撮影監督の映画批評

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

「パリ・オペラ座のすべて」(フレデリック・ワイズマン)、「脳内ニューヨーク」(チャーリー・カウフマン)、「This Is It」(ケニー・オルテガ)

 上演されても一切観客の姿、拍手歓声などをとらえることのない「パリ・オペラ座のすべて」。
 上演されることのない舞台演出をとらえる「脳内ニューヨーク」。
 マイケルの死により公演されることのなかったそのリハーサルをとらえた「This Is It」。
 いずれも映画内観客不在のバックステージものである。

 「This Is It」は、届けられるはずであったステージを可能な限り再現しようと意図されている。であるから全てはマイケル・ジャクソンその人に集約されていく。

 「脳内ニューヨーク」は、ステージを創造することそれ自体をステージにしようと意図する劇作家ケイデン・コタード(フィリップ・シーモア・ホフマン)を描いている。であるから必然、全てはこの映画を創造/監督するチャーリー・カウフマンその人へと遡行される。

 「パリ・オペラ座のすべて」は、ステージが特権化されることもなく、リハーサルも本番も、ダンサーもスタッフも、無人のショットですら、同じ資格でならんでいる。であるから「This Is It」のようにパリ・オペラ座のステージに集約されるわけでもなく、「脳内ニューヨーク」のように監督フレデリック・ワイズマンに遡行することもない。 
 
 「パリ・オペラ座のすべて」で注がれたフレデリック・ワイズマンの眼差しと同じようにどの映画もとても面白く観ることができたと、「脳内ニューヨーク」のように自己言及してみるが、さめざめと泣いたのは「This Is It」
スポンサーサイト

テーマ:映画レビュー - ジャンル:映画

  1. 2009/11/28(土) 22:28:56|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「千年の祈り」(ウェイン・ワン)

 (ネタバレあり)
 
 「悲しみは空の彼方に」(ダグラス・サーク)のタイトルバックは、宝石が降り積もるのをスローモーションで捉えていた。「千年の祈り」では、空港のターンテーブルに吐き出される手荷物が、その傾斜のためあたかもスローモーションのように落ちてくる。この感覚。

 最近観たお互いに母国語でない英語でコミュニケートする「きみに微笑む雨」(ホ・ジノ)に続き、「千年の祈り」でもシー(ヘンリー・オー)とイラン人のマダムは、お互いの母国語まじりの片言の英語でコミュニケートする。母国語での娘イーラン(フェイ・ユー)との会話より、お互い母国語ではない英語でのイラン人マダムとの会話の方が通じ合えるというのは、ホ・ジノのニュアンスとしてのそれより、やや図式的のきらいはあるが、それがイーラン自身もまた母国語でない方がコミュニケートできたのだとの告白に至っては見事と言うより他ない。彼女もまた夫との母国語での会話より、ロシア人の不倫相手との英語を介した会話に通じ合えるものがあった。
 
 シーがイーランを待ち受け問いただすシーンは、リビングでの縦の動きで演出された長まわしと、キッチンでのカット、イーランの部屋での鏡像を利用した演出で構成されている。その3パートで最もシンプルな演出のキッチンのカット、このバックにシーが中華鍋で料理中、油で壁が汚れないようにと張られた新聞紙がある。このカットのために、あの件があったのではとさえ思わさせる。
 
 イラン人のマダムとのベンチでの会話は、常に向かって右にマダム、左にシーを座らせていた。幾つかのピローショットに続きベンチに座る親子を、向かって右にシー、左にイーランと、シーの位置を逆転させている。この的確さに感動してしまう。
 
 ラスト、電車の音に気づくイーランは、「東京物語」(小津安二郎)の香川京子。

テーマ:映画レビュー - ジャンル:映画

  1. 2009/11/24(火) 22:21:34|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「母なる証明」(ポン・ジュノ)

 (ネタバレあり)
 漢方薬店で働く母(キム・ヘジャ)が、その奥まった店内から外の道端に佇む息子トジュン(ウォンビン)を見ている。徐徐にその視線が手元に及ばなくなっていき、トジュンが車に跳ねられると、その拍子に自分の指を切ってしまう。「吸血鬼ノスフェラトゥ」(F・W・ムルナウ)でも、怯えながらパンにバターをぬっていると(サイレントだが)突然時計が鳴り、その拍子に指を切ってしまうシーンがあった。何に心を奪われているかの巧みな演出である。さらにこの手前と奥という空間配置、キャメラの視点といい実に巧い。
 次にこの構図が繰り返されるのは、手前に漢方薬店の女主人、奥に連行されるトジュンを配してである。ここでも観客は、そこまで蔑ろにしてはクビを切られるのではと危ぶみながら、そこまでトジュンが心配でならないのだと了解する。

 トジュンに面会する母は、なんでもいいから思い出せと言う。そしてトジュンが思い出すのは、ミラーを壊したのは自分ではなくジンテ(チン・グ)だと事件に関係のないこと。しかし母はそれを、殺したのはトジュンではなくジンテだとパラフレーズする。
 次にトジュンが思い出したのは、子供の頃母が自分を殺そうとしたということ。母は、嫌な思い出を忘れることのできるツボに鍼を刺してやると言う。トジュンは、今度は鍼で殺すのかと応える。
 
 ラスト、トジュンは母に字義どおり忘れものを手渡す。母は思い出す、その忘れ物のことではなく、忘れようとしていたことを。それは、トジュンが全て知っているのではないか、全ておぼえているのではないか、無垢なフリをしているだけなのではないか、ということだ。気づいてしまった母を、バスの中で踊る乗客から一人際立たせる。その恐れを忘れる為に、そして今度は自分を殺す為に、自ら鍼を刺すのである。そのようなツボがあるわけがない。しかし母は、あたかもトジュンが何も知らないかのように無垢なままであるかのように、あたかも全て忘れてしまったかのように踊りだすのだ。無垢なフリであることを気づかないフリをすることが、「母なる証明」なのである。フリであるだけに、ラストカットの埋もれ方それ自体が埋もれたままに際立ち、迫りあがってくるのだ。
 冒頭の野原での踊りは2度繰り返されるが、背景に退く野原に対してポジ像として現れる。バス車内のカットで乗客の踊りは、一人座る母に対してネガ像として現れる。そしてラストカットの踊りは、ネガポジ、つまりはなにものも背景に退くことなくかたまりとなって迫ってくる。 [「母なる証明」(ポン・ジュノ)]の続きを読む

テーマ:韓国映画 - ジャンル:映画

  1. 2009/11/01(日) 05:04:55|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

Follow Me on Pinterest

メールフォーム

お問合せはこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

全記事(数)表示

全タイトルを表示

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。