撮影監督の映画批評

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「甘いウソ」(チョン・ジョンファ)

 「記憶喪失のふりをする」しかも、女1男2のラブトライアングル、という、ただもう、それだけで映画的な題材の映画を観に行かないわけにはいかないだろうと・・・。しかし、ただもう、それだけで映画的な題材を扱っても、それだけで映画的な映画にはならない。なぜ、そうなってしまったか。

1)「記憶喪失のふりをする」
 例えば、これで思い浮かぶのは「花とアリス」(岩井俊二)で、ハナ(鈴木杏)はあこがれの先輩を記憶喪失だと思い込ませ、自分を彼女に仕立て上げるというものだった。「花とアリス」が巧いのは、それに協力して元カノのフリをするアリス(蒼井優)と先輩との恋愛を主軸にしているところだ。つまりそのつもりのないアリスがフリをすることで、それが本当になっていく面白さである。
 「甘いウソ」は、ミヌ(イ・ギウ)に近づきたいジホ(パク・チニ)が、記憶喪失のフリをするのをひたすら描くので、ただそれがどうなるかという興味である。ミヌが嘘をつく女性は嫌いだと言うので、事実を言えなくなってしまうというのは巧いと思うが、決定的な欠陥がそれすらどうでもよくしている。つまり観客は途中で、この記憶喪失のフリの結末に興味を失うのだ。なぜならジホとドンシク(チョ・ハンソン)との恋愛が主軸なのだから。
 
2)女1男2のラブトライアングル
 例えば、「恋しくて」(ハワード・ドイッチ)である。身近すぎて気づかないというパターンは全く同じ(こちらは男1女2ではあるが)。「恋しくて」では、幼なじみであるワッツ(メアリー・スチュアート・マスターソン)が、最後まで自分の気持ちをひた隠す切なさが描かれた。
 しかし「甘いウソ」で、幼なじみのドンシク(チョ・ハンソン)は、自分の気持ちを隠そうとはしない。


 1)「花とアリス」でアリスは、好きではないというフリをする。
   「甘いウソ」でジホは、好きだと言う(ためにフリをする)。
 2)「恋しくて」でワッツは、好きではないというフリをする。
   「甘いウソ」でドンシクは、好きだと言う。

 つまり、好きだというのを描くのに、好きだと言わせては駄目なのだ。好きなのに/好きだから、好きではないフリをさせなくてはいけない。
 
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2009/10/16(金) 01:39:07|
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「エスター」(ジャウム・コレット=セラ)

 エスター(イザベル・ファーマン)が、養父ジョン(ピーター・サースガード)と、妹になったマックス(アリアナ・エンジニア)とで、公園にいる。視点はまずブランコをこぐエスターのものである。ジョンに声をかける女とそのやりとりを、エスター視点で見るのだし、エスターに嫌がらせをした同級生が公園にやってくるのもまた、エスター視点でとらえられる。巧いのは、くだんの同級生が何か異変に気づくというエスターのPOVに続けて、そこにいたはずのエスターを欠いた、空のブランコがただゆれるカットをインサートし、次にその空のブランコを見ている同級生のカットを繋いで、知らぬ間に、しかし鮮やかに、視点をシフトさせる技術である。空のブランコのカットは、同級生のPOVであったことが遡及してわかるような仕掛けで、前半のエスター視点と、後半の同級生視点を、緩衝する。
 このカットののちキャメラは、この同級生に寄り添っていく。同級生のPOVと、同級生に寄り添うキャメラとのカットバック。滑り台の降り口まで来た時に、この同級生を背後からトラックアップするカットがインサートされ、突進するエスターをとらえたカットが短く入る。一瞬のエスター視点へのシフト。客観的に落下をとらえて、客観的に状況をとらえた引き画になる、何かに気づく滑り台の上のエスター。続いてそのエスターを見ているマックスのカットになる。つまり客観的な視点の引き画だと思われていたカットは、マックスのPOVであったと遡及してわかる。このシーンはマックス視点で閉じられるのだ。見事に視点がリレーされていく。

 ケイト(ベラ・ファーミガ)が、エスターの過去をインターネットを使って調べ、徐徐にその真相が暴かれようとするのにパラレルモンタージュされるのは、暴かれては困るエスターではなく、エスターの正体を暴こうと証拠の隠されたツリーハウスに向かう長男ダニエルの姿である。ここでは秘密を暴こうとしている二人がパラレルモンタージュされる。暴かれる当の本人エスターは、しばらくの間一切姿を見せないにも拘らず、いやそれゆえ、すぐそこまで来ているのでは?という緊張感を画面に与える。さらに人は同時に異なる場所に存在することはできないのだから、エスターがどちらに現れるのかというサスペンスにもなっている。

 どの視点から語るかという取捨選択が的確で、面白い。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2009/10/15(木) 20:48:37|
  2. 映画感想
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「私の中のあなた」(ニック・カサヴェテス)

 (ネタバレあり)
 極端にディフューズされたルックは、幸せ家族を描く古びたCMのようで無理をしている。
 そのルックでニック・カサヴェテスは、執拗に家族の幸せそうなシーンを切りとる。白血病のケイト(ソフィア・ヴァシリーヴァ)を抱えるその家族は、もちろん皆、無理をしているのだ。
 それら幸せの描写に翳りを与えるのは、あたたかいはずの、それゆえ翳りを帯びてしまう視線。
 例えば、ケイトをやさしく看病するボーイフレンドのテイラーとのやりとりに翳りを与えるのは、微笑ましくそれを見るサラ(キャメロン・ディアス)の視線であるのだし、ケイトがドレスアップして階段を降りてくるのを小躍りして写真におさめるサラやアナ(アビゲイル・ブレスリン)らを見つめ、翳りを与えるのは父ブライアン(ジェイソン・パトリック)である。さらにケイトを連れ出した海ではしゃぐアナとジェシーを、見つめるのは死にゆくケイト。
 もう無理をしたくないと両親を訴えたアナでさえ、無理して、もう無理をしたくないと主張していたことがわかる。
 
 ケイトを海に連れ出したシーンの最後、夕日がケイトを包み込みホワイトアウトするのだが、そこでニック・カサヴェテスは賢明にも夕日をフレームにおさめることをしない。
 そこで太陽が奪われたのであれば、どこかで現れなければならない。
 そのどこかも的確で、しかも慎ましい。
 

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2009/10/10(土) 03:25:41|
  2. 映画感想
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「あの日、欲望の大地で」(ギジェルモ・アリアガ)

(ネタバレあり)
 
 冒頭、炎上するトレーラーハウスのイメージは、誰かの主観的な視点から捉えられているものとして提示されるのではなく、まず客観的に示される。続いて場所を変え、起き抜けの裸のシルヴィア(シャーリーズ・セロン)を後ろ姿で捉える。窓を開け外を眺める裸のシルヴィア。「空気人形」(是枝裕和)のペ・ドゥナもまた裸のまま窓際に佇んでいたが、誰にも見られることはなかった。が、シルヴィアは通りがかる親子にその姿を見られる。動じないシルヴィア。裸であるシルヴィアは、窓外を見る主体としてより、窓外から見られる客体としてある。
 
 物語は時制を前後し、シルヴィアが見たはずのものをひた隠しに語られていく。それは見た後のシルヴィア自身が見なかったこととして抑圧してきたものである。
 そして視点を限定されていなかった炎上するトレーラハウスの画に、シルヴィアの視点が加わる。冒頭では奪われていた視点が与えられたのだ。
 ラスト、娘がシルヴィアを見るその顔に促されて、見る登場人物らのカットがフラッシュバックされ、重ねられる。皆何かを見つめている。そこに加えられるシルヴィアの冒頭のカット。ここで窓際のシルヴィアは見られる客体として観られるのではない。見つめる主体として観られる。
 映画は、非人称視点であった「The Burning Plain」に主観視点を与え、見られる客体であった裸のシルヴィアを見る主体に変える。

テーマ:ミニシアター系映画 - ジャンル:映画

  1. 2009/10/08(木) 21:55:19|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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