撮影監督の映画批評

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「ソルト」(フィリップ・ノイス)

 イブリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)は立ち去るたびに、なにかしら(変装のための衣装)拝借していく。振りつけられた動きのように、手にするものを見ずに奪う。この往に掛けの駄賃が、シーンを閉じ、ソルトがその衣装を纏って出てくる次のシーンへの橋渡しをするアクセントになっている。
 他にも両手に持った手榴弾をターゲットを見ずに投下したりと、数々の一瞥もせずになされる流麗なアクションは、見得にも似て(それゆえ度々スローモーションになる)、我々観客をわくわくさせる。しかもその所作は、ほとんどの映画がそうであるように主人公にしか許されない。なぜだろうか。
 主人公が一瞥もしないものこそ観客は見るのであり、いわば一瞥もしない主人公のかわりに見届けるといったかたちでコミットするのである。あるいは主人公の体感を視覚を通して追体験しているともいえる。つまり我々観客は見ていながら見ていないのだ。
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  1. 2010/09/10(金) 21:50:23|
  2. 映画感想
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「シルビアのいる街で」(ホセ・ルイス・ゲリン)

 エキストラとフォーリー(「Foley」つまり生音、効果音)で、映画はこんなにも面白くなる。
 計算されつくしたエキストラのキャラクターとそのキュー出し。背景に退き、背景として、青年(グザヴィエ・ラフィット)とシルビアとおぼしき女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)を際立てるのではなく、むしろ逆にこの場所でのエキストラの動き/配置を見せるために、二人を通過させているかのごとくである。
 ホセ・ルイス・ゲリンが言う小津安二郎からの影響は、巻頭のT字路を捉える構図にすでに現れていて、しかしカット代わりにフォーリーを伴って奥へと女性を走り抜けさせるやり方や、トランクを転がす車輪の音、横切る自転車や車、花を抱えた跛行者等、それらをどのタイミングで縦にあるいは横に動かすかという的確でありながら過剰な演出は、小津にはない。
 さらに女性を追うシークエンスでの青年も、キャメラが動く分には「めまい」(アルフレッド・ヒッチコック)のジェームズ・スチュワートなのだが、キャメラがフィックスになった途端まるで「浮草」(小津安二郎)の港町を歩き回る中村鴈治郎である。
  
 カフェのシーンでは、まず延々と様々な女性が捉えられる。ここでも手前の人物にマスクさせたり縦の配置がとてもユニークなのだが、かといって単純にマスクされた人物を焦点化するためにマスクする人物がいるわけではない。
 焦点化できない「シルビアのいる街で」シルビアを探そうとする青年は、シルビアを求めて女性の画を次々に描く。その中で描き損じたのか、画をいったん消す。そして再度モデルを見上げるとそこにはもういない。次に見るのが後ろ髪を上げた女性のうなじ。正面から顔を見たい彼は、先ほど見失った女性のいた空席へと移る。そこで見られる女性の顔、ガヤ(環境音)が消える。焦点化されたかにみえたその彼女の顔も、マスクでしかなかった。その奥のガラス越しにシルビアとおぼしき彼女がいた。しかしそこでガヤが戻る。
 彼女がシルビアだと焦点化する彼と、焦点化を拒む街。
 彼女はシルビアではないとわかる。シルビアは前景化されない。
 だからこそ「シルビアのいる街」なのである。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2010/09/05(日) 22:43:19|
  2. 映画感想
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  4. | コメント:2

著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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