撮影監督の映画批評

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「三人の女」(ロバート・アルトマン)

 健忘症ゆえいつ録画したのか全く身に覚えがないが、観ていないことは確かだと、しかしそれすらも覚束無く思え、とはいえまぁ面白そうなのでとにかく観る。鏡像好きキャメラマンを公言してはばからないにもかかわらず、この傑作を観ていなかったとは不覚。

 ミリー(シェリー・デュヴァル )を見つめるピンキー(シシー・スペイセク)、やがてピンキーはミリーと入れ替わろうとする。
 決して感情移入させることはないが、映画はピンキーの視点にたって展開する。「恐怖のメロディ」を髣髴させるイエローと鏡像にあふれるのミリーの部屋。圧巻は次の1カットである。
 ミリーからもらったイエローのバスローブを仕立て直すピンキーの水槽越し手元から、それを鏡の前であてがうピンキーにフォローすると、その抜けに話しかけるミリーをとらえる。よく似合うと言われたピンキーが着替えるために部屋の奥に引っ込むのをキャメラはフォローせず、かわりにその姿を鏡のなかでとらえる。ゆっくりズームアップされる鏡の中のピンキーは、やがて抜けのミリーと同じサイズになり、ミリーからもらったイエローのバスローブを身にまとうのだ。(この1カットを観るためだけでも、この映画を観る価値はある)
 
 ミリーになろうとしたピンキーがそれを拒否されプールへと飛び込む。このプールは、「詩人の血」(ジャン・コクトー)で詩人が中に入る鏡がプールだったのとは逆に、ピンキーにとって鏡であり、プールへ飛び込むことは即ち、鏡の中、黄泉の国へと旅立つことに他ならない。
 それに跳ね返されたピンキーは、一命をとりとめ、しかしピンキーではなく、ミリーとして甦る。ピンキー視点で語られてきた映画は、ここから先ミリー=シェリー・デュヴァル 視点で語られるようになる。人格が入れ替わるだけでなく、それを語る視点も入れ替わるのだ。
 
 最後にウィリー(ジャニス・ルール)であるが、ミリーがとりあげた子供は冷たかった。
 先にピンキーを救ったのは、ウィリーであったが、プールは鏡でもあり、羊水でもあってウィリーによってとりあげられたピンキーは、そのときウィリーの子供と入れ替わっていたのだ。産まれたばかりの子を見つめるかのごとく病室のピンキーをガラス越しに見つめ、その鏡像が二重化するウィリーとミリー。

 であるから、ピンキー=シシー・スペイセクはミリーになり、そのミリー=シシー・スペイセクは、ウィリーの子供になる。
 ウィリーの子供をとりあげたミリー=シェリー・デュヴァル は、ピンキーを救ったウィリーになる。
 さて、ウィリー=ジャニス・ルールは・・・。
 
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  1. 2009/05/31(日) 16:36:41|
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「一瞬の夢」(ジャ・ジャンクー)

 スリの小武(ワン・ホンウェイ)は、カラオケバーのホステス、メイメイにマイクを向けられても決して歌わない。
 スリ仲間が、テレビの街頭インタビューでマイクを向けられ押し黙ってしまうのを助けるのも、小武である。
 しかし昔のスリ仲間であるヨンは、自身の結婚をつたえるニュースでマイクを向けられ、喜々としてそれに答える。それをつたえるテレビは続けて、「心雨」というデュエット曲を歌い、それを映画は、そのテレビを自宅で見るヨンと、飲食店で見る小武で、カットバック=デュエットする。マイクで歌う/答えるヨンと、そのヨンから掠めたライターで「エリーゼのために」を密かに奏でる小武のデュエット/カットバック。

 小武は、街頭カラオケでデュエットするカップルを人ごみに紛れて見つめる。

 店を休んだメイメイを見舞う小武。メイメイが歌い、メイメイは小武も何か歌ってくれと頼む。メイメイの目を瞑らせ「エリーゼのために」を奏でる小武。
 誰もいない銭湯で「心雨」を一人で歌う小武。
 見られてはいけない。
 しかし続くカラオケバーのシーンで、小武は「心雨」をメイメイとデュエットしてしまう。

 メイメイは姿を消し、小武は捕まってしまう。
 オートバイに手錠で繋がれた小武と、「エリーゼのために」を奏でるテレビ。
 小武の手にあったはずの曲が、密かにヨンから盗み取ったはずの曲が、テレビで流れている。
 さらにテレビは小武の逮捕をつたえ、しかもそのインタビューに冒頭で押し黙っていたのと同じスリ仲間が、まるでヨンのように喜々として答えている。
 メイメイからのポケベルが、すべて見られていることを告げる。

 ラストシーン、電柱につなげられた小武は、オートバイにつなげられたのと同じ姿勢で待つ。見られる小武。
 
 
 
  1. 2009/05/30(土) 23:29:01|
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「恋しくて」(ハワード・ドイッチ)

 完璧な映画をあげるとしたら外すことの出来ない映画。

 映画は前半、キース(エリック・ストルツ)が、ハーディといるアマンダ(リー・トンプソン)を見つめる描写を重ねる。ハーディとアマンダを結ぶ一辺からはじかれた頂点としてのキース。トライアングルを描く為にハーディは必須の頂点であるから、常にキースはハーディといるアマンダを見ることになる。
 並行してワッツ(メアリー・スチュアート・マスターソン)がキースを想う描写もあるが、まだトライアングルとして描かれることはない。
 
 そして映画の転轍点であるが、そこではまず「ハーディとアマンダを見るキース」というトライアングルが描写され、その中でハーディとアマンダが仲違いをし、キースがアマンダを誘う。トライアングルの一辺を見つめる頂点であったキースが繰り上がり、アマンダと新しく一辺を結ぶ。そこではじかれたのはハーディであるが、映画はハーディではなく、新しい頂点としてその一辺を見つめるワッツにトラックアップするのである。ここで新しいトライアングルにシフトされた。この後、前半で執拗に繰り返された「ハーディといるアマンダを見るキース」というトライアングルと相似形である「アマンダといるキースを見るワッツ」というトライアングルが反復される。
 
 観客はそこから排除された頂点と共にトライアングルを構成する、見ることしかできないという無力感を共有して。
 であるから、そのポジションが繰り上がることで観客の偽の能動性が満たされる。
 しかし、それはあくまで偽の能動性にすぎない。キースとともに映画の世界を生きようとしても、キースと違い我々観客はそれを見ることしか出来ない。その新たな無力感を共有するのがワッツというわけである。
 
 切なさとはこの距離感であり、見ることしか出来ない観客の切なさである。
  1. 2009/05/29(金) 02:44:45|
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「青の稲妻」(ジャ・ジャンクー)

 「四川のうた」公開記念ということで、ジャ・ジャンクーの旧作5作品が上映されている。「長江哀歌」と「四川のうた」しか観ていなかったので、これを好機と全てスクリーンで観ることにする。
 
 「四川のうた」のなかで語られるエピソードに、自分は別れたくないのに、別れたがっている彼女を察し別れようかと切り出せば、あなたが言い出したことだからと念押しされるも抗弁しない男の回想があった。
 「プラットホーム」でも、ミンリャン(ワン・ホンウェイ)はルイジュエン(チャオ・タオ)から一方的につきあえない理由を聞かされ、言うのが遅いこと以外は全て言う通りだと去って行く。
 「青の稲妻」でも、ユェンユェンがまだ若いから勝手なことできないと言えば、ビンビンは肩にまわしていた手を下ろし、肝炎だとわかると借金して携帯をプレゼントし、これからはいつでも連絡できると喜ぶ彼女に、これからはないと言う。
 
 「青の稲妻」の原題である「任逍遥」という歌を劇中ビンビンは2度歌う。
 1度目は、ユェンユェンと二人で手をつなぎながら。
 2度目は、ラスト警察で一人、手錠で自身の両手をつなぎながら。
 
 

テーマ:映画レビュー - ジャンル:映画

  1. 2009/05/28(木) 00:56:57|
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「彼岸花」(小津安二郎)

 佐々木初(浪花千栄子)が、平山家を訪れる。応対した家政婦に「これ、つまらんもんでっけど」と、お土産を渡す。丁重に礼をし受け取る家政婦に「あんたやおへんで、おうちへどすえ」と言い添える。もちろん家政婦は重々承知している。
 初は清子(田中絹代)相手に散々しゃべくりたおした挙げ句、手洗いに中座する。その廊下に逆さ箒(長居する客に早く帰って欲しいときにするまじない)を見つけるが、意に介すことなくその逆さ箒を直す。
 人にはわかっているべきだと要求し、わかっていないのは当の本人であるのは、初であり、平山渉(佐分利信)である。それゆえ二人は周囲の人々からニュアンスは違えど、あしらわれる。
 陽気な初と陰気な平山とでは、結婚式と葬式くらい違うのだが・・・

 結婚式から帰宅し、明日の告別式もモーニングにするかと尋ね、黒の背広でいいと答える平山に、清子は「モーニングだってまごつくわよ、今日おめでたで、明日お弔いじゃ」と言う。これは「秋刀魚の味」の結婚式帰りの平山(笠智衆)が、葬式の帰りかと聞かれ、「まあ、そんなもんだよ」と答えるのと同型である。
 若松で飲む平山らのところに、女将(高橋とよ)がやってきて挨拶をし「(新婦の父に)でも、お寂しくなりますわね、お嬢様お片付きになると」と言う。これは「東京物語」で連合いに先立たれた平山(笠智衆)のところに、隣家の細君であるこれまた高橋とよがやってきて挨拶をし「お寂しいこってすなぁ」という光景と瓜二つである。
 
 と、いうように小津作品にあって結婚式と葬式は交替可能である。
 そう、「矛盾の総和が人生」なのだ。
 二者択一なのではない。金か真鍮かではない。
 「真鍮を金にする」のだ。(もちろん金を真鍮にするのだっていい。なぜなら金か真鍮かの二者択一ではないから)
 今日おめでたのモーニングが明日弔いのモーニングになるのだ。(まごつくモーニング)
 結婚することはないと言っていた平山が、するほうがいいと言う平山になるのだ。(まごつく幸子〔山本富士子〕)

 芦ノ湖でボートにのる娘二人に手をふる夫婦は、もちろんここから見ているよという意味で手をふっているのにもかかわらずそれは、小津にあって予期された別離、さよならと手をふっているかのように見える。
 ここだよと手をふることが、さよならと手をふることになるのだ。(まごつく我々)
 
 

テーマ:DVDで見た映画 - ジャンル:映画

  1. 2009/05/07(木) 01:52:29|
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「秋刀魚の味」(小津安二郎)

 無性に小津作品を見たくなる時期が、定期的に訪れる。
 仕事柄、休日は暦と全く関係がないので、混雑するであろうゴールデンウィークは蟄居してやり過ごす。読書とDVD。
 このブログの記事に新作が多いのは、小津のようにいたるところで語られている作品をとりあげると酷い健忘症ゆえ、どこかで見聞きしたことをあたかも自分の発見のように力説してしまうのではないかと恐れるからで、今回「秋刀魚の味」をとりあげるにあたってこのように前置きするのは、やはり自信がないからである。
 とはいえ、このブログは自身の備忘録だということを忘れてはいけない(ので、そう備忘録に記す)

 周平(笠智衆)と幸一(佐田啓二)は、路子(岩下志麻)が想いをよせる男にはすでに相手がいたと告げる。存外平気な様子で出て行った路子に安心する周平と幸一だが、路子と入れ替わるようにやってきた和夫(三上真一郎)に、路子が泣いていたと知らされる。周平は二階の路子の部屋へと行く。机に向かって座っている路子の後ろ姿、周平をふりかえる。周平が出て行った後、キャメラは路子の正面に入ってその表情をとらえるのだから、なにも無理にふりかえらせる必要はなかった。それだけにその路子のふりかえりは際立つ。
 そしてこの一連がそっくり反復される。
 礼服を着た周平と幸一、二人が同じように居間に座っている。そこに着付けが終わったと知らせにやってくる女性、路子が泣いていたと知らせにくる和夫と重なる。二階へと向かう周平と幸一。廊下のカットを挿んで、二階の二間つづきの部屋を引きでとらえるカット、周平が敷居を越えるアクションで周平のバストアップ。全く同じフレームとつなぎ。路子の自然なふりかえり。ただのふりかえりにすぎないのにそう感じさせないのは、あのふりかえりがあったからだ。

 ラスト、酔って帰ってきた周平は居間でウトウトする。カットが変わり廊下、階段、鏡むけ二階の部屋、鏡、階段むけ二階の部屋と無人のショットがつづき、廊下で二階を見上げ涙ぐむ周平のプロフィールにつなげられる。
 この無人のカットは、この映画で二度、路子のもとへ二階に上がった(その時はなかった)周平の見た目ともとれる。廊下から階段を上がって鏡に近づき、そして反射するかのように折り返して階段の方をふりかえる。そして階下でその視線を受け取るように立つ周平。 

 
  [「秋刀魚の味」(小津安二郎)]の続きを読む
  1. 2009/05/05(火) 03:40:08|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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