撮影監督の映画批評

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「八月のクリスマス」(ホ・ジノ)

 DVDにて再見。
 glasses(ガラス、眼鏡、鏡)の映画。
 ジョンウォン(ハン・ソッキュ)とタリム(シム・ウナ)の出会いは、店先のガラスのうつりの中でなされる。にべもない対応の後、表で佇むタリムをガラス越しに見たジョンウォンは、彼女のもとへ赴き非礼をわびる。
 タリムもまた、子供たちと店先で戯れるジョンウォンをガラス越しに見つめることが契機となって彼を意識しはじめる。
 彼らの恋は、ガラス越しに見ることではじまる。そしてそのガラスが常に彼らを隔てる。

 写真館を訪れた大家族のお婆さんに、眼鏡を外してはどうかと提案する。一度は外してみるものの、やはりかけてたほうがいいようですねと前言撤回する。夜になって再びそのお婆さんがやってきて、もう一度撮り直してほしいと言う、葬式の写真にしたいのだと。
 ジョンウォンは再び眼鏡を外すことを勧め、今度は外したほうがずっといいと昼間の前言撤回を撤回する。

 ジョンウォンは、タリムの前ではガラス=眼鏡を外さない。
 ジョンウォンが居眠りしているところへタリムがやってきた時も、目覚めるジョンウォンに、まるでガラスを隔ててでなければ出会えないかのごとく、急かすように眼鏡を手渡す。
 
 でありながら、ジョンウォンはお婆さんに眼鏡=ガラスを外させるのだし、タリムもまた2人を隔てる店のガラスを石を投げ割ってしまう。このアンビバレントな感情。

 退院したジョンウォンが喫茶店のガラス越しにタリムを見つける。そのジョンウォンの表情に繋げられるタリムのカット。その見た目のタリムの画に不意にジョンウォンの手がフレームインしてきて、それがガラス越しであったことに気づかされる。ガラス越しの別れ。

 自身の葬式の写真を撮るジョンウォンは、眼鏡=ガラスを外さない。外さないことが全てを語っている。ガラス越しのままの恋。

 タリムの姿に不意にフレームインするジョンウォンの手は、そこにガラスがあることを意味するが、我々観客にとっては、スクリーンの存在をも喚起させる。
 2人を隔てるガラスは、観客と映画を隔てるスクリーンであり、キャメラのレンズというガラスである。
 2人がガラス越しに愛し合ったように、我々もスクリーン越しに映画を愛する。
 
 
 
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/26(日) 20:07:09|
  2. 映画感想
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遍/偏在するキャメラ

 映画を演劇から隔てるものに、遍在するキャメラをあげることができるだろう。どちらも客席という視点は不動でありながら、映画にあってはキャメラがその視点を媒介することで、擬制的にいかなる視点をもとりうる。
 キャメラの遍在性それ自体は、取り立ててどうこう言うこともなく自然に了承されている類のものである。
 しかし権利上どこであろうが遍く存在することのできるキャメラも、スプリット・スクリーンを用いない限り同時に複数の視点を提示することはできない。至極当然のことながら、キャメラの遍在は可能性であり、現実的にはキャメラは任意の場所に実在し、その視点からの画を提供する。どこで何をどう撮ってもいいキャメラに、どこかで何かをどのようにか撮らせることが、映画を撮るということ(の一側面)である。

 そのようにして撮られた映画のキャメラが、その遍在性=透明性しか示し得ない作品を私は駄作と断じる。映画には偏在する(偏って在る)キャメラが必要なのだ。遍在する非人称(=遍く存在する神"ubiquitous"の視点)キャメラのしんにょうを人偏にかえて、偏って在るキャメラは人称性を帯びる。人称性を帯びたキャメラはもう透明ではない。
 もちろん偏在するキャメラの最たるものは、POVムービー=1人称キャメラになる。残念ながら遍在と偏在の両極は、退屈さにおいて似てくるようである。
 映画とは、遍在するキャメラと偏在するキャメラが演じるメロドラマのことを言う。

 現場でカットバックの撮影となると、レンズのミリ数と、被写体までのディスタンスとおおよその角度を記録しておくのが撮影助手の仕事である。等方向のセットアップをまとめて撮影する抜き撮りがスタンダードだから、切り返しのセットアップ時にそれぞれ対応するカット毎、レンズとディスタンス、おおよその角度をそろえておく。そうすることで偏りのない透明なカットバックを撮影することができる。遍在するキャメラである。(図のA)
 
A





B



 このカットバックもキャメラを偏在させることで、人称性を帯びる。(図のB、赤に偏る)
ちなみにこれは大きさ(サイズの不均衡)の問題ではない。Bの青に向けられたキャメラはAのそれと比べ離れているが、ポジションはそのままレンズを長くすることでサイズ上は、Aのカットバックにそろえることができる。しかしそれでも尚Bのカットバックは人称性を拭えない。


T(前略)たとえば、映画がはじまってからすぐ、主人公のアパートで若い女が背中に短刀を突き刺されて死ぬわけですが、主人公はそこから逃げだそうにも逃げられない。窓からそっと下の歩道を見ると、ふたりのスパイが行ったり来たりしながら彼のアパートを見張っている。あなたの映画ではこのふたりのスパイが主人公のロバート・ドーナットの眼からだけとらえられている。キャメラは主人公のアパートの窓のこちら側に置かれており、そこからロングで外の歩道の向こう側にいるスパイたちをとらえるという視点がはっきりありました。ところが、リメークでは、このシーンのまえにすでにスパイたちのクロースアップが2、3カットあるのです。スパイたちの正体がわかって、ちっともおそろしい存在でなくなってしまうんですね。観客が主人公と一体になってドキドキ、ハラハラする理由がなくなってしまう。
H それはひどいな。こういったシチュエーションでは視点を変えてはならないというのが鉄則だからね。


 これは「定本 映画術」でトリュフォーが「三十九夜」のリメーク(ラルフ・トーマス監督「三十九階段」)を腐しているところだ。
 リメークでスパイたちのクロースアップを撮るのが遍在するキャメラであり、視点を変えてはならないというヒッチコックの鉄則に従うのは偏在するキャメラである。



2人の人物が出ている場面がたくさんある。それから町で何かが起こる場面がたくさん。一番手っ取り早いのは、ロングショットとクロースアップを撮ること。難しいパートはその中間にある結合組織です。カメラでどのように場面を結合させるか、それをどうやって結びつけるか


 これは「アウトロー」のインタビューでイーストウッドが語っている言葉。
 人称性、偏りをみせるのが、イーストウッドが難しいと言っている結合組織である。どのようにキャメラを偏在させるかは結合組織のあり方であるから難しく、手っ取り早いはずのロングショットやクロースアップも結合組織によってその彩りをかえる。




お増を土蔵まで行かせるのが辛かった。もともときくと民子の側の話題ですよね。台所にいるお増のほうへカメラが行くのは、非常に不自然。でもお増の画が欲しい。これは、考えれば考えるほど神経質になったけど、まわりのスタッフから、画が繋がってみると案外、自然に見えるから、と言われてやってみたら、ちゃんと繋がっていた(笑)。?中略? やってみれば、どうってことないんだけどね。しかし、そういう繋ぎに、いったんは神経質になることは必要だと思うんです。



 これは、「映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法」で「野菊の墓」を語る澤井監督の発言。
 スタッフの進言するキャメラは遍在するキャメラ、もちろんちゃんと繋がる。澤井監督が神経質になる必要があるというのが偏在すべきキャメラ。



シーンが微妙に錯綜してくると、キャメラの視点は変わってくる。「北北西に進路を取れ」のラスト近く、わたしたちの感情移入は、敵のスパイの隠れ家にもぐりこんだケイリー・グラントから、いっきょに、ボスの情婦(エヴァ・マリー・セイント)が逆スパイであることを見破ったマーティン・ランドーに向けられる。このように<視点>によってストーリーを語っていく技法は、小説ではごくありふれたものであるが、映画ではヒッチコックだけがこれをひとつのエクリチュールに完成したといっても過言ではないのである。


 再び「定本 映画術」からトリュフォーの言葉。
 ヒッチコックは、澤井監督が悩みぬいたことをエクリチュールにまで完成させている。キャメラを偏在させる必要があるが、固執する必要はない。キャメラの偏在性と遍在性を巧みに使い分け、トリュフォー曰くヒッチコックのみが成し得た映画術。

 個人的には、被写体との距離を間違えていなければ、サイズが不確かであろうとさして問題はないと思っている。撮影者として重要なのは、被写体との距離感であって、どのようなサイズでおさめるかというレンズの選択ではない。例えば極端な話、ある距離をおいてフルサイズで撮影すべき被写体があったとして、それを誤った距離から正しいフルサイズで撮影したものと、正しい距離から誤ったクロースアップで撮影したものを比べるなら私は迷わず後者を選びたい。

[遍/偏在するキャメラ]の続きを読む
  1. 2008/10/24(金) 21:40:30|
  2. 演出
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「イーグル・アイ」(D・J・カルーソ)

 同監督の前作「ディスタービア」は面白かった。今作「イーグル・アイ」は面白くない。極個人的な感想。
 イーグル・アイでありながら、状況を鳥瞰できる視座は観客にも与えられず、アクションシーンは何がなんだかわからない。その混乱は等しくその場に身を置く主人公と重なるのだからと好意的に解釈することも躊躇われる。なぜなら、POVムービーであり客観的な視点のない「クローバーフィールド/HAKAISHA」や「REC/レック」よりも何が起こっているのか理解しがたいからだ。
 POVムービーは、客観的なショットが奪われていて閉塞しているが、逆に主観という視点はぶれることはない。それゆえそこで描かれるのは、常に主観視点からの被写体との距離である。
 「イーグル・アイ」は、客観的なショットがあるにもかかわらず、被写体同士の距離を知るための視座が奪われている。距離を描けないということは、すなわちサスペンスが描けないということ。
 前作「ディスタービア」が面白かったのは、自宅から離れることができないという主人公の設定がすでに、彼の視点を軸とした距離の描写を要請しているからである。それでも後半、犯人の家を訪ねに行った母親の側に視点が移ったり、ラストのアクションシーンでやはり何が起こっているのかわからないのは、この監督の資質なのではないだろうか。
 
 ユビキタスな視点は決して映画を面白くしないということで、ユビキタス社会への批判としているのなら言うことはない。

テーマ:洋画 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/23(木) 18:03:35|
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「春琴物語」(伊藤大輔 )

 盲目の春琴(京マチ子)が少女時代を回想しながら舞うのを、佐助(花柳喜章)は黙って見つめている。春琴が足を踏み外し倒れる。駆け寄る佐助に見られていたことを知った春琴は、激しく叱責する。それは佐助の一方的な眼差しが帯びる権力性が、二人の主従関係を裏切るからである。
 春琴の無力感は、見えないことよりも、見返すことのできないことにある。

 しかし、春琴に見返されないことは、当の見る側には異なる効果を与える。
 それは、佐助と、原作から改変され追加されたおえい(杉村春子)の二人に見てとれる。

 見る側にとって見返されないことは、視線を外す機会が奪われることに他ならない。
 春琴の美しさに文字どうり目が吸い付いて離れない。美しくとも、見返されたならば、目を背けざるをえないだろう。しかし、春琴にその心配はない。
 佐助にとっては、それが恋情に。目を背ける機会を奪われ、いっそ盲目になってしまいたいと嘆くおえいにとっては、それが嫉妬になる。

 だから原作では曖昧なままの兇漢は、おえいに嗾されたことになっている。見返されずとも目を逸らすことができる顔にしたのだ。
 

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/20(月) 00:11:16|
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「デトロイト・メタル・シティ」(李闘士男)

 他人が羨む才能に、当の本人は気づいていない/気づきたくない。そんな根岸崇一=ヨハネ・クラウザーII世(松山ケンイチ)のことを知悉している二人の女性は、気づかせることができないことも知っていて、ただ彼が気づくのを見守る。本人が気づいていないだけだと知りながら、気づかせることはできず、ただ気づくのを待つしかないのだと見守る二人の女性とは、デスレコーズ社長(松雪泰子)と、崇一の母、啓子(宮崎美子)である。

 そんな母子の物語。

 崇一が田舎に帰り、引き払われたアパートに一人佇む社長。そのガランとした部屋のベランダで、物干竿に残されたプラスティック製のハンガーが1つ、風に吹かれてカランカランと乾いた音をたてている。その音響を我々はもう一度聴くことになる。
 母に誘われ訪れた神社で、風に吹かれた絵馬がカランカランと乾いた音を響かせるのだ。その絵馬に書かれていたのは啓子の祈願であるが、それは即ち社長の祈願でもある。
 そう、祈ることしか知らない二人の母の祈りなのだ。

テーマ:デトロイト・メタル・シティ - ジャンル:映画

  1. 2008/10/17(金) 18:30:36|
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「その土曜日、7時58分 」(シドニー・ルメット)

(ネタバレあり)

 映画は、複数の視点からその都度描き直される。両親の宝石店を襲う「その土曜日、7時58分」もその都度それぞれの視点で通過されるが、例えば「バンテージ・ポイント」(ピート・トラヴィス)のようにその都度そこにリワインドされる大統領狙撃事件ほどの求心力はない。
 別視点で語ることで明らかになる事件の真相などというものはさしてないからだ。
 いわゆる「羅生門スタイル」というものとは、ちと違うらしい。
 しかし、離心的な家族の成員それぞれの事情をバラバラに描写するだけと思われた複数の視点が、ある場所に集約される。実家の庭だ。
 まず、庭に面する部屋でジーナ(マリサ・トメイ)の携帯が鳴る。義父チャールズ(アルバート・フィニー)もいるし、アンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)に呼ばれているからと、早々に電話を切る。アンディとチャールズは庭へと出て行き、そこにあるベンチに座る。その二人の姿は、庭に面した窓に縁取られるジーナの視点で見せられる。
 次にハンクの視点で、ジーナの携帯に電話をかけたのはハンクだったとわかる。先に見せたアンディの世話女房然とした姿は見せかけにすぎない。泣きつくハンク。隠されていたハンクとジーナの姿。
 最後に、先程二人並んで座る姿が矩形の窓に縁取られ親子然としたものとして見えた当の二人。そこで語られる会話。隠されていたアンディとチャールズの姿。

 離心的な家族の成員が、離心的なまま一所に集められ、それゆえ互いの斥力は臨界に達し再び離散する。羅生門スタイルが描いているのは、「その土曜日、7時58分」におこる事件のバンテージポイント(有利な観点)ではなく、家族のクリティカルポイント(臨界点)としての庭での出来事なのだ。


 チャールズが、妻ナネットの延命措置を打ち切ったように、アンディもまた彼の手で逝く。
 その際、チャールズが心拍計を自らの胸に付け替え、死にゆくものの消えゆく心拍ではなく、さして激しく打つこともない自らの心拍を聞きながら息子を手にかける。心拍がさしてあがらないだけに際立ちはしないけれど、だからこそ迫るものがある。

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/16(木) 20:15:55|
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「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」(山中貞雄)

 名作中の名作。1つ前のエントリーで、マックス・オフュルス「たそがれの女心」の耳飾りは、「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」の「こけ猿の壷」であると述べたが、「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」を単独で語るなら「こけ猿の壷」は青い鳥だろう。

 冒頭の3シーン(「こけ猿の壷」の秘密を明かす老人の居室、柳生藩の藩主対馬守の居城、江戸表の家老宅)を、間に実景をブリッジして、あたかも1つの会話のごとく繋いでいるのが素晴らしい。「市民ケーン」でもケーンの子供時代から大人へのつなぎが、サッチャーとケーンが会話するかのごとく、メリークリスマスとハッピーニューイヤーで繋がれていたが、オーソン・ウェルズでさえ2シーンを繋ぐだけなのだから、山中貞雄の天才は言うまでもない。
 3シーン1カット(画)ではなく、3シーン1ダイアローグ(音)とでも言おうか。
 柳生対馬守(阪東勝太郎)の家臣、高大之進 (鬼頭善一郎)が、老人、対馬守、江戸表の家老の3人を、あたかも同じ1人を相手にするかのごとく応対し3シーンが展開する。であるから、ブリッジ部分の実景に重なり3人を媒介する高大之進セリフは、前のシーンのズリ下げ分なのか、続くシーンからのズリ上げ分なのか判然としないアンビバレントなセリフである。

 シーンのつなぎで、「逆手の話術」と言われる手法に触れないわけにはいかないだろう。否定するセリフでシーンを終え、続くシーンで否定していたはずのことが反故にされている。身寄りのない子供を引き取る引き取らないで「逆手の話術」を駆使するのは、小津の「長屋紳士録」でも見ることができるが、その話術では山中貞雄に一日の長があろう。
 さて、それは専ら、ちょび安 (宗春太郎)をめぐって丹下左膳(大河内傳次郎)とお藤(喜代三)との間の言い争いで発せられるのだが、ややもすればクドいほど頻発させるのはなぜか?

 山中貞雄が河原崎長十郎に語った言葉「一つの写真にアップが一つあればそれだけ効果があるのや、二つあれば、それが半分になる訳やろ・・・」

 六十両の返済に言い争いをはじめる丹下左膳とお藤、クドいほど繰り返されてきた「逆手の話術」を用意するかにみえて、さにあらず、隣の部屋でそれを聞いていたちょび安が、書き置きを残し去って行くのだ。「逆手の話術」が繰り返されないこの空白。この寂寥を際立たせるための笑い。

 メガネの玉が1つ余るから人間の目は2つあるというちょび安の論理は、もちろん隻眼の丹下左膳に対して発せられたものであるし、その場を望遠鏡という単眼で覗かれもするからこそでもあるが、この原因と結果を顛倒させる思考に山中貞雄のエッセンスがあるように思えてならない。

 道場破り撃退の芝居の後、別室にて柳生源三郎(沢村国太郎)から六十両受け取る丹下左膳、そこにやってくる源三郎の妻、萩乃、二人はまた芝居を始める。そこで萩乃の単独ショットにカットされる。その萩乃が満足げに微笑み、頼もしい夫を見つめるその表情。こんな幸せに満ちたカットが映画史上あったであろうか。

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/16(木) 16:52:00|
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「たそがれの女心」(マックス・オフュルス)

 何を売ろうかと迷ったあげく最もいらないものとして選んだはずの耳飾りが、呪物的な意味合いを帯び、そのルイーズ(ダニエル・ダリュー)をして執着させ破滅へと導く。
 なぜか?
 すがりつく価値のないものにこそ、すがりつくにたる価値を見いだせるからである。
 盗難騒ぎで宝石商から耳飾りを買い戻したアンドレ(シャルル・ボワイエ)は、愛人ローラとの別れ際にその耳飾りをプレゼントする。それは、あとでルイーズが旅立つとき正確に反復されるのと同じく列車のコンパートメントでのことだが、そこでその客室番号13という数字を幸運の数字だとローラに告げる。コンスタンチノープルのカジノで、ローラはその13という数字に賭け続け、耳飾りを手放したうえに破産する。この13という数字への執着は、むろんアンドレの言葉によるものだが、その言葉に信憑性など欠片もあるはずはなく、それはローラも当然承知している。それでも13という数字に執着するのは、逆説的ながらそれが幸運の数字である信憑などあるはずがないからこそである。
 このローラの13(アンドレの言葉)への執着による破産は、ルイーズの耳飾り(ドナティ男爵の贈り物)への執着による破滅を正確に予告している。

 耳飾りの効果は、嘘をつかせること。あらゆる嘘がつかれる。ルイーズだけではない。アンドレもまた、宝石商から買い戻したにもかかわらず、なくしたフリをするルイーズに知らないフリをするのだし、ドナティ男爵(ヴィットリオ・デ・シーカ)もまた、税関に引き止められているフリをする。
 それでもやはりルイーズの嘘には及ばない。ルイーズは、耳飾りを形見分けでもらったとアンドレに嘘をついたと、ドナティ男爵に嘘をつく。二重の嘘。
 愛の言葉でさえも、「愛していない」になる。
 何が嘘で何が嘘ではないかは、観客にはわかる。しかし、なぜか観客にだけ知らされないのが、原題でも伏せられているルイーズの姓氏である。名乗りの瞬間に必ず邪魔が入ったり、ネームカードがナプキンで隠されていたり、徹底して知らされない。



 ルイーズ自身が宝石商から耳飾りを買い戻す際に次のように言う。
 身につけるために買い戻すのではなく(夫から)隠すためだと。

 「丹下左膳餘話 百萬両の壷 」(山中貞雄)は、耳飾りではなく「こけ猿の壺」に翻弄される人々の話であるが、ラスト、柳生源三郎(沢村国太郎 )はやっと手に入れた「こけ猿の壺」を丹下左膳(大河内傳次郎)に当分預けておくと言う。なぜなら、壷が見つかれば浮気ができないから。
 そう、百萬両を手に入れるために壷を見つけたのではなく(奥方から)隠すためだと。
  

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/15(水) 18:09:18|
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「あぁ、結婚生活」(アイラ・サックス)

 (ネタバレあり)
 韓国映画「今、愛している人と暮らしていますか?」(以前TOHOシネマズ六本木ヒルズで観たが、なんとプロジェクター上映。シネスコ作品で上下クロップされた低画質。DVD上映との但書など一切なかった)と同じくダブル不倫もの。(「今、愛している人と暮らしていますか?」は、お互いの伴侶同士が不倫相手になるのだから、クアドラプル不倫か)

 ダブル不倫もののポイントとして、自らの不倫を隠すことに専らで、相手の不倫に気づかないというのがある。
 リチャード(ピアース・ブロスナン)のボイスオーバーで、「女の直感は鋭いと言う。僕は信じない」と語られるが、その時点で妻パット(パトリシア・クラークソン)の不倫はまだ観客には知らされていない。個人的に女の直感は鋭いと信じて疑わない私は、この一言に引っかかるのだが、鋭いはずの女の直感が例外的に鈍るケースとして腑に落ちることになるダブル不倫という真相への前フリだったのだ。
 ここから得られる教訓は、自分の浮気がバレないのは巧みに隠し果せているからなのではなく、相手が自分に何か隠しているからなのかもしれないということ。

 リチャードのケイ(レイチェル・マクアダムス)へのアプローチも素敵だ。最初の訪問でダイナーへと誘い出し食事をし家まで送るリチャードが、その門前でコーヒーが飲みたいと言うが、すげなく断られる。
 次にケイを送り届けたその時には、ケイが酒を勧め寄っていかないかと言う。それを断るリチャード。この逆転だけで全てを語っている。駄目押しは、リチャードがケイの吸う煙草を求め、彼女の唇に触れたもう短くなった煙草をやさしく包み込むその指である。力の入っていない様子が、立てた小指にあらわれていて艶かしい。

 ケイと別れたハリー(クリス・クーパー)が、パットのもとへと戻り、パットの浮気相手を目撃したであろうが殊更そのリアクションは強調させず、目撃されたかもしれないとパットが思ったかどうかも判然とさせないまま、洗面所のハリーと寝室のパットに会話させる。
 ハリーが「映画はどうだった?」と聞く。
 パットが「よかったわ。いい作品だった」と答える。
 ここで語られる実際には観られていない映画こそ、我々が実際、観ているこの映画のことである。素直ではないが素敵なハッピーエンド。
 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/14(火) 14:17:36|
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「春の日は過ぎゆく」(ホ・ジノ)

 DVDにて再見。
 出会いから別れ、そしてその受容まで、その何を描き何を描かないかという取捨選択が的確。中でも後半そのほとんどを費やしている別れに至る行違いの描写が秀逸。

 二人の別れをその遥か以前に用意するものは何か?
 お墓を見ながらウンス(イ・ヨンエ)は、「死んだらあんなふうに同じお墓に入ろうか?」とサンウ(ユ・ジテ)に聞く。しかしサンウは何も答えず、ウンスを抱き寄せはぐらかしてしまう。二人を背後から捉えている為、その表情はよくわからない。つづく河原のシーンで、一人佇み歌を口ずさむウンスにマイクを向け見つめるサンウ。微かに別れの予感。なぜか?
 サンウがウンスを見つめているからだ。もちろんこれまでもサンウがウンスを見つめることはあった。しかし惹かれ合う二人に優勢であったのは、ウンスがサンウを見つめる描写。こののちこれが逆転するその嚆矢になる。しかもウンスは途中、サンウの視線に気づきサンウを一瞥するが、曖昧な笑みを残し視線を外す。
 さらにつづくシーンで祖母から祖父を奪った女が訪ねてきて、祖母が塞ぎ込む。祖母の存在は、サンウの経験を先取りしつつ並行させてあるのだから、ここでの不穏な描写に意味がないわけがない。
 つまりウンスはサンウが答えなかったことで、先行する内的な対象喪失を経験した。もちろんこれは、この先の展開から遡及してしかわからない。しかし後から遡ってそうだと言える描写になっている。
 この内的な対象喪失の経験を、経験したウンス自身が気づいていない。換言すれば、違和感程度にしか感じていないということだ。だから確かに経験していながら、その時点ではそう名指すことができない。しかるべき時から遡ってしか名指しえない。別れ(外的な対象喪失)に遥かに先立つ内的な対象喪失とは、そのような経験のことである。
 そんな登場人物にすら意識されない微細な変化を、如上のように視線のベクトルの逆転と祖母の描写で、観客にも同じく遡及して気づかせるよう仕掛けが施されてある。

サンウ「キムチ作れる?」
ウンス「もちろん」
    中略
サンウ「恋人を紹介しろって、父が」
ウンス「・・・私、キムチ漬けられない」
サンウ「僕が漬けるよ、僕が漬けるから」
 
 父親に恋人を紹介しろと言われたと告げるサンウに、押し黙るウンス。役割を入れ替えれば、ウンスが同じお墓に入ろうか?と問い、それに答えなかったサンウと、そっくり同じやりとりである。
 漸うウンスは、はぐらしつつも答える。ウンスは言葉にすることで、自らの内的な対象喪失に気づいてしまったのだ。予期された対象喪失。
 つづくシーンがこれを補強している。ウンスは、音楽評論家に消火器の使い方を聞く。かつてサンウにもそれを聞いた。言葉にすることで、確かな逃れえないものにするウンス。
 しかし、それでもなお意識化されてしまった内的な対象喪失に抵抗するウンス。気づいてしまったことを認めたくない。その最後のあがきが、酔って泣きながらすがりつくウンスだ。なぜ私の気持ちは離れていってしまうのか。
 一夜明けたウンスは別人だ。内的な対象喪失の心理を終えてしまった女性が、そこにいる。

 主人公はサンウであり、彼のリアクションにこそ感情移入もし、いたたまれない気持ちになる。我々が予測できる範囲でのリアクションでなければ、共感などできない。我々が感情移入できるキャラクターとは、しばしばそのようなわかりやすさを根にする。
 であるから、サンウのリアクションにこそ心動かされるのだと承知していながらも、特筆すべきはそのリアクションを引き出すアクションとしてのウンスなのだ。ウンス演じるイ・ヨンエが本当に素晴らしい。
 
 DVDの特典映像には、東京国際映画祭時のティーチインの様子が収録されている。
 そこでイ・ヨンエは、次のように言う。

(ラストの桜並木、二人の別れ)
ウンスは後ろ姿だけど正面はどうだったのか。彼女の正面の姿を想像してみてください。それが皆さんの本当の姿かもしれません。過去かあるいは未来のね。


  
 

テーマ:DVDで見た映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/10/01(水) 17:48:40|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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