撮影監督の映画批評

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「ギャラクシー・クエスト」(ディーン・パリソット)

 DVDにて再見。
 もちろん「ギャラクシー・クエスト」と言えば「スタートレック」なのだろうが、生憎「スタートレック」をよく知らない。「スタートレック」を知らない私が参照するのは、ルビッチの「生きるべきか死ぬべきか」である。
 プロテクター号乗組員を演じるのと、ゲシュタポを演じるのとでは、随分異なるようだが、ただもうその共通する適材適所感が気持ちいい。いずれにしてもその劇構造は、「スタートレック」のそれよりも似ていると思われる。(知らないくせに)

 ドクター・ラザラス(アラン・リックマン)に顕著だが、とにかく自分の役を嫌っている。「トカゲヘッドに懸けて、復讐を果たす」などという意味のない馬鹿げた決め台詞を決して言うまいとするドクター・ラザラスが、それを端的に示している。
 でありながら、その意味のない馬鹿げたものにたよらざるをえなくなる状況に追い込まれる。何をするにしても、その意味のない馬鹿げたものしか準拠するものを持たない状況に。
 
 悪者宇宙人サリスは、タガート艦長(ティム・アレン)に、サーミアンたちが歴史ドキュメンタリーだと信じて疑わないのはすべて芝居=嘘なのだと説明させる。ただの役者で芝居でしかないのだと。悲しむマセザー。
 サーミアンたちを騙しているうちは、サーミアンたちが観客であった。もう芝居を観せる観客はいない。嘘をつく必要はなくなったのだ。
 しかし嘘をつく相手がいなくなってはじめて、自分でついた嘘を信じ、それにしがみつく。嘘だとわかっているのに嘘しか信じるものがない。そうしてつかれた嘘が、子気味よく機能していき、適材適所がグルーブする。
 だからドクター・ラザラスが、死にゆくクエレックに「トカゲヘッドに懸けて、復讐を果たす」と言うのは、そのセリフが馬鹿げているからこそ感動的だ。
 
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テーマ:DVDで見た映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/30(火) 19:32:39|
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「生きるべきか死ぬべきか」(エルンスト・ルビッチ)

 DVDにて再見。
 映画は、ドイツ軍侵攻前のワルシャワに突如としてヒトラーが現れるところからはじまる。
 程なくそれは、王様は裸だと指摘するかのごとく、子供にサインをねだられヒトラーに扮した役者だと知れる。オープニングのシーンが物語るように、本物と偽物(オリジナルとコピー)をめぐる話。
 もちろんそれ自体は珍しい話ではない。偽物が本物をなぞる話など掃いて捨てるほどあるだろう。現にこのオープニングも、ブロンスキーという役者/偽物が、ヒトラー/本物をコピーしている。しかしこの映画が真に痛快なのは、本物が偽物をなぞる顛倒が描かれているからである。

1)シレツキーを暗殺するため、滞在するホテルにエアハルト大佐の使いを装いシレツキーを誘い出す。
(シレツキー=本物、エアハルト大佐の使い=偽物)
2)偽のゲシュタポ本部を劇場に急拵えし、ヨーゼフ・トゥーラ(ジャック・ベニー)はエアハルト大佐に扮し、シレツキーを迎え暗殺。しかし重要書類はホテルにまだある。
(シレツキー=本物、エアハルト大佐=偽物、ゲシュタポ本部=偽物)
3)ヨーゼフは次にシレツキーに扮してホテルに乗り込み、書類を処分するが、今度は本物のエアハルト大佐の使いがやってきて連れ出される。
(シレツキー=偽物、エアハルト大佐の使い=本物)
4)本物のゲシュタポ本部で、本物のエアハルト大佐(シグ・ルーマン)がシレツキーの偽物を応対する。
(シレツキー=偽物、エアハルト大佐=本物、ゲシュタポ本部=本物)

 1)と3)、2)と4)で本物と偽物がきれいに反転している。この目眩く入れ替わりにも陶然とさせられるが、とどめは本物が偽物をなぞるそれである。
 ヨーゼフらは偽物であって、当然本物をなぞる。しかし、自らがオリジナルであるはずのエアハルト大佐本人までが、ヨーゼフが演じたエアハルト大佐の偽物をなぞるのだ。

 本物のシレツキーの死体と対面させられるヨーゼフ扮する偽物のシレツキー。その窮地を本物に偽物をなぞらせることで脱する。ヨーゼフは、本物のシレツキーの死体から髭を剃り落し、付け髭をさせ、本物に偽物をなぞらせたのだ。実に痛快。

 コピーのオリジンであるはずのものが、自身のコピーのコピーになっている。そこにはもうコピーしかない。それをただ1人で体現する人物がいる。それがマリア・トゥーラ(キャロル・ロンバード)という唯一の女性だ。
  
ヨーゼフ「今夜の客は冷たい」
マリア「そうかしら」
ヨーゼフ「芝居に乗れないのは喧嘩のせいだ。仲直りを」
マリア「そんな舞台の袖で観てたけどよかったわ(後略)」
ヨーゼフ「今朝は悪かった。ドボシュに頼んでおいたよ、君の名をトップにしろと」
マリア「(喜んで)優しいのね、どうでもいいのに」
ヨーゼフ「では今のままに」
マリア「(再び不貞腐れる)」

ソビンスキー中尉(ロバート・スタック)から手紙を受け取り読むマリア
メイド「何を言ってるの?」
マリア「少しだけでも会いたいって、その気はないわ。でもかわいそう。切符を買ってくれたお客を無視できないもの」
メイド「言い訳はいいから会ったらどうなの」

 熱烈なファンであるソビンスキーは、新聞の記事を真に受け、マリアの言葉も言葉のまま受け取り、マリアに求婚するが、当然マリアにその気はない。彼女にとって言葉の意味=オリジンなどないからだ。彼女にとって言葉は次の言葉を接ぐものくらいの意味しかない。だから愛しているかと聞かれるマリアは、双方にもちろんだと答える。彼女にとってそれは、否定する理由がないことでしかない。確乎としたオリジンとなる想いがあって、それが言葉にコピーされるわけではない。 
 オリジナルを信じる男たちは皆、何かを演じる。しかし映画を通してマリアだけは、マリア・トゥーラ自身を演じているだけである。
 

テーマ:DVDで見た映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/30(火) 01:38:44|
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「スティング」(ジョージ・ロイ・ヒル)

 何度目になるだろうかDVDにて再見。
 列車の中でのポーカーで、ロネガン(ロバート・ショウ)は、ゴンドーフ(ポール・ニューマン)から片時も目を離さない。酔っぱらったフリをして勝ち続けるゴンドーフは、ロネガンや周囲の視線に無防備である。ロネガンは自分の仕掛けるイカサマをゴンドーフに見られていないかを見る。
 ロネガンにとって、見る側に立つことは優位に立つことである。であるから、強迫的にゴンドーフを見続け、自らのイカサマは決して見られないよう監視する。見られることなく見ることが力の隠喩なのだ。

 脚本のデイヴィッド・S・ウォードは、メイキングのインタビューで次のように言っている。

詐欺師の魅力は無法者でいながら道義的である点だ。暴力を使わないし、盗みもしない。カモ自身の欲を逆手に取る。無意識のうちに、目的は金儲けだが結果的に地位ある人々の偽善や欲深さをさらけ出すことになる


 ロネガン自身の欲とは、見られることなく見ることでゴンドーフを支配することである。そしてそれは見事に逆手に取られる。なぜなら、ロネガンが(見られることなく)見ることは、ゴンドーフが(見ることなく)見られることに、すでに織り込まれているからだ。
 
 このロネガンとゴンドーフの関係に類比的なのが、観客と映画の関係である。
 つまり、我輩もまたカモである。
 
 観客は、ロネガンと同じく常に画面を見続ける。
 映画は、ゴンドーフと同じく観客の視線に無防備である。ゴンドーフがロネガンと視線を合わせないように、映画の登場人物もまた観客=レンズ目線はタブーである。
 観客は、ロネガンがゴンドーフを出し抜く自身のイカサマを見られることなく見てほくそ笑むように、映画そのものより一歩先んじて、「そうか、もうこれからどうなるかわかったぞ!」と思いたがる。
 映画はその観客自身の欲を逆手に取り、我々を気持ちよく騙してくれるのだ。
 
 観客は、ロネガンを騙す側で見ていることで、フッカー(ロバート・レッドフォード)とFBIが謀るのも同じ側で見ていると信じて疑わない。もちろんそれは逆手に取られる。

  
 

テーマ:DVDで見た映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/29(月) 00:56:01|
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「おくりびと」(滝田洋二郎)

 (ネタバレあり)

 オープニング、厳かな空気に包まれるなか、自ら命を絶ったらしいまだ若い女性の遺体と対面する大悟(本木雅弘)は、「美しいのに」とひとりごつ。その言葉を受けるように佐々木(山崎努)が一言「やってみるか」と声をかける。
 この佐々木の一言が一瞬ネクロフィリアじみて聞こえもするのだが、「はい」と答え粛然と納棺の儀式をすすめる大悟を目にして、不謹慎な考えだったと慌てて撤回する仕儀に。
 しかし、粛々と作業を続ける大悟の手が止まり、ないはずのものがあることを認めると、一気に下世話な雰囲気になる。前言撤回の撤回。「やってみるか」の一言に躓くのは、つづくオチへの目配せになっているからであった。

 オープニングの後、時は遡りそこに至るまでの経緯を描いていくことになる。大悟は迷いながらも納棺師としてやっていくことを決意し、オープニングのシーンに追いつき、それがリフレインされる。
 その契機となるのが「やってみるか」の一言である。
 もはやオープニングにあった躓きはない。
 オープニングにあった笑いの要素は省かれ、納棺師として成長した大悟の所作のみが描かれる。続くオチも、ニューハーフゆえの夫婦喧嘩ではなく、ニューハーフゆえに生前はまともに見ることのできなかった息子の顔をおかげで見ることができたという父親の感慨に変わっている。
 この全く同じシーンを、オープニングとは全く別ものにしているのは何か?
 それは、(それゆえオープニングなのだが)オープニングにはなかったこのシーンに至るまでに積み重ねられてきたシーンであり、その記憶である。
 あるいは、ニューハーフというダブルミーニング、遺体(死/体)という不在(死)の存在(体)が両義性の中心にあると言ってもいいのかもしれない

 意味を変え繰り返されるのは、これだけではない。
 妻の美香(広末涼子)が大悟の仕事を受け入れるのは、銭湯のおばちゃん(吉行和子)が亡くなり、その納棺の儀を勤める大悟を目の当たりに見るからだ。
 なぜ見ることがそれほどの説得力を持ち得るのか?
 それは正確に、大悟が佐々木のそれを見て納棺師になることを決意した眼差しに重なるからである。
 またラストでは、大悟が自らの手で実父に施す姿を、再び美香が見つめる。この美香の眼差しが、もしこの場になかったならば、これだけの感動もないだろう。なぜなら以前の眼差しとは、その意味を変えているのだから。
 そしてあのフラッシュバックも繰り返される、今度は像を結んで。
 納棺の儀を経て初めて、父親の顔を見ることができるのは、ニューハーフの息子の顔をようやく見ることができたと語った父親と重なる。
 
 繰り返されるものには、一度目の記憶(とそれ以降の記憶)が付着している。
 
 

テーマ:おくりびと - ジャンル:映画

  1. 2008/09/25(木) 15:37:28|
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「サン・ジャックへの道 」(コリーヌ・セロー)

 DVDにて再見。
 教師のクララ(ミュリエル・ロバン)は道中、ラムジィの失読症を直してほしいと依頼されるが、すげなく断る。かわりにカミーユが教師役を買って出て、ラムジィを教えるのだが、それを見ていたクララは、その要領を得ないやり方にイライラさせられる。
 その場では垣間見ること以外、何もできないクララのあり方は、観客のそれと同じである。
 世界から引き離すこと。世界をただ見ることしかできないように登場人物を持って行くこと。そこに我々観客は、スクリーンから引き離され、ただ映画を見ることしかできない我々自身を見る。
 そして見るに見兼ねたクララがついにラムジィに教えるのを見て、我々は我々自身がそこにいてラムジィを教えているような多幸感を味わうのだ。
 そこでクララは、自分でなければできないという形で、世界に参加する。
 
 「出世フリーク」のピエール(アルチュス・ド・パンゲルン)は、坂道でもういやだとリタイアを主張する。ひとり離れているピエールのもとに駆け寄るガイドのギイ(パスカル・レジティミュス)、私だって帰りたい君だけじゃないんだと諭す。その光景は途中からその成り行きを見守る一行から視点となり、音が途絶える。座り込み話し込む2人を見つめる仲間。
 見られている2人。そこに注がれる眼差しは、坂の上で待つ仲間たちのものだが、世界の眼差しでもある。さらに言えば、主を持たない/始点のない眼差し。
 ここでピエールは、自分だけじゃないという形で、世界に参加する。

 ラスト、海辺で母親の死を告げられるラムジィを、小高い丘から一行は見守る。その時ラムジィを捉えるカメラはその一行の視点=俯瞰をとらない。カメラはラムジィを彼と同じアイレベルで捉える。一行の視線とは重ならないその光軸。でありながら、ラムジィは見られている。我々観客は、見られているラムジィを見るのだ。ただラムジィを見るのではない、見られているラムジィを見る。世界に見られているラムジィを。


 
 

テーマ:ヨーロッパ映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/25(木) 01:28:04|
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「秘密と嘘」(マイク・リー)

 96年カンヌ国際映画祭にてパルムドール受賞の「秘密と嘘」を再見。

 脚本は一切使用せず、現場で役者とともに即興的に作り上げられていった映画だそうだが、そのストーリーテリングは計算され尽くしている。即興にスポイルされる柔な構造ではない。展開へのテンションをはちきれんばかりに孕んだ設定。その展開を抑圧しているのが、秘密と嘘である。頃合いを見計らってそれらを暴露するだけで、その方向性が即興によってぶれることはない。

 主人公のシンシア(ブレンダ・ブレッシン)と、その弟の妻モニカ(フィリス・ローガン)の関係は類比的である。
 シンシアは、不在の伴侶への愛を、娘ロクサンヌ(クレア・ラッシュブルック)に向けることで代替するが、娘は当然伴侶とはなりえず、その齟齬に八つ当りする。
 モニカは、産むことのできない子を新居に代替させるが、足ることを知る由もなく、夫モーリス(ティモシー・スポール)にその矛先は向かう。
 2人とも、愛する人に苛立つべきではないと知りつつも、そこに抑圧したものを重ねるがゆえに裏切ってしまう。そうなってしまうことにもまた苛立つという悪循環。

 映画は、ホーテンス(マリアンヌ・ジャン=バプティスト)にシンシアの娘であることを暴露させる。最初は戸惑うが、直情径行のシンシアはすぐにホーテンスを受け入れる。ホーテンスに、ロクサンヌが代替することができなかった伴侶の姿を見るかのごとく。だからロクサンヌが、母親が男と逢っていると勘違いするのも故なきことではないのだ。

 パーティーにて皆に暴露される、ホーテンスの出生の秘密と、モニカが子供の産めない体であること。
 「秘密と嘘」は、秘密と嘘がなくなってめでたしという話のようで、そうではない。
 全ての秘密と嘘が暴かれたかと思われたその後に、新たな秘密と嘘が語られる。
 シンシアは、ロクサンヌにあなたのお父さんはいい人だったと嘘をつき、ホーテンスが私の父はどうだったのかと問えば、それは語れないと秘密にするのだ。

 ラスト、白い木枠の小屋の中を、2人とも黒い服を着てホーテンスとロクサンヌの異父姉妹が見つめている。白い木枠に縁取られ、黒い服を纏うその肌は、黒人と白人のそれでありながら、黒い服程黒くなく、白い木枠程白くない。2人は姉妹である。 [「秘密と嘘」(マイク・リー)]の続きを読む

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  1. 2008/09/23(火) 19:51:27|
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「パコと魔法の絵本」(中島哲也)

(ネタバレあり)

 大貫(役所広司)の「お前が私を知ってるってだけで腹が立つ。気安く私の名を呼ぶな。お前の頭の中になんかいたくないんだ」という口癖が巧い。

 これは明らかにパコ(アヤカ・ウィルソン)が一日しか記憶を保てないという設定から、逆算して考えられたものに違いない。にもかかわらずパコのこの設定よりも、大貫のにべもない態度のほうが印象に残る。
 それはもちろん大貫が主役だから当然なのであるが、その主役の主たる設定が本人に由来しないのがユニークなのだ。
 創作上では、忘れたくなくても忘れてしまうパコがあって、私を忘れろと毒づく大貫がたてられる。逆ではない。

 その大貫が1人で築き上げたと信じて疑わない会社の業績が、大貫不在でもアップしたのだと告げられる。自分がいなければ会社は駄目になる、他の誰でもなく自分でなければならない、そう信じてきたがそうではなかった。
 理由はあきらかだ。数字がそれを証しだてている。

 そんな失意の大貫がパコの頬を触れると、記憶がないはずのパコが昨日も大貫が触ったとおぼえている。
 なぜパコは大貫が頬を触るのだけをおぼえているのか、の理由は示されない。しかし我々観客はそれに戸惑うことはない。
 なぜなら理由ないからこそ、大貫は他ではない自分が選ばれたのだと信じることができるからだ。
 理由がないことこそ、自分が呼びかけられた証しなのだ。
 だから、逆に理由があってはいけない。
[「パコと魔法の絵本」(中島哲也)]の続きを読む

テーマ:パコと魔法の絵本 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/21(日) 21:18:08|
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「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」

 「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」と「(ジェイ・チョウの)言えない秘密」、リー・ピンビン撮影の最近作2本を観る。
 共通するのは、ライティングの巧みさと、おそらく可能なかぎりシャッター開角度を狭めているであろうモーションブラーを減じた撮影(「言えない秘密」に顕著、しかしこれには一貫性を感じられなかったので、もしかするとNDフィルターの代用にすぎないのかもしれない)、窓外からのフレーミングや、構図としてのボケあし、エドワード・ヤンを髣髴させるガラスの鏡面的使用など、もちろん同一人物の手によるものなので散見されはするが、一見全くの別物である。この柔軟性は見習いたいし、それでも確固としてあるリー・ピンビン節は流石だ。

 「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」のパンについて。

 ホウ・シャオシェンと組むリー・ピンビンのパンのあの粘性は、本作においても遺憾なく発揮されている(ジェイ・チョウと組むリー・ピンビンのパンにその粘性はない)。とりわけ特筆すべきは、スザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)のプロフィールへと終/執着する3つのパンである。

 1つ目は、階下の住人マルコが友人を連れてスザンヌの部屋を訪問するシーン。
 洗面所で化粧しているスザンヌと、やってきたマルコとその友人をパンで繋ぐのだが、そのパン角度は直角に近い、つまりパンしろが長い。にもかかわらず、その2点をカットでつなぐでもなく、スウィッシュパンでつなぐわけでもなく、ゆるやかにパンするのであるから、双方のアクション/リアクション(ダイアローグ)をオンフレームで捉えることは不可能である。パンのきっかけは、オンフレームにあったり、オフフレームにあったり、その都度どちらかのアクションにあるのだが、そうしてパンされた先のフレームは、常にそのリアクションに間に合わないのだ。つまりパンのきっかけとなったアクションに対するリアクションは、決まってパンしろの間になされており、パンが行き着く頃には、とうの昔にリアクションを終えてしまっている、そのようなパン。しかしそれは、その遅れて到着したパンが捉えるスザンヌこそ、我々が見たいスザンヌであって、それ以前のスザンヌなど見たくはないのだと思わせるパンなのだ。我々が見たいのは、パンの行き着く先のスザンヌであって、スザンヌのリアクションではない、だからパンがリアクションに間に合う必要などない。

 2つ目は、列車内で並んで座るソン(ソン・ファン)と中国人人形師と、対面して座るスザンヌとの往復パン。これも同じくパンのきっかけこそ、オフであれオンであれ劇中のアクション/ダイアローグであるが、パンの到着を左右するものはない。そうしてスザンヌのプロフィールでパンが終着したとき、そのオフでソンがスザンヌの言葉を通訳しているのが聞こえる。スザンヌが語りかけた言葉でありながら、そのスザンヌを捉えたフレームの外で、そのダイアローグが繰り返されている。スザンヌはそのダイアローグの主ではなくなっているのだ。ダイアローグから自由になったパン。ホウ・シャオシェンとリー・ピンビンのパンは映画が駆動させるパンであり、物語/ダイアローグが要請するパンではない。だからそのパンの行く先にあるスザンヌ=映画の横顔に感動するのだ。

 最後は、盲目の調律師がやってきた部屋に帰宅するスザンヌの1シーン1カット。もはや贅言を要さない完璧なカット。
 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/17(水) 00:52:02|
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「あなたの目になりたい」(サッシャ・ギトリ)

 見ることをめぐる映画には目がない。

 「あなたの目になりたい」のは、フランソワの目になりたいカトリーヌで、視力を失っていくのはフランソワである。でありながら、彼女をモデルにその胸像を制作する前半は、あたかもそれとは真逆の描写と見紛う。
 制作中もフランソワは、モデルのカトリーヌに話しかける。しかし、カトリーヌはモデルであるから、動くことはできない。カトリーヌを見つめながら話しかけるフランソワと、虚空を見つめながらしか話すことができないカトリーヌのそれは、そこに塑像がなければ尚更、盲目のカトリーヌに話しかけるフランソワであって、あきらかに顛倒している。なぜそれが魅力的なのかはわからないのだが。

 視力を失っていく描写として、像が崩れていくPOVの前に、懐中電灯で足下を照らしながら歩く視野狭窄的なシークエンスを配しているのが巧い。

 愛するがゆえに身をひくという「恋空」でもおなじみのパターン。



テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/16(火) 01:22:50|
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講義録のかわりに?成瀬巳喜男「乱れる」?

 撮影講座ということで授業を受け持っている。ただ受講している生徒さんたちは、監督志望の方たちばかりであるから、あまり技術的なことをお話しても仕方がない。なので(何がなのでだか、わからないが)成瀬の「乱れる」のある部分を実際に撮影(コピー)してみる。
 その部分は、おそらく8畳2間続きの和室のみで展開され、役者は幸司(加山雄三)、礼子(高峰秀子)の2人のみ、何か小道具に頼るような演出は一切ない、キャメラは移動せず、パンが数回あるのみで全てフィックスで撮影されている。
 教室を「ドッグウィル」や「善き人のためのソナタ」みたく、白パーマセルテープで8畳2間に区切り、パーテーションを襖がわりに配置する。あとはカメラと俳優コースの役者さん男女2人に協力してもらうだけでよい。
 あらかじめ採録しておいたその部分のシナリオを配布し、早速当該シーンを観てもらう。


幸司「義姉さん、じゃあ言おうか。俺がなぜあんな女と遊んでるか、なぜ会社を辞めたのか」
礼子「あなたは世の中に甘えてるのよ。生活というものが、どんなに大変なものか、あなた知らないのよ。もし知ってたら転勤くらいで会社辞めてくるものですか」
幸司「義姉さん、俺はここにいたかったんだ。義姉さんのそばにね。卑怯者だと言われたくないから俺は言うよ。俺は義姉さんが好きだったんだ」
礼子「何を言うの、孝司さん。ばかなことを言うものじゃないわ。あなたはこないだの晩、私がこの家で十八年間も犠牲になったって言ったわね」
幸司「言ったよ」
礼子「でも私は一度だってそんなこと考えたこともなかったわ。夫は戦争で死んだけれど、私は夫の遺志を受け継いで今日まで生きてきたのよ。焼け跡のバラックがこんなお店になったのよ。その間にお義父様もお亡くなりになったけど、久子さんがお嫁にいき、孝子さんが結婚して、みんな立派におなりになったじゃないの。私の十八年間が犠牲でなかったこと、みんなが知ってるはずじゃないの」
幸司「みんなのためにね。それは事実だ。しかし十八年間の何日が義姉さんのためにあった?」
礼子「十八年間の全部がそうよ」
幸司「ウソだい。そんなはずがあるものか。義姉さんはこの家にとっては赤の他人だよ。久子姉さんだって、孝子姉さんだって、母さんだって、いつかは義姉さんがこの家から出て行くことを望んでるんだ。義姉さんにはもう用はないんだ」
礼子「そんなことありません」
幸司「俺はそういう義姉さんに同情して義姉さんを好きだって言ってるわけじゃないんだ。俺はずっと昔から義姉さんが好きだったんだ」
礼子「やめて」
幸司「歳は十一も違う。おまけに死んだ兄貴の嫁さんだった人に俺はそんな破廉恥なことを言う男じゃない。だから苦しんだよ。死んでもこのことは言うまいと思って女遊びもした、麻雀、パチンコ、愚連隊と一緒になってバカな遊びもしたよ。卑怯者でも、グウタラでも、なんでもいいんだ。ただ黙って義姉さんのそばにいたかったんだ」
礼子「やめて、やめてちょうだい。やめなければ私、この家を出て行きます」
幸司「俺が出て行くよ」


 観た感想を問えば、誂え向きの答えが返ってくる。
 「別に普通」
 そのとおりなのだ。そのとおりなのだが、その普通に見えるそのシーンが、いかに普通には撮られえないかを体験してもらう。

 まずこの抜粋されたシークエンスが何カットで構成されているか、カット毎に台本に線を入れてもらう。結果トータルで16カットになった。幸司のセリフが8、礼子のセリフが7、計15のセリフのやりとりを16カットで撮影しているわけだから、数字の上ではほぼセリフごとにカッティングされていることになる。なるほど、ここまでは普通である。

 ここで小津の「秋刀魚の味」の1シーンがどのように構成されているかみてみる。
autumn afternoon

 このシーンは、上の図のように都合3つのカメラポジションの組み合わせで構成されている。計33カットもあるが、セットアップは3つだけである。引きの画は、カット1,15,21,33の計4カットだが、このセットアップでこの一連の芝居を通して撮影し、編集上でその4カットを抜き出すことになる。同じく、佐田啓二向けのカットが、計13カット。これも一連で撮影する。吉田輝雄向けの16カットも同じだ。
 であるから、理屈上は3度同じ芝居を繰り返してもらうだけでこのシーンは撮影できてしまう。

 スタッフの今日は何時に帰れるだろうという問いは、残りカット数で算出されるべきではなく、残りのセットアップ数を鑑みなければ、大きくその読みを外すことになる。もちろんその1つ1つのセットアップにかかる時間も考慮に入れなければならない為、そうそう予想はあたらないものだが。その最たるものが長まわしで例えば1シーン1カットなら、もちろんセットアップも1つでしかないが、これにかかる手間たるや尋常ではないということが尋常。であるからして100カットあろうが、定時に帰れるときもあれば、1カットだけにも関わらず徹夜になることだってある。いずれにしろ、撮影現場で今日何時に帰れるかは常に人気のトピックなのだ。

 閑話休題、「乱れる」の抜粋シーンに戻れば、この計16カットがいくつのセットアップで構成されているか。
 16カット、16セットアップである。
 ということは、どういうことかと言えば、16のセットアップごとそれぞれに必要な芝居部分を撮影するわけで、その都度このシーン全てを演じてもらうわけにもいかないのだから(別にそうしてもらっても一向に構わないが)その演技ののりしろを含めて、16回ぶつ切りで一連の芝居を撮影することになるのだ。そうして撮影されたものが、まるで一息で撮影されたかのごとく流れるように芝居が繋がってみえることに、まず驚いてもらう。

 で、撮影講座であるから実際にカメラを使って(ここで申し訳程度にカメラの技術的な操作も教授する)1カットづつ撮影(コピー)していく。

(以下のC#は、抜粋部分に便宜上振られたもの)  [講義録のかわりに?成瀬巳喜男「乱れる」?]の続きを読む

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/10(水) 23:06:41|
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「闇の子供たち」

闇の子供たち

 (ネタバレあり、結末に触れています)
 このデリケートな題材を撮影するにあたり、阪本監督は細心の配慮で臨んでいる。語っている内容を語り方で裏切るようなことがあってはならない。「こうした犯罪に興味を抱く輩を新たに発生させ」てはいけないからだ。この点で私が述べることは何もない。

阪本「今回自分で脚本を書くときに、最初に決めたのが南部の結末なんですよ。ラスト・シーンだけど、あそこを起点に、そこから遡って全シーンを作ってるんです。それはなぜかというと、観終わったときにこれが(自分とは関係ない)遠いところの話じゃなくて、すべての人じゃないかもしれないけど、観た人に返ってこなきゃいけないという想いがあったからです」
 劇中には「俺たちは観たものを伝えるのが仕事だ」と言い放つ南部と同じ新聞記者(豊原功補)が登場するが、阪本監督の姿勢はそれとは明らかに違う。
阪本「あれはジャーナリズムだと思うんですよ。僕らがやっているのは劇映画だから、最終的にドキュメンタリーとは違う“作為”を作り込んで、告発というものに留まらない表現をしなきゃいけない。告発とは自分が関知しない事件を世に問う行為だけど、そこに自分たちが関知する“作為”を込めることが、結局、劇映画でやる意味なのかなと思ってるんですよね」


 なのでラストシーンの“作為”の語り口に限定し、このいわゆる「衝撃の結末」というのが、どのように用意されるのかについて。
 南部(江口洋介)の正体が意外であればあるほど、それが明らかになった時の衝撃度はいや増す。しかしそれは意外であっても納得できるものでなければならない。であるから、それと気づかれない形で伏線が張られる。伏線が伏線に見えてはいけない。しかし、忘れられてしまうような描写では意外なラストを説得できない。
 映画「ソードフィッシュ」(ドミニク・セナ)の中で、トラボルタがフーディー二のマジックを語り、Misdirection(「相手の視線・注意力・推理力などを、誤った方にそらせ、実際に起きてい ないことを、起きたと思い込ませるテクニック」)に言及する。
 あるいはヒッチコックが、「サイコ」のジャネット・リーが惨殺される不意打ちのトリックを、red herring 「燻製にしん」として紹介している。
 

観客というものは、映画を観ながら、いつも映画そのものより一歩先んじて、「そうか、もうこれからどうなるかわかったぞ!」と思いたがるものだ。(「定本 映画術」)



 「闇の子供たち」では、なにが「南部の結末」に対してMisdirection/red herringとして機能しているか?なにが、「南部の結末」を用意する伏線を伏線然として見られることを回避させているか?

 NGOの仲間、ゲーオの正体がMisdirection/red herringになっている。Misdirection/red herringとして機能させるために、ゲーオの正体に対する伏線はあえて伏線然として演出されている。例えば、その登場シーンである到着する車からの見た目で示されるゲーオが、なぜかスローモーションである。そのようなわかりやすさは、Misdirection/red herringであって、観客に「そうか、もうこれからどうなるかわかったぞ!ゲーオが怪しいんだ」と思い込ませる。そう思い込んだ観客に「南部の結末」に対する伏線は、伏線に見えない。

 では、ゲーオはそのためだけに存在する登場人物なのか?
 それは、ある意味正しく、ある意味間違っている。
 もし、ゲーオというMisdirection/red herringなしで、「南部の結末」が提示されたらどうだろうか?
 丁寧に細心の注意を払って描いてきた告発の中に、いきなり“作為”が顔を出し全てをぶち壊しかねない。
 ゲーオという登場人物は、ラストの不意打ちをMisdirection/red herringさせるものであり、告発というスタイルの中に“作為”を導入する緩衝剤でもあるのだ。
 もちろん、これは語り口に限っての話である。
 
 
 


テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/09/05(金) 18:42:41|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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