撮影監督の映画批評

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「抱擁のかけら」(ペドロ・アルモドバル)

(ネタバレあり)

 脚本家ハリー・ケイン(ルイス・オマール)は、盲目であり、かつてのマテオ・ブランコと言う映画監督であるという映画にとって二重に自己言及的な主人公である。(盲目であることは、逆説的に「見る」ということを問わずにいられないのだし、映画内映画という入れ子は言わずもがな)

 盲目のハリーには、ディエゴ(タマル・ノバス)という青年(息子)が彼の目の代わりをする。
 一方、エルネスト・マルテル(ホセ・ルイス・ゴメス)は、息子ライ・X(ルーベン・オチャンディアーノ)に撮影させたレナ(ペネロペ・クルス)を監視するビデオの聞き取れない音声を、読心術のできる女性を雇いアテさせる。その女が彼の耳の代わりをする。(どちらも息子が目の代わりをすると言っていいかもしれない)
 片や心、片や肉体つまり死別の違いはあれど、過去のマルテルも、現在のハリーも、共にその時点ですでにレナを失っている。そして失った女性の映像を前にして、片や音を奪われ(聾)、片や像を奪われている(盲)のだ。
 マルテルに別れを告げるレナが、上映中にドアを開けその場で、その決定的なセリフを自らアテる。
 ハリーは、再編集した「謎の鞄と女たち」をディエゴらと観る。その最後、レナがドアを開ける。
 
 アルモドバルは、ハリーとマルテルを対照的に描きながら、対照的に描くには同一の枠が必要だと言わんばかりに、同じ枠で描く。であるから男は退屈だと言わんばかりに。
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2010/03/27(土) 17:02:10|
  2. 映画感想
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「しあわせの隠れ場所」(ジョン・リー・ハンコック)

 佳作である。しかしこれほど新鮮味のないストーリーも珍しい。にもかかわらずである。なにが佳作たらしめているのか。
 映画の前半で顕著なのだが、登場人物は相手が与り知らないところで表情を変える。それが全て微笑みなのだ。その微笑みは登場人物のあいだでは共有されない。微笑みあうわけではなく、人知れず微笑む。つまり観客とだけ共有する微笑みである。しかしほとんど全ての登場人物が人知れず微笑むのだ。
 例えば、リー・アン・テューイ(サンドラ・ブロック)が寝室で、マイケル・オアー(クィントン・アーロン)とS・J(ジェイ・ヘッド)に絵本を読んであげていると、キャメラは移動し隣の部屋でそれを聞いているコリンズ(リリー・コリンズ)が壁に背もたれて微笑んでいる姿をとらえる。
 スー夫人(キャシー・ベイツ)がマイケルへのアドバイスをショーン(ティム・マッグロウ)に任せてしまうところもそうだ。テレビに対面するソファに座り、マイケルとショーンの会話を背中で聞きながら微笑む。
 もちろんリー・アンは枚挙にいとまがない。ふと顔の向きを変えてから表情を変える。悪し様に言えば、それしかやっていない。が、それさえすればいいのだ。
 それら登場人物のあいだで共有されていない各々の微笑みを繋ぎ共有させるのは観客である。微笑ましい関係は観客が結ぶ。観客が微笑ましいものをたちあげる。だから佳作なのだ。
 もしそれらの微笑みがその都度相手に投げかけられるのだとしたら、どうだろうか。観客はその都度微笑ましい関係(すでに閉じてしまっている)を見せられるにすぎない。それだけで本作は十分凡作に堕するだろう。

テーマ:しあわせの隠れ場所 - ジャンル:映画

  1. 2010/03/19(金) 05:42:37|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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