるメロディをとらえる。我々観客は、前のシーンでボリスが友人の前で彼女の点数をそれと知らずに上げているのを見ているのだし、帰宅した部屋に一人のボリスの寂しげな佇みを引きの画ですでに見ているのだから、当然ボリスのリアクションが気になる。気になってしょうがない。しかしキャメラはメロディをとらえたまま離さない。ウディ・アレンは徹底的にボリスのリアクションを見せない。マスクとしてのフレーム。おそらくこの映画の中でもっとも長い1カットである。そして繋がれるボリスの極端なクロースアップ。すでに完全に恋に落ちた男がそこにいる。見事。そして贅沢。なぜなら映画的なテクニックは、ほぼここだけだと言っていいからだ。いたずらに策を弄した映画よりも、むしろテクニカル。ベテランにしかできない技。
 
  1. 2011/01/22(土) 01:04:17|
  2. 映画感想
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「ソーシャル・ネットワーク」( デヴィッド・フィンチャー)

 ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)に日本で公開するなら”the”を除いた方がいいと言われたわけではないだろうが、「ソーシャル・ネットワーク(The Social Network)」を観た。
 冒頭のマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)とエリカ・オルブライト(ルーニー・マーラ)の会話にすべてが先取りされている。現時点では未だfacebookはブロックされている中国の潜在的な数の話から入り、ファイナルクラブ、ボート部の話などを折り込みながら、次々に話題を変えていき、相手を煙にまくその会話スタイルや、彼のオブセッション、ものの見方まですべてがそこにある。(後のウィンクルボス兄弟らに誘われるシーンで、ここのエリカのセリフをそのままマークが繰り返したりもする)
 リアクションでキャラクターを説明するためだけの意味のない会話であったり、入れ子状に配される、物語のアレゴリーとしての会話であったりは、他の映画でもそれぞれ目にすることがままある。しかしこの冒頭の会話は、その両方をかねそなえ、かつその精度が高いのでそれと気づかせない。観客は、いつのまにか主人公のキャラクターに慣れ親しんで、知らないうちにこれから見せられる物語を予告されている。この濃密な会話シーンのあとに、マークの歩きを延々と繋ぐこの緩急もまた巧い。
 しかも、これがポイントなのだが、語られれば、語られるほど、マークが何を考えているかわからないように演出されているのだ。この謎に我々観客は牽引される。

 エドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)と決別するシーンで、オフィスのスクリーンにfacebookのユーザー数が表示される。それはまずたしか100万手前の数で表示される。しばらくしてリロードされると、そこには、すでに、いつのまにか、100万を少し越えた数が。つまりそこには100万を越える瞬間がない。決定的な瞬間は奪われている。リロードしなければ越えたかどうかもわからない。
 ラストのマークもまた何度もリロードする。いつその変化が訪れるかわからないからだ。そしてふと、このマークと同じようにして映画を見ていたことに気づくのだった。

 
  1. 2011/01/21(金) 02:01:21|
  2. 映画感想
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「モンガに散る」(ニウ・チェンザー)

 モンガに転校してきたモスキート(マーク・チャオ)は、後に仲間になる4人に助けられる。つづく塀の上の4人と、その下の見上げるモスキート。手を差し伸べるモンク(イーサン・ルアン)。そして塀を乗り越え、飛び降りたモスキート。しかしそこには時間が省略されていて、すでに仲間となったモスキートが彼らとともにケンカするシーンに、文字通りジャンプしている。ここで思い出されたのが「太陽の少年」(チアン・ウェン)のジャンプカット。少年期の仲間4人組が鞄を宙に放り投げるカットに、落ちてきた鞄をキャッチする青年期の主人公とその仲間を繋げていた。
 これが映画の句読点になる。映画にとってバーティカルな動きは、特別な意味を持つ。なぜかは知らない。しかし、心ある演出家は楔をうつように、バーティカルな動きを導入する。あきらかにその前後を分ちながら、接合もする楔。(6年も前のエントリーでも同じことを言っていた。いやはや成長のないことで)
 ここまでならよくできた演出くらいのものだが、「モンガに散る」がすばらしいのは、ラストにもう一度この塀をフラッシュバックするからである。しかも最初にジャンプされ、語り落とされた時間がフラッシュバックされる。(ここでもまた「太陽の少年」が思い返される。ラスト、プールに飛び込んだ主人公に、プールサイドから伸ばされる仲間の手)
 語り落とされた内容にさして意味があったわけではない。最後にあきらかにされたからと言って、あらたに知らされる事実などない。その内容は徹頭徹尾、予想可能なやりとりにすぎない。(それが証拠に予告編に使われている)
 にもかかわらず、これがすばらしいのは、語り落とされていたという事実そのことに我々観客が意味を見いだすからだ。
 

 
  1. 2011/01/11(火) 23:23:23|
  2. 映画感想
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「武士の家計簿」(森田芳光)

(ネタバレあり)

 映画は猪山成之(伊藤祐輝)が、そろばんバカと呼ばれる父、直之(堺雅人)を回想する形ではじまる。そしてラスト近く回想は閉じられ、成行は、父を背負い母を伴い、幼い頃父に辛い仕打ちを受けた川沿いを歩く。そこで成行は、自分には父におんぶしてもらった記憶がないと言う。そんなことはないだろうと父は言い、妻の同意をえるが、ただそれだけで、強いて息子に思い出せるようなことをしない。
 そこに父に背負われ「鯛じゃ鯛じゃ」とはしゃぐ幼い成行がフラッシュバックされる。このカットは確かに彼の回想のなかにあった。我々観客も見ているはずのカットだったが、少なくとも私は忘れていた。なぜなら、このシーンは、あくまで家計の窮地を絵鯛でしのいだエピソードとして語られたにすぎないからだ。決して父親におんぶされた記憶として描かれていたわけではない(コンテキストが違う)
 成行の回想で語られてきた父直之は、そろばんバカと呼ばれるにふさわしい、実直ではあるが、人情味にかける人物であった。息子はそんな父に厳しく躾けられてきたというストーリーを語る。いかに辛い想いをしてきたか。人は物語るとき、その物語に資することのないもの、都合のわるいものを、体よく排除する。
 成行は、いわゆる「信頼できない語り手」である。しかしそんなことはどうでもいい。そんなことはどうでもいいと、ただ背負われる父と、おんぶしてもらった記憶はないが、父をただ背負う息子が確かにそこにいて、確かに息子をおんぶする父のフラッシュバックが重ねられるのだから。
  1. 2011/01/10(月) 23:23:27|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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