撮影監督の映画批評

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「アンダーカヴァー」(ジェームズ・グレイ)

 (ネタバレあり)
 監督のジェームズ・グレイは、公式サイトで次のように言っている。
 

「(前略)皮肉を交えず、観客とキャラクターの間に距離感のない、冷笑することも見下すこともない映画を作ること。私は誠実な映画を作りたいんだ」


 誠実すぎて、その誠実さすら気取られないのではないかと杞憂を抱いてしまうほど誠実な映画。
 その誠実な演出をふりかえってみたい。
 たとえばジョセフ(マーク・ウォールバーグ)が凶弾に倒れたとの知らせを受ける父バート(ロバート・デュヴァル)を、どのように捉えているか。
 ボクシングジム内をその練習風景を捉えながらキャメラは横移動していき、その奥でサンドバックを抱え選手を鼓舞するバートを捉える。息を整えたバートは、キャメラが移動してきた先に目をやる。その見た目でとらえられるやってくる警官。バートは、その言い出しにくそうな様子から了察し、どっちの息子かと気丈に問う。警官らが去った後、キャメラはジムを引き画で捉える、それと同時に倒れるバート。
 キャメラの横移動は、遅れてやってくる警官らの動きに先行する凶報の予感である。であればこそ、バートは予め察するのだし、そのキャメラからの拘束を解かれた引き画で倒れ込むのだ。

 ボビー(ホアキン・フェニックス)が裏切り者だとわかるまでのサスペンスを、最初は頭全部を覆う麻袋、次にマスクと、視覚的にも徐々に面が割れるように演出している。しかもそこで最後まで覆われているのは口なのだ。その呼吸のし辛さの音響がサスペンスを亢進する。

 喧噪(ボビーの店、警察のパーティー)と静寂(ボビーのボスの家、教会)のコントラストを隣り合わせるうまさ、それは即ち兄と弟のコントラストを際立たせる為に呼応しているのであって、例えばデブの嫁とセクシーな恋人(エヴァ・メンデス)という幾分わかりやすすぎもするコントラストもそうである。
 そのようにして際立てられた兄と弟のコントラストは、父の死をきっかけにそれが反転することのコントラストを際立てる為のコントラストである。と、ここまではウェルメイドな作劇にすぎない。ジェームズ・グレイの誠実さは、反転するコントラストのグレー(中間域)の部分を丁寧に描いているところにある。つまり反転するまでの中間域を描きたいがための/際立たせるがための中間域を欠いたコントラストの描写。
 2度の銃撃がある。1度目は兄ジョセフ、2度目は父バート、それを経て変化するボビー。1度目の銃撃で退路を絶たれたボビーは半ば消極的に受動的に変化を受け入れる。そして2度目の父親の死で能動的に変化するドラマなのだ。この1度目と2度目の銃撃に挟まれた部分がジェームズ・グレイが最も描きたかったはずの中間域である。父親の承認がほしいだけの弟にすぎず、あまつさえ父親に甘えもする。それを演じるホアキン・フェニックスが素晴らしい。コントラストの両極は演技も演出も容易い。難しいのはその中間域なのだ。
 それがあって、兄ジョセフから手渡される父の拳銃を構えるボビーの顔に感動する。そこまでその顔を耐えてきたホアキン・フェニックスとジェームズ・グレイの演出の勝利である。
 
 

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  1. 2008/12/28(日) 18:15:36|
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「ミラーズ」(アレクサンドル・アジャ)

 日本一鏡像の好きなキャメラマンを自称する以上、鏡をテーマにした映画を観にいかないわけにはいかない。というわけで・・・。
 なぜか鏡に映したかのごとく似た映画が立て続けに公開されることがある。
 「ミラーズ」と「ブロークン」(ショーン・エリス)
 「無ケーカクの命中男」(ジャド・アパトー)でも劇中指摘されていたが、
 「ダンテズ・ピーク」(ロジャー・ドナルドソン)と「ボルケーノ」(ミック・ジャクソン)
 「ターミナル・ベロシティ」(デラン・サラフィアン)と「ドロップ・ゾーン」(ジョン・バダム)等々。

 さて本作は、ユ・ジテ主演の「Mirror 鏡の中」(キム・ソンホ)のハリウッド・リメイクであり、かなり改変されている。なかでも舞台となるデパートが、オリジナルでは火災からの再オープンを待つ新しいビルディングなのに対し、リメイクでは火災後そのまま放置された廃墟になっている。この廃墟は一見おどろおどろしく感ぜられるが、実は「ミラーズ」でも妹が殺されるアパートや、家族らが住む一軒家での展開の方が怖い。日常どこにでもある鏡の方が、廃墟にある鏡より怖いのだから、この改変はさして成功していないように思う。
 次に主人公が乗り越えるべきものが、オリジナルでは間違って鏡に映った犯人を撃ったが為に人質であった同僚を結果殺させてしまったという過去なのに対し、リメイクでは同僚を殺してしまったまでは同じであるが、それゆえアルコールに溺れ家族の絆を失ってしまったことにある。
 それゆえ「ミラーズ」では、家族を守ることが主人公が為すべきことになる。
 そこでベン(キーファー・サザーランド)は、家中の鏡という鏡を廃棄したり、ペンキで塗りつぶしたりして家族を守ろうとする。決して外に出てはいけない。なぜならどこにでも鏡があるから。うつるもの全てを覆ったのだから家の中が一番安全だと。
 まるで「耳なし芳一」である。経文が書き落とされた芳一の耳だけが宙に浮いていたように、どこかに覆い忘れたうつりがあって・・・と、そのようなサスペンスであるべきではなかったか。残念ながら、いつのまにか床が水浸しになっていてそこら中うつりだらけになる。
 鏡の中と手前で動きがずれるのは、「ブロークン」でも、もちろんオリジナルである「Mirror 鏡の中」でもやっていた。映画が面白いのはこれと同じ構造の表現を、ギャグとしても許容するからだ。
 ドリフのコントの元ネタでもあるマルクス兄弟の「我輩はカモである」(レオ・マッケリー)の偽鏡でも、シンクロしつつズレはじめ挙げ句の果てには、鏡の中の人物と入れ替わるのだし、「フライングハイ」(ZAZ)でも、鏡の中からロバート・スタックが出てくるギャグがあるのだから。
 

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  1. 2008/12/28(日) 02:03:24|
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「ワールド・オブ・ライズ」(リドリー・スコット)

 CIA局員のエド・ホフマン(ラッセル・クロウ)は、アメリカを「未来」、テロリストを「過去」に擬す。「過去」であるがゆえに厄介なのだと。
 「未来」を体現するエドは、上空からの監視映像を遠隔操作し、携帯電話すら通じない「過去」である現場にロジャー・フェリス(レオナルド・ディカプリオ)を送り込む。現場では、上空からの監視カメラも行き届かない、なぜならそこは「過去」だから。「未来」が「過去」と戦う為に「過去」に送り込まれたフェリスは、さしずめ「現在」か。

 以前のエントリーで、映画は偏在するキャメラと遍在するキャメラが演じるメロドラマなのだと言った。遍在するキャメラは「未来」のエド、偏在するキャメラは「過去」にいるフェリスを捉える。それらキャメラの往還が「ワールド・オブ・ライズ」という映画/嘘/「現在」を語る。

テーマ:ワールド・オブ・ライズ - ジャンル:映画

  1. 2008/12/26(金) 00:22:57|
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「ハピネス」(ホ・ジノ)

 ヨンス(ファン・ジョンミン)に、療養所で同室のソック(パク・イナン)が煙草を吸いながら次のように問う。肺ガンとわかって煙草を吸ったことを後悔したが、今は後悔しないように吸う、この違いがわかるか?
 ヨンスは答えないが、もちろんその違いはわかる。しかし、いつどのようにしてそのように変わったのかはわからない。いつしかそのように変わったとしか言いようがない違い。

 「ハピネス」は「春の日は過ぎゆく」の男女を取り替えたような話。
 女に去られる男を描いた「春の日は過ぎゆく」
 女のもとを去る男を描いた「ハピネス」
 どちらも、恋とその別れを丁寧に描いている。ホ・ジノが巧いのは、恋愛とその終わりの過程をいつしかそのように変わったとしかいいようがない語り口で描くからだ。
 恋愛中の二人と別れを迎えた二人は、明らかに違う。しかし、いつどこで二人の気持ちが離れたのかを指摘することはできない。凡百の恋愛映画であれば、指摘しうる出来事が存在し、それを境と画然とする演出がなされるだろう。
 変化は不連続ではない。ホ・ジノは連続する変化を描こうとしている。その変化はいつしかそのように変わったとしかいいようのない仕方で描写されるべきなのだ。
 「ハピネス」は、その点ややつらい。なぜなら「サンライズ」(F・W・ムルナウ)のような都会の女の誘惑という出来事に集約されがちだから。
 
 ウニ(イム・スジョン)はヨンスに、自分が死ぬ時は必ず側にいてくれと頼む。ヨンスは答える代わりに、自分が死ぬ時も側にいてくれるかと聞く。
 (事故や故意でない限り)人は同時に死ぬことはできない。
 恋愛の終わりも同じく、二人に同時に訪れるわけではない。

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/12/24(水) 17:16:18|
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「ラースと、その彼女」(クレイグ・ギレスビー)

 等身大のリアルドールに恋するラース(ライアン・ゴズリング)を主人公とする設定は、マネキンに恋する主人公を描いた「マネキン」(マイケル・ゴットリーブ)と同じくピグマリオン的なものかとも思うが、同作のように人形が人間になることはない。
 むしろ「ハーヴェイ」(ヘンリー・コスター)の主人公にしか見えない身長2mのウサギがいつも側にいるという主張に近い。

 この3作品を比較してみる。
 「マネキン」では、マネキンが人間に変わることを観客とだけ共有させ主人公に感情移入させる。
 「ハーヴェイ」では、身長2mのウサギの存在は観客にも知らされない。しかし、周囲の無理解への反発から主人公に同情する。自分自身はさして変化せず周囲を変えていく、いわばカタリストヒーローである。
 「ラースと、その彼女」でなによりも特徴的なのは、周囲の人々である。「マネキン」「ハーヴェイ」をあげるまでもなくこの手の映画は周囲の無理解に孤軍奮闘する主人公に感情移入させるものであるが、そうではない。周囲の人々は、無理解どころかラースに同調してリアルドール=ビアンカを本物の人間として扱う。
 この映画の不思議な魅力はここにある。
 ビアンカがリアルドールでしかないことは重々承知の上で周囲の人々が、ビアンカ=人間という設定を受け入れるのは、「マネキン」や「ハーヴェイ」で、マネキン=人間、2mのウサギが絵空事なのは重々承知の上でその設定を受け入れ主人公に肩入れしてきた我々観客の感情移入と重なる。
 そう、周囲の人々に我々観客をみてしまう奇妙な感覚。
 「マネキン」や「ハーヴェイ」でその設定を否定してしまえば、そこで映画は終わってしまう。映画=嘘だとわかっていてその嘘に身を任せるから、物語が立ち上がる。
 「ラースと、その彼女」では、周囲の人々がラースの妄想だとわかっていて話を合わせるから、ラースの物語が立ち上がる。それが証拠に後半、ラース自身が物語を終わらせようとしているという主旨の指摘をバーマン医師( パトリック・クラークソン)がしなかったか。
 ラースの物語を享受する周囲の人々という物語を我々は享受する。

 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/12/23(火) 14:41:02|
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「永遠のこどもたち」(J・A・バヨナ)

(ネタバレあり)
 オープニング、子供たちがスペイン版「だるまさんがころんだ」で遊んでいる。この遊びは日本だけでなく各国にあるようで、鬼が振り返ったときに静止していなければならないというルールも同じらしい。
 後半、ラウラ(ベレン・ルエダ)が息子シモンを取り戻そうと、かつて一緒に孤児院時代を過ごし今はもう生きてはいない仲間と再び「だるまさんがころんだ」で遊ぶ。このふりかえりにあわせてなされるパンが怖い。
 この怖さはマスクとしてのフレームがパンニングよって、アンマスクされることにある。
 でありながら更に怖いのは、アンマスクされたフレームに何もないこと。
 つまりアンマスクされたフレームによって新たにマスクされるオフフレームが生まれる。
 マスクとしてのフレームが更新されることによって亢進される怖さ。
 「だるまさんがころんだ」も、鬼がマスクしているところで進行し、ふりかえり=アンマスクと同時に静止され、見ることができない。ただその動きのしっぽをとらえようとするふりかえり。
 ふりかえったときにはすでにそこにはないが、それでもふりかえる。それがふりかえりそのもののもつ魅力である。ふりかえった先に実際あるものには、それほどの魅力はない。
 以前、成瀬巳喜男の「乱れる」にふれて、ふりかえれどもふりかえれども対称性が遠のいていくのがメロドラマであり、であるから成瀬のふりかえりは魅力的なのだと述べた。
 映画、はふりかえった先をではなく、ふりかえりそのものを魅力的にみせなければならない。

 他にも、「宝探し」と称してラウラがこどもたちに翻弄されるのも2度繰り返される。隠し場所のヒントになるようなものを辿っていくと、そこには次の隠し場所をしめすヒントがあり、それを辿っていくとさらに・・・。
 その度見つけられるヒント自体はつぎの隠し場所をしめすにすぎず、それ以上の意味はさしてない。
 決定的なものを先送りにすることで生じる未決状態自体を遊ぶ。そんな子供の遊びと映画との相似。
 ただしその決定的なものは些かも決定的である必要はなく、決定的であるというとりきめさえあればよい、むしろその方がよい。マクガフィンである。
  [「永遠のこどもたち」(J・A・バヨナ)]の続きを読む

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/12/21(日) 13:27:11|
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「1408号室」(ミカエル・ハフストローム)

 (ネタバレあり)
 新宿ミラノ3にて「1408号室」を観賞し、その後新宿ピカデリーにて「WALL・E/ウォーリー」を観た。外より寒いミラノ3でダウンに首を埋めながら凍え、過剰暖房のピカデリーでカットソーのみになっても尚汗ばみ、まるで空調のくるった「1408号室」。

 マイク(ジョン・キューザック)は自著のサイン会で、eBayで購入したという随分以前に出版されたのであろうマイクの著書を持った女性から質問される。この作品に出てくる親子の話は本当の話なのか?マイクは違うと否定し、今の自分はもう別人だともそこで言っている。我々観客は、否定したマイクの言葉を疑い、マイクにもう別人だと言わしめる過去があったに違いないと確信する。

 マイクが1408号室には絶対に入ってはならないという葉書を受け取ったがゆえに、1408号室に泊まろうとするのは、「青髭」や「鶴の恩返し」などの禁室型の説話と同じである。それは我々観客にとってなじみ深い話型という幾分客観的な事実であるだけでなく、すでに主観的に折り込まれている。つまり、先のマイクが否定した言葉や隠された過去にこそ何かがあるとする観客と、入ってはいけない1408号室にこそ何かがある/入らなければならないとするマイクが同じなのだ。観客がマイクに対して抱いた謎と同じ仕方で、マイクが1408号室に謎を抱くところがミソなのだ。

 マイクがその葉書を受け取るのを私書箱の内側にカメラを据え捉えている。これと同じ構図をもう一度観ることになるのだが、支配人のオリン(サミュエル・L・ジャクソン)によって当の1408号室の鍵が取り出されるそれである。
 入るなという葉書を入ろうとするマイクが手にする構図と、部屋に入る為の鍵を入るなと説得するオリンが手にする構図が重なる。
 1408号室に入る/入るなで反転する鏡像。マイクとオリンは鏡に映った同じ人物。

 それを証拠だてるかのごとくの夢オチ、すべてはマイクの夢であったという夢オチではないというオチ。シシュポスの岩。さらには、再度同じ60分が繰り返される。「恋はデジャ・ブ」的地獄。

 しかし、2度娘を失うことで、我々観客がそこに何かがあるとした何かを埋める。正しい葬送。

 ラスト、娘の声がテープレコーダーから聞こえるのは、「エルム街の悪夢」で夢の中から持って帰ってきたフレディの帽子のよう。

 

 

テーマ:映画レビュー - ジャンル:映画

  1. 2008/12/17(水) 01:09:32|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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