撮影監督の映画批評

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「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド)

 (ネタバレ注意)

 ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)が唸る。
 「丹下左膳餘話 百萬両の壺」(山中貞雄)の丹下左膳(大河内傳次郎)も、ばくちに負けると唸る。
 それを見ていたちょび安「おじさん、ばくちに負けると唸るんだね」
 その後、左膳に斬られた男が唸っているのを「なぜあのおじさんは唸ってるの?」とちょび安。
 左膳は「ばくちに負けたんだろ」

 イーストウッドも、このくりかえしのギャグを好む。
 「ルーキー」では冒頭、上司にチャーリー・シーン=ルーキーを押し付けられるイーストウッドが、ラストにはチャーリー・シーンにルーキーを押し付ける上司になるギャグがある。
 「アウトロー」では、音もなくチーフ・ダン・ジョージの背後から銃を突きつけるイーストウッドが、逆にチーフ・ダン・ジョージに背後をとられる。しかしそのチーフ・ダン・ジョージは更にその背後を女インディアンにとられていたというギャグ。
 「許されざる者」では、writerだと答える伝記作家にジーン・ハックマンは手紙の?と問い返す。イーストウッドが凄いのは、ラストのシリアスであるはずの殺戮シーンでこのセリフを自身でくりかえすところ。
 
 同じセリフやあるいはシチュエーションをくりかえし、そこにうまれるズレが笑いになる。
 がその点、如上のイーストウッド作品には越えられない壁があった。
 「ダーティーハリー」である。
 冒頭、黒人の銀行強盗に44マグナムを向け、弾が残っているかわからないがどうすると聞く。迷った犯人は抵抗をやめる。立ち去ろうとするハリーに、実際は残っていたのかどうかを尋ねる。男を狙い引き金をひくハリー、弾は残っていなかった。
 ラスト、追いつめられたスコーピオに同じことを聞くハリー、残っていないと判断したスコーピオは反撃しようとするが、撃ち殺される。弾は残っていた。

 そして「グラン・トリノ」
 3人組の黒人にからまれるスー、それを助けるウォルトは(「ミスティックリバー」のラスト、ケビン・ベーコンがショーン・ペンに向けてするがごとく)手で模した銃で3人を撃つ。その後、懐からにわかに本物の銃を出す。態度を変える黒人3人組。
 ラスト、モン族のギャングらと対峙するウォルトは、同じように手で模した銃でギャングらを撃つ。その後、懐からにわかに取り出したのは・・・。

 「ダーティーハリー」と「グラン・トリノ」のくりかえしの構造は似ている。
 イーストウッドは、キャリアの初期である「ダーティーハリー」のくりかえしの構造を、俳優としては最後と言われている「グラン・トリノ」でくりかえし、かつそのラストを「ダーティーハリー」のそれとズラしている。かたや44マグナムは火をふき、かたや・・・。
 「ダーティーハリー」で投げ捨てられた星形のバッジは、「グラン・トリノ」ではタオに託される。
 タオがウォルトに聞く、戦争で何人殺したのか?
 それは、イーストウッドに、映画で何人殺したのか?と問うことともとれ・・・。



 走る姿を奪われたグラントリノは、どこかでその姿を見せるのだし、toadと呼ばれるタオは、どこかでタオと呼ばれるのだし、コワルスキーとしか呼ぶことが許されない神父は、いずれウォルトと呼ぶことを許される。それらのどこかがそれぞれ的確であるし、そもそもそれらを用意する設定自体が優れている。

 ウォルトに命じられタオは傷んだ隣家を修復する。それを見守るウォルト。
 雨のなかタオは、古株を除去しようと格闘する。それとポーチで見守るウォルトがディゾルブでサイズを変えカットバックされるのだが、それぞれフレーミングされた古株とウォルトの位置が正確に重なる。しかも古株は取り除くことができず、お手上げのタオは古株にもたれかかる。
 そのタオの姿は、フリーザーを一人では地下室から上げることが出来ないウォルトと重なる。タオの力をかりるウォルト。二人で持ち上げる。間違っていなければ、この先ウォルトがタオをtoadとは呼んでないはずだ。
 
  [「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド)]の続きを読む
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2009/04/28(火) 05:15:41|
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「四川のうた」(ジャ・ジャンクー)

<420工場>の工員たちが人生を語る時の表情や眼差しの美しさに感動しましたが、彼らは最初から心を開いてくれたのでしょうか。彼らの自然な表情を引き出すのにどんな工夫をしましたか。

正直なところ、取材はとても困難でした。実感として、(まず)あれだけの人数を取材した経験がなかった。でも大変だったのは、彼らが話してくれないことではなく、なかなか自分の話をしてくれないことでした。しかも勇気がないからではなく、自分を大事と思っていないからです。全体として生きてきた時代があまりに長くて、自分を大事な存在とは思えず、自分の話など聞いてどうする、と言いたげでした。それで他人の話ばかりになる。でも私が聞きたかったのは、一般の人である“あなた”の話だ。特殊な人生を聞きたいのでなく、一般的な“皆さん”の気持ちや普遍的な話が知りたいのだと伝えても、理解してもらえるまでに時間がかかりました。


OUTSIDE IN TOKYO / ジャ・ジャンクー『四川のうた』インタヴューより抜粋

 映画は、工場の引き渡し式典から始まる。合唱する労働者たち。その「全体」をとらえるキャメラ。
 そこに吹貫の螺旋階段をフィックスで俯瞰するカットが繋がれ、合唱の音響はやや遠くなる。式典をよそに、そこに在り続けてきた空間が示されている。その螺旋階段を上ってくる男。その男の上昇にともなって合唱の声が次第に遠くなっていく。
 キャメラがとらえた空間に依拠していると思われた音は、階段を上る男(おそらく最初にインタビューを受ける労働者)の主観であった。
 合唱から「“あなた”」の声へ。「全体」の記憶から個人の記憶へ。記憶のスパイラルを辿る映画。

 何度か繰り返される「工場の入口」を正対してとらえたカットのキャメラポジションは高く、光軸の水平を維持していると思われ、垂線に歪みがなく相応しい。同じようにとらえられた構図に「ミツバチのささやき」の家が想起される。
 本作はデジタルでの撮影のようで、軒並み窓外が白飛びしている。それがよくないと言いたいのではなくて、最初のインタビューの白く飛んだ窓に一瞬雨垂れを感じた。本当に見たのかどうか判然としないし、それがなんだと言われれば返す言葉もないが、見えたような気がするけれど、もう過ぎてしまい確認することができないものの魅力とでも言おうか。
 最後のインタビューは、成都の街を窓外に見下ろせる場所で撮影されている。途中黒みも挿んで同ポジションでインタビューはすすむのだが、窓外の光量がかすかに落ちていく。高速道路を走る車のブレーキランプがかすかに際立ってくる。このかすかな衰えが感動的である。これもかすかであるがゆえに、この衰えをとらえたのか否かが判然としない。そのように過ぎ去ったかどうかも判然とさせないままに過ぎ去るものの魅力。
 いわゆる黄昏時であり映画ではマジックアワーとも言うが、「四川のうた」ではもう一ヶ所、少女がローラースケートで不意にフレームインする屋上が忘れがたい。なぜ映画はローラースケートの少女をとらえるだけで、こんなにも人を感動させることができるのであろうか。(僕には全くわからない)

(前略)?彼女たちに演じてほしいとオファーしたが、みんなに断られてしまった。
女優たちが何を心配したかと言うと、「自分は役者だから、あれだけ労働者の人たちのリアルで自然な経験を語ることは出来ないだろう。自分の経験を語るわけではないのだから」とみんな心配しました。そんな彼女たちを、「登場人物のような自然さ求めて同化する必要はない。これは明らかにフィクションとして撮るのだからそれは心配ない」と説得しました。
(同上のインタビューから)



 「明らかにフィクションとして」撮られているのがわかる。とはいえ、女優たちが自然さへのアプローチを諦めたわけでもない。であるから尚更、何がそう見させるのかもわかる。
 フィクションとノンフィクションを隔てたのは、「労働者の人たちのリアルで自然な経験を語る」その自然さの優劣ではなく、キャメラの存在に対する態度である。
 ノンフィクション部分の登場人物にとってキャメラは常にそこにあるものであって、撮られていることを意識しているか、あるいは撮られていることを意識しないよう絶えず意識しているか、のどちらかであり、大抵揺らいでいる。
 フィクション部分の俳優は、撮られていることを意識している演技と、撮られていることを意識していない演技しかしていない。つまり撮られていることを意識しないよう絶えず意識している演技がないのである。もちろんそんなものは必要ない。だから「明らかにフィクションとして」撮られたわけだし、それゆえにその違いも明白なのだ。

テーマ:映画レビュー - ジャンル:映画

  1. 2009/04/22(水) 23:44:28|
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「スラムドッグ$ミリオネア」(ダニー・ボイル)

 ネタバレ注意

 映画は、まず3つの時間が並行して語られる。
 1)「クイズ$ミリオネア」に出演し解答していくジャマール(デヴ・パテル)
 2)警察になぜ答えを知りえたかを尋問されるジャマール
 3)なぜ答えを知りえたかの答えとしての回想
 
 1)の「クイズ$ミリオネア」のQにあたるのが2)の尋問であり、Aにあたるのが3)の回想である。であるから「クイズ$ミリオネア」の司会者は、尋問する警部と重なる。また1)の「クイズ$ミリオネア」で正解しつづけることは、つまり勝ち抜き式のクイズを生き延びることであり、3)の回想で描かれるスラム街で生き延びることと重なる。
 つまり「クイズ$ミリオネア」を生き延びることができたのは、スラムドックとして生き延びてきたからだという語り。

 その3本の線がニュアンスを変える。回想が、生き延びることに加えてラティカを探し出すことを描きだし、尋問する警部は次第にジャマールの物語に魅了されていく。もはや警部は、司会者ではなく我々観客あるいは「クイズ$ミリオネア」で固唾をのむ観客に近い。
 
 そしてジャマールは去り行く警部になぜ「クイズ$ミリオネア」に出たのかを語り、物語は見事に反転する。
 「クイズ$ミリオネア」でなぜ答えることができたかの答えが、ジャマールの回想で語られてきた(1→3)。
 それがいまやジャマールの回想で語られてきたラティカを探し出すことの答えこそが、「クイズ$ミリオネア」にあった(3→1)という顛倒が描かれるのだ。

 「三銃士」の3人目の銃士の名前は?という最期の問い。ライフラインのテレフォンでラティカが出て自分の名前を言う。それこそがジャマールにとっての正解。ラティカが名乗ったその時点でジャマールにとっての「クイズ$ミリオネア」は終わっている。その後、偶然にも正解し賞金を得るのは、ジャマールにとっての正解にいたったことを「クイズ$ミリオネア」の観客/視聴者らにもまた祝福させるためである。
  [「スラムドッグ$ミリオネア」(ダニー・ボイル)]の続きを読む

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  1. 2009/04/21(火) 07:06:18|
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「レイチェルの結婚」(ジョナサン・デミ)

 ネタバレ注意

 ドラマティックな展開を拒否する映画は山のようにあるが、ただそれらはドラマティックではない映画にすぎないのがほとんどだ。
 「レイチェルの結婚」は、ドラマティックな展開が全て尻窄まりになる特異な映画と言えるだろう。

 まず最初のドラマティックな展開は、(エマの暴露話のそれとは違って)誰もがそこで言うべきではないだろうと思うことをスピーチしたキム(アン・ハサウェイ)に、レイチェル(ローズマリー・デウィット)が文句を言うシーン。
 帰宅したばかりのバックマン家は暗く、キムとレイチェルは歩き回りながら、その都度その場所の明かりが点される。キムとレイチェルの言い争いから、バックマン家の暗部が次々白日のもとにさらされるかのようで巧い。
 しかし、その言い争いもキムがアンフェアだとするレイチェルの妊娠話で有耶無耶になる。キムのアクティングアウトは、曖昧にされたまま行き場を失う。

 次にレイチェルが父ポール(ビル・アーウィン)をキッチンへと呼び出し、心情を吐露するのだが、そこでも邪魔が入り皿洗い競争になってしまう。

 それでも弟の話にふれるとそれなりにドラマティックな展開になり、キムは家を出る。かといって心配する食卓でかかってくる電話(ケータリングの電話だったのだが)が、サスペンスを煽るわけでもなく、雑事が心配を有耶無耶にするにすぎない。
 一方、実母のもとで言い争いになりそれなりにドラマティックに飛び出したキムだが、車を走らせ自殺を図るも死にきれない。あまっさえその事故処理の現場の尻窄まりが丁寧に描写されている。
 
 結婚式の夜、キムは実母を探す。帰る母親を追いかけようとするが、父ポールに呼び止められ仕事の世話を焼かれる。それをやり過ごし玄関を出るが、実母の乗る車を見送るしかない。

 決定的な対決は常に回避され、曖昧に終わる。それだけでは消化不良を起こさせもするであろうシークエンスがそれぞれ呼応しあって、「アンフェア」な映画になった。見るべきは行き場を失った俳優アン・ハサウェイの顔かもしれない。
 
 

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  1. 2009/04/21(火) 03:25:53|
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「イエスマン “YES”は人生のパスワード」( ペイトン・リード)

 (ネタバレ注意)

 常に"NO"と答えてきたカール(ジム・キャリー)が、とあるセミナーに参加し、全てに"YES"と答えるようになるというストーリー。

 例えばファレリー兄弟の「愛しのローズマリー」だと、女性は中身より外見だと言っていた男が、催眠術をかけられて、内面の美しい女性が美しく見えるようになるというストーリーなのだが、あくまで催眠術なので有無を言わせない。催眠術にかかるとそうなるのだという設定を受け入れることが観賞の条件になる。

 しかし本作は自己啓発セミナーであって、催眠術などではない。しかもどちらかといえば猜疑心の強い主人公のようであるから、その彼が全てに"YES"と答えるようになるのにどう説得力をもたせているのか。

 巧いのは、誓約どおり全てに"YES"と答えたら、いいことどころか、ついていない出来事を連続させるところである。
 常に"NO"と答えてきたカールがセミナーに参加する心境は、実にアンビバレントなもの。そこには「もしかしたら」と言う気持ちと、その「もしかしたら」を否定したい気持ちが同居している。
 であるからセミナー後誓約どおり全てに"YES"と答え、それゆえトラブルに見舞われるのにも拘らず、偏執的に、マゾヒスティックにそれをやめないのは、「ほらみたことか」と否定し、「もしかしたら」はないのだと徹底的に自ら言い聞かせる作業であるからだ。裏を返せば「もしかしたら」という思いがしぶといということ。
 そこにあらわれるアリソン(ゾーイー・デシャネル)、完璧。
 カールは、信じたかったのだ。信じたい人が信じる。
 
 誤認逮捕され、アリソンが去って行くと、誓約を破ったからだと結論づける。友人のピーターは「"YES"の誓約など意味ない」と説得しようが、聞く耳をもたない。なぜならカールはそれを信じたくないからだ。

 しかし、元妻が求めるのに"NO"と答えるカール。逃げるカールは立て続けトラブルに見舞われる。
 ここで思い出すのは、カールが隣家のおばあちゃんの誘いを断ったシーン。そこでも、立て続けにトラブルが舞い込み、誓約を破ったからだとおばあちゃんのもとに戻った。
 が、ここでカールは、元妻のもとには戻らない。なぜなら「もしかしたら」「"YES"の誓約など意味ない」かもしれないという思いを否定しきれないからだ。
 そこで教祖(テレンス・スタンプ)が、「"YES"の誓約など意味ない」と言う、完璧。
 カールは、信じたかったのだ。信じたい人が信じる。
 
 
 
 

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  1. 2009/04/15(水) 01:24:43|
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「ハルフウェイ」(北川悦吏子)

 (ネタバレ注意)

 冒頭、保健室でヒロ(北乃きい)はそれとは知らず、シュウ(岡田将生)に告白してしまう。それ自体はよくあるパターンなのだが、メメ(仲里依紗)とシュウはその場を取繕ってしまう。アクシデントによって意図せず告白してしまうというよくある展開は、取繕われ、なかったことにされてしまう、あまりない展開となる。であるから、その結果を知って(私は意図せず告白してしまったのだと)狼狽える主人公というよくある画が、そこにはない。

 程なく、ヒロは意図して告白しようと(意図せずすでになされた告白をそれとは知らず再度しようと)帰り道シュウを待ち伏せる。しかし(それゆえ如上のよくあるパターンに頼るのだが)意図しての告白は声にならない。 
 すでにヒロの気持ちを知るシュウは、彼女からの告白をなかったものとするべく自分から告白する。
 突然の展開に狼狽えるヒロ、思わず保留してしまう。意図せず保留したことで、あくまで彼から告白されたのであって、自分からの告白はなかったということになる。

 この秀逸な2つのシークエンスですでに、シュウは2度も彼女の告白をなかったものとしている。そのことを主人公ヒロ以外は知っているのだ。つまりシュウと我々観客。

 シュウの志望校が東京の大学だとタス(溝端淳平)から聞いたヒロは、なぜ東京に行くのに私に告白したのかとシュウに詰め寄る。
 シュウが告白したのは、ヒロの告白をなかったものにする為だったのだから、ここでその理由は話せない。沈黙するシュウ。

 シュウは迷った末に東京の大学をあきらめる。それを再びタスから聞くヒロ。
 
 ヒロの告白をなかったものとする為に、沈黙し、東京をあきらめるシュウ。
 これは冒頭の2シークエンスに重なる。
 沈黙でやり過ごすのは、保健室での取繕い。東京をあきらめるのは、シュウからの告白。
 「いけな」は、シュウからの告白の保留。

 ラスト、ドラムロールとともにお互いが発表しあう遊びでヒロがシュウに無意識に欲しているのは、なかったことにされたヒロの告白ではないだろうか。

 なかったことにされたヒロの告白を谺のように、それこそドラムロールのように反響させ、全編を支配させる構造は、それゆえアドリブにスポイルされることはない。

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  1. 2009/04/13(月) 00:35:02|
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「ゼラチンシルバーLOVE」(操上和美)

 (ネタバレ注意)
 運河をはさんで女(宮沢りえ)をビデオカメラで監視する男(永瀬正敏)という設定。男の職業がカメラマン。ラスト、フラッシュにて撃退・・・というのはヒッチコックの「裏窓」を、
 ゆでたまごを食べる殺し屋というのは、飯の炊ける匂いが好きな殺し屋の鈴木清順「殺しの烙印」を、想起させる。

 映画は男の監視している視点を守り、女のいる部屋とカットバックするようなことはない。女の姿はRECマークを含むビデオカメラ視点からとらえられ、観客も男の側から女を見る。
 しかし、ビデオカメラ視点というエクスキューズがありながら、やがてその視点が被写体にあきらかに近づくのだ。女がゆでたまごを食べるのをスローでとらえるクロースアップは、男のいる位置からは決してとらえられない。それはレンズの能力の問題(サイズの問題)ではなく、被写体との距離の問題なのだ。あの「美しい」クロースアップはしかるべき距離を介してしか撮影することができない。そのしかるべき距離とは、決して運河を隔てた距離ではなく、すぐ目の前の距離感である。もし距離を隔てて撮影しようものならあの艶かしい立体感は即座に失われるのだから。
 では、これはただ審美的な優先であり映画のトリックにすぎないのだろうか。
 男はビデオにうつったその女の姿を、銀塩カメラで再撮する。
 その現像を終えた男は、夢かうつつか彼女の部屋に紛れ込み、そこでシャッターをきる。
 女=被写体との距離の違和感は、このモノクロームのなかでシャッターをきる男の距離感を先取りしていたからなのだ。

 男は、街のなかで「美しい」ものを撮る。その何枚かがモノクロームのスティルとしてインサートされるのだが、その一枚に男自身のうしろ姿がある。男自身には決して撮れない写真。
 
 カメラを構えている男の撮る写真が、ある時は構えている男のいる位置よりはるか前方で被写体に接近して撮られ、ある時は構えている男のいる位置より後方で撮られることで男までも被写体にする。

 撮るとはそういうことである。
 

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  1. 2009/04/10(金) 02:24:28|
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「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(デヴィッド・フィンチャー)

 (ネタバレ注意)
 映画は、年老いた姿でうまれ成長とともに若返るベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)と、幼なじみのデイジー(ケイト・ブランシェット)の二人の人生を軸に描かれる。
 ベンジャミンの逆行する数奇な人生ゆえに、デイジーの数奇ではない人生と重なる時間は短い。
 老いていくデイジーと、若返っていくベンジャミン、お互いが追いつき、ほぼ同じ年齢の二人が、ダンス教室の鏡の前に立つ。現在の二人をおぼえておきたいと鏡を見るとき、二人が見ているのはそれぞれの姿なのではない。鏡に映っているのはそれぞれの姿であるにもかかわらず、彼ら(そして我々観客)がそこに見るのは二人の関係なのだ。そこで告げられる妊娠。

 二人の人生は、ジッパーのように一つになることはない。ただボタンをとめるように交わる。

 ベンジャミンにピアノを教えた老婆は、若返ることは愛する人に先立たれるということだと言った。しかし、そうだろうか?
 確かにベンジャミンは若返っていくが、その最期はデイジーに看取られたではないか。
 ベンジャミンの数奇にもみえる人生は、我々の数奇ではない人生の寓話である。
 我々はベンジャミンのように若返っていくことはないが、ボタンをとめるようにしか他人と交わることができないのは同じ。
 ちょうど、7回カミナリに撃たれたことがあると語る老人とカミナリの出会いのように、一つ一つボタンをとめるように、人と出会い別れていくのが我々の数奇な人生なのだ。

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  1. 2009/04/05(日) 00:15:13|
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パッセンジャーズ(ロドリゴ・ガルシア)

 ストーリーについてはとやかく言うまい。
 巧いと思った演出について。
 クレア(アン・ハサウェイ)は病院へと駆けつけ、エリック(パトリック・ウィルソン)のもとに。クレアとともに誘導された観客は、はじまってまもなくの展開がゆえにクレアと同様いまだその世界=ストーリーに親しめない。が、そこでのエリックはなぜか裸で躁状態。
 無防備な裸と、なぜというフックで、クレアと観客はこのストーリーに入り込む。
 クレアが暇を乞い、立ち去ろうとして開けたカーテンの先は壁。
 「逃げられない」という読みと、結末から遡及すれば「思い込み」という読みができる。

 クレアとエリックが海に浮かびながらキスをする。そのまま潜り込む二人。ベッドの上の二人につなげられる。そしてキャメラはベッド側面をワイプしながらアップして事後の二人を浮かび上げる。二人のラブシーンはあたかも水の中での出来事のようにとらえられる。

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  1. 2009/04/03(金) 12:16:40|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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