撮影監督の映画批評

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「息もできない」(ヤン・イクチュン)

 執拗に暴力描写を重ね、さらに罵詈雑言しか口にしない周囲から孤立した男として、まず主人公キム・サンフン(ヤン・イクチュン)は描かれる。事務所でひとりソファにふんぞり返らせ他のチンピラたちの背越しに捉えられたカットは、それだけでサンフンのあり方を物語っている。この段階でまだサンフンという主人公は、他人と交わらない人物としてしか描写されないので、観客もまた距離をもって眺めるほかない(感情移入できない。なぜなら感情移入など寄せつけない人物として描かれているのだから)。
 しかし、それが十分なされることが必要なのであった。ヨニ(キム・コッピ)との出会いが、サンフンだけでなく観客にとっても衝撃となるからだ。サンフンに反抗するはじめての登場人物。なにがこの女子高生をして、サンフンに立ち向かわせるのか。この時点で観客は、このヨニに対する謎を媒介としてサンフンに感情移入してしまう。見事。
 「二人の時だけ、泣けた」という惹句にあるように漢江のほとりで二人泣くシーンはたしかに感動的ではあるのだが、個人的にはその前の屋台でヨニと二人はじめてお互いの名前を知って、サンフンが自分の冗談に、初めて歯をみせて笑うシーンの方が感動した。このシーン以降はややトーンダウンする感はあるが、とても楽しめた。
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テーマ:韓国映画 - ジャンル:映画

  1. 2010/05/08(土) 16:00:30|
  2. 映画感想
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「メリーに首ったけ」(ボビー・ファレリー / ピーター・ファレリー)

 DVDにて再見。

  I'm fucking with you(からかったのよ)
 メリー(キャメロン・ディアス)のこのセリフが彼女を魅力的に見せている。本編中、このセリフは都合3度出てくるのだが、その3度を予告するシーンがまずある。プロムの日、テッド(ベン・スティラー)がメリーを迎えにいくと彼女の継父が応対し、娘はすでにボーイフレンドと出かけたと告げる。テッドは驚くわけでもなく、然もありなんといった風情で帰ろうとする。そこに母親がやってきてからかわれたことがわかる。このテッドの無言のリアクションに、彼のキャラクターが凝縮されている。
 メリーに会うためフロリダへとやってきたテッドは、偶然を装ってメリーと再会する。うれしい驚きに話が弾むが、メリーがなぜここにいるのかとの問いに答えるテッドは途中で言葉につまる(これだけで、しれっと嘘をつくことができない彼のキャラクターがわかる)。メリーが助け舟をだし再び会話に弾みがつくと、テッドはつもる話もあるからと食事に誘う。するとメリーはこれ以上なにを話すのかと答える。何も言えないテッド。 I'm fucking with you(からかったのよ)
 デートでの会話が弾み、テッドがなぜいままで独身だったのかと訊ねる。バイセクシャルだからと答えるメリー。一瞬言葉を失うが、なんでもないことだと懸命に伝えようとするテッド。 I'm fucking with you(からかったのよ)
 ラスト、自ら身を引いたテッドは泣きながらメリーの家を後にする。呼び止めるメリー。期待に胸ふくらませ笑顔で引き返すテッド。差し出される鍵の忘れ物。このときのベン・スティラーのなんともいえないリアクションが最高。踵を返し立ち去るテッドをふたたび呼び止めるメリー。あなたと幸せになりたいと言う。You're fucking with me, right?(からかってるの?)と訊くテッド。このときのテッドがロングショットで小さくとらえられているのも巧い。首をよこにふるメリー。三段オチ。
 テッドに感情移入している観客は、テッドとともに安堵しメリーのその表情に恋するのである。どうせ・・・という自己憐憫とその回復。映画全体で描かれるそのモチーフが、I'm fucking with you(からかったのよ)というセリフとキャメロン・ディアスの笑顔に凝縮されたかたちで入れ子のように3つ配置されているのだ。
 この映画のキャメロン・ディアスが魅力的なのは、彼女自身の魅力ももちろんさることながら、ベン・スティラーの受けの芝居が資するところ絶大なのである。
 

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2010/05/04(火) 12:59:05|
  2. 映画感想
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3D映画とPOV映画の親近性

 自分が若いうちはブームになるものを軽佻浮薄だと憂うのが、らしくなく逆に格好いいと思っていたが、いつのころからか、らしさをともなう年齢になるにつれ、逆に新しいものに理解ある風を装うようになってきた。しかしそれもただおもねるだけのようでキモい。
「若くても美しくなければ何にもならないし、 美しくても若くなければ何にもならない」(ラ・ロシュフーコー)
 であれば、まぁ思ったように述べましょう。まだ/もう38だし。

 今年は3D映画元年といわれているらしく、3D映画が目白押しである。「アバター」(ジェームズ・キャメロン)の大ヒットがこのブームを牽引している。
 一方、POV映画(全編主観撮影、一人称視点)と呼ばれる一連の作品群が、2年前に公開された「クローバー・フィールド/HAKAISHA」(マット・リーヴス)を筆頭にして3Dほどではないにしてもつづいている。
 どちらも何度か試みられその都度忘れさられた過去をもち(3Dは50年代と80年代の2度、POV映画は「湖中の女」(ロバート・ モンゴメリー)「視線のエロス」(フィリップ・アレル)など全編となると数少ないが)、そして現在当時にはなかったテクノロジー(3Dは撮影技術、POV映画はホームビデオの普及)によって再度ブームを迎えている。が、その経緯はまぁどうでもいい。
 たしかに「アバター」は、面白く観ることができた。しかし162分の上映時間は、はじめにあった3D映像の新鮮な驚きを減衰させるのに十分だった。3Dであることを忘れて/見慣れてしまって、あたかも2Dで観ているかのようだった。それが映画の価値をさげるわけではないが、不思議に思ったのだ。例えば主人公ジェイク(サム・ワーシントン)が翼竜にのって空を飛ぶシーンにさしかかると、3Dゆえのスペクタキュラーな光景を否応なく期待してしまうのだが、さほどでもない。なぜなら飛翔する空中における視覚対象ははるか遠方に退くのであって、そうした遠景は限りなく2Dに近づくからだ。しかし、かように3D感の出にくい被写体/構図ということでもあるだろうが、それ以上に見慣れてしまったことの方が大きいのではないかと思いいたる。その一方で、3Dであることを忘れさせること、それ自体が3Dの効果だったのだといえなくもない。はたしてどちらなのだろうか。あるいは。
 
 3Dにおいて達成される立体感、奥行きは、フレームにたいして擬似的に計られる。不動のフレームに対して奥にあるいは手前に位置するかのように錯視させる。そのことがあたかもスクリーンと観客席の間にある物理的な距離をもつ空虚をうめるかのような効果が目指されている。言い換えれば、映画内の世界をスクリーンと観客席の間で展開させようとしている。臨場感とは、観客席に迫ってくるものと考えられているように、そこには観客席という定点が基本にあるのだ。
 POV映画の目指すところも大体そのようなものである。観客席からの視点のまま、映画内の世界が展開される。ここでもまた観客席という不動の定点が基本になっている。

 映画は、すべてがそうだとは言わないが、古典的ハリウッド映画がそうであるように、観客を主人公に感情移入させることで物語を紡いできた。POV映画のように、見られるもの(対象)だけを示すのではなく、見るもの(主体/主人公)も示し編集していく。観客は主人公の見るものを見るというかたちで主人公に感情移入し、映画内世界に参入する/おり込まれるのである。そこに観客席はもはやない。観客席にいるままに目の前で展開されるのではなく、観客席を離れ映画内世界に没入するのである。

 3D/POV映画のベクトルがスクリーンから観客席にのびるのに対して、伝統的な物語映画のベクトルは観客席からスクリーンへとのびる(その際観客席は消える)。

 であれば、「アバター」にて3Dであることを忘れてしまったのは、3Dに対する古典的映画編集の勝利なのではないだろうか。
 
 
  1. 2010/05/02(日) 11:01:53|
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「ロボコップ」(ポール・バーホーベン)

 暦と関係がない職に就きながら、とうの仕事がなく(困ったものである)無聊をかこっていると、人出の多い休日は蟄居してやり過ごすのが常になる。そんなとき好きな映画をDVDにて再見する。

 ヒットした映画がなぜヒットしたのかがわかれば、このように暇を持て余してはいないだろうが、それでもまぁ自分なりにその答えを求めてみる。もちろん自分も面白く観たものに限るし、それが作劇に関するものでなければ、私が知っても意味はない。そこで常々考えるのが、いかに感情移入させるかである。感情移入できる映画がすべてヒットするとは限らないし、安易な感情移入を拒むような映画がヒットすることもあるだろう。しかし、少なくとも感情移入それ自体が謗られるいわれはあるまい。感情移入の達成度は、そのままとまでは言わないまでも、なかなか率のいいバロメーターになりうるのではないか。

 そこで「ロボコップ」である。実に見事なのだ。順を追ってみていこう。
 一見すると、クラレンス一味によるマーフィー(ピーター・ウェラー)の処刑(ポール・バーホーベン曰く「キリストの磔刑」)の執拗かつ残酷な描写が憤りを煽り感情移入に拍車をかけているように思われる。もちろん正解である。であるが、かといってその成否が残酷描写の多寡に還元されるほどナイーブではない。
 この冒頭まもなくの処刑シーンでは、我々観客はまだマーフィーの視点にたっていない。しかし我々観客はここではじめてある登場人物の視点を借りてそのシーンを見る。観客席の視点から作品世界内の視点へとくりあがるのである。その視点とは相棒アン・ルイス(ナンシー・アレン)のそれである。そのとき彼女は金網に遮られ近づくこともできず、ただ金網越しに見ることしかできない無力な存在としてある。見ることしかできない存在、つまり観客の似姿としてあり、観客と、視点と感情を共有する。
 ルイスを呼び水として、作品世界内へとくりあげられた視点は、病院に運び込まれる段になってやっとマーフィーのそれへと引き継がれる。なぜなら、瀕死のマーフィーは動くことのできない、ただ施される処置と、過去の記憶を見ることしかできない観客の似姿としてあるからだ。であるから、これらがPOVショットで撮られていることが重要なのである。さらにロボコップとして復活する際もその視点は保持される。マーフィーは記憶を消され、プログラムによって動くことを強いられるロボコップになる。つまり能動性が奪われる。これぞまさに観客の映画体験そのものでもある。観客もまた登場人物に感情移入することでしか作品内を動き回ることはできない。偽の能動性という意味で全く同じなのである。
 ストーリーは、マーフィーのアイデンティティ回復を描く。それはすなわち観客の感情移入という偽の能動性から「真の能動性」への不可能な試みにトランスレートされる。DVDのコメンタリーでポール・バーホーベンが映画のラストを次のように言っている。
 「一般の人と見た時、渡米以来最高の経験ができた。様々な人種がいた。社長が“名前は?”と聞いた後のことだ。ロボコップことマーフィーが答える前に何百という観客が“マーフィー”と言ったんだ。鳥肌がたった」
 つまり観客自身が「マーフィー!」と口にすることで能動性の回復を試みたのだ。しかし不可能なのだ。だからそこで映画は終わる。
 
 

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2010/05/01(土) 05:08:02|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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