撮影監督の映画批評

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

「幸福の条件」(エイドリアン・ライン)

 不在を見せるには、どうすればいいだろうか?

 ダイアナ(デミ・ムーア)がデイヴィッド(ウディ・ハレルソン)のもとを去り、彼女のいない家で一人、デイヴィッドは悲嘆に暮れる。
 映画は、デイヴィッドを苦しめる彼女の不在をポジティブに提示しなければならない。いないことが迫ってこなければならない。いないだけでは足りないのだ。
 かつてあった過去をフラッシュバックとしてポジティブに提示し、その過去=存在のネガティブとして現在=不在を際立たせるのは、この場合の正攻法と言えるだろう。
 「幸福の条件」も、8ミリで撮影されたフラッシュバックを使用している。
 しかし、その場合ポジティブに見せられるのは、フラッシュバックであって不在ではない。
 不在そのものをポジティブに見せることはできないのだろうか?

 映画の冒頭我々は、テーブルの上に靴を置くデイヴィッドをダイアナが怒鳴り散らす睦まじい夫婦喧嘩を見せられる。そしてダイアナに去られ一人暮らすデイヴィッドは、無意識のうちにまたテーブルの上に靴を置いている。そのテーブルの上の靴にふと気がつくデイヴィッド、感慨の後、テーブルからおろす。
 テーブルの上に置けてしまう靴。
 それができてしまうことは、それを禁ずる人の不在そのもの。
 テーブル上の靴のポジティブな存在が、彼女の不在をその場で見せている。

 「アバウト・シュミット」(アレクサンダー・ペイン)も同じく不在をポジティブに見せていた。妻に先立たれたシュミット(ジャック・ニコルソン)が、便座に座らず小便をするシーンがそれだ。
 生前の妻が便座に腰掛けて小便しなさいと命じていたことは、前もって知らされている。であるから、立ったまま小便ができてしまうことは、それを禁ずる妻の不在そのものを物語っているのだ。

 かつてできたことが、不在の為にできなくなることも、不在を物語はするだろうが、できないことはネガティブである。
 かつてできなかったことが、不在の為にできてしまうことは、できてしまうポジティブなネガティブ=不在なのだ。

 以前のエントリーでも触れたが、「アメリカン・ビューティー」(サム・メンデス)では会話がないこと(会話の不在)を、ポジティブに物語っている。それは決して、登場人物に「会話がないね」と説明させるセリフの存在=ポジティブではない。
 フィッツ大佐(クリス・クーパー)の家族3人が、ソファに横一列に座り無言でテレビを見ている。確かに会話はないが、その会話のなさがこのシーンの伝えたい意味として立ち上がるには、会話のない状況をどれだけ見続ければいいのか?会話がないことを伝えるそれだけの為に長々と見せ続けるわけにはいかない。かような次第で、不在をポジティブに語る必要がある。
 母親が口を開く「今何か言った?」「(返事)いや」「あ、そう」、再び沈黙。
 
 
 


 
 

 
スポンサーサイト

テーマ:洋画 - ジャンル:映画

  1. 2008/08/30(土) 00:20:49|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「ラブストーリー・イン・ハーバード」

 韓国ドラマ「ラブストーリー・イン・ハーバード」に託つけて、恋愛ドラマ必須の演出について。

 「ラブストーリー・イン・ハーバード」は、全18話を通してキム・ヒョヌ(キム・レウォン)とイ・スイン(キム・テヒ)の相思相愛ぶりを描く。もちろんヒョヌのライバル、ホン・ジョンミン(イ・ジョンジン)などが周りを彩るが、例えば「バリでの出来事」のように二人の男に揺れる一人の女ということにはならない。ただ横恋慕するだけで、ヒョヌもスインもお互いのことしか見えない。
 では、二人の行く手を阻むのは、外的な障害でしかないのだろうか?
 もし、そのように描かれていたとしたら、どれだけ退屈なものになったろう。
 
 口ではそう言うが、私はあなたの目に宿るものを見逃さない、なぜならあなたを愛しているから。
 口にせずとも、私にはあなたのことがわかる、なぜなら愛しているから。
 愛し合っていても、お互いを知り尽くすことはできない。
 にもかかわらず、その空虚に耐えることができない、なぜならそれが愛するということだから。
 ありもしない相手の底意を、愛するが故に知りえたのだと捏造し、その空虚を埋めようとする、なぜなら愛しているから。

 これは愛するが故に相手のことを想って身を引くという恋愛ドラマにおける黄金律を説明している。相思相愛は決してスタティックな対称性におさまるのではない。外側からの妨害だけでなく、内側からも崩壊するのだ、愛し合うが故に。

 では、この非対称な眼差しをどのように演出するか?
 相思相愛の見つめ合う二人をカットバック(対称性)で捉えても、そこに孕まれる非対称な眼差しを顕在化することはできない。
 最も容易なのは、第三項を導入することである。第三項は例えばジョンミンであっても、何か景色であっても何でもいい。相手がその第三項を見るのを一方的に見つめさせればよい。が、それはいつ相手に見返されてもおかしくない束の間の眼差しであり、そこには相手が第三項を見る眼差しもあるのだから、見られずに見るという眼差しの非対称性だけを際立てるのは難しい。

 「ラブストーリー・イン・ハーバード」に限ったことではないが、恋愛ドラマ(にも限らないが)に頻出する黄金パターンがある。
 二人のうちのどちらかを眠らせるのがそれだ。
 「ラブストーリー・イン・ハーバード」では、ヒョヌもスインも本当に良く眠る。もちろん二人とも寝ているシーンだけを見せられても視聴者は困るだけなので、どちらかは起きているのだが。いつの間にか寝てしまうだとか、一人眠れず起き抜けるだとか、先に目覚めてしまうだとか。
 眠っている相手の眼差しは死んでいる。見られることなく見る非対称性は、透明な二人の対称性を曇らせる契機となる。

 どれだけ愛し合っていても、人は同時に眠ることもできず、同時に目覚めることもできない。
 それは、人は同時に死ぬことができないこと(同時に生まれたわけでもないこと)と相同的である。

テーマ:韓国ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

  1. 2008/08/27(水) 14:59:25|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「バリでの出来事」

 映画ではない上に今更の感もあるが、当時「バリラバー」「バリ廃人」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した韓国ドラマ「バリでの出来事」について。

 一人の女、ヨンジュ(パク・イェジン)を巡る二人の男、ジェミン(チョ・インソン)とイヌク(ソ・ジソプ)に、もう一人の女、スジョン(ハ・ジウォン)が加わり、ヨンジュを頂点としたラブトライアングルが、底辺はそのまま、頂点をスジョンにシフトするというストーリー。

 ラブトライアングルを描くドラマが構成する各シーンは、次の組み合わせから成る。

 1)各頂点のどれか
 2)どれか一辺
 3)三角形全て

 このドラマの視聴者はどこにいるのか?

 3)のトライアングルを見るように、外側から距離をもって見ていたのであろうか?
 とすれば「バリラバー」「バリ廃人」などという熱狂的ファンは出てこないはず。

 であれば、1)の誰か一人に感情移入して見ているのだろうか?
 それもどうも違うようだ。韓国ではネット上でジェミン派、イヌク派の論争が湧き起こったそうである。つまり誰か一人の主人公に感情移入させる構造でもない。

 残るは2)になるが、視聴者はそこにもいない。
 では、どこに?
 視聴者は2)で排除されているもう一人とともにそこで、2)の二人を見ているのだ。
 「バリでの出来事」に特徴的なのは、次のような描写である。
 二人が部屋にいる。そこでのやりとりは当然そこにいないもう一人に関係してくる。にもかかわらず、そのもう一人はそこにいることができない。この無力感は、視聴者の受動性と手を結ぶ。その二人が部屋を出る。するとそこに、そのもう一人がいて状況を瞬時に察する。その察した内容から行動を起こす。ここで視聴者の偽の能動性が満足させられる。
 そして、そのもう一人の行動は新たな二人の状況をつくり、今度はそこで排除される新たなもう一人とともに視聴者はその状況を見ることになる。
 以下延々とそれが繰り返され、その都度視聴者は不在の人物の視点に立つが、その人物が登場するや、今度はそこからはじかれた人物の視点に立つ。この視点のスパイラルが「バリ廃人」を生み出したのだ。

 なぜスジョンは、ヨンジュから頂点の座を奪うことができたか?

 どのように見られるかの効果を知悉している最初のトライアングルの各頂点は、それゆえわかりやすい。例えば相手の嫉妬を引き出す為に恋人のフリをするのは、それがフリである為にかえって、その意図が透けて見える。
 そこに、何を考えているのか視聴者にもわからないスジョンが登場する。彼女の行動は何かを隠しているようにも見え、が他の登場人物と異なりそれで何を得ようとしているのかわからない。彼女が何かを隠しているとしたら、隠しているものは何もないということを隠しているのだが、それゆえ隠しているものが見え透いているヨンジュは頂点の座を追われることになるのだ。
 ジェミンとイヌクのヨンジュに対する見かけにすぎなかったはずの斥力が、スジョンに対する引力に変わるのは、スジョンを頂点とするトライアングルでは見かけこそが全てになるからである。
[「バリでの出来事」]の続きを読む

テーマ:韓国ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

  1. 2008/08/25(月) 20:53:05|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「この自由な世界で」

この自由な世界で

 (ネタバレあり)
 公式サイトのインタビューで、脚本のポール・ラバティはタイトル「この自由な世界で(原題 It's a Free World...)」について次のように言っている。

英語ではこんな言い回しがある。例えば友達との会話の中で、「私は?をする」と言うと、友達がこう答える、「それはするべきじゃないと思うけど、ここは自由な世界だから好きにすれば(But it’s a free world, do what you want.)」という具合に。あたかも人がとる行動は、何にも影響を及ぼさないかのようだ。だけど、僕たちが映画のなかで見せようとしているのは、自身の行動には何かしらの結果がつきまとうということなんだ。


 つまり、無関心/無関係でいる言い訳として。
 だから映画は、アンジー(キルストン・ウェアリング)がどのようにして労働許可を持たない移民労働者に対して無関心/無関係であることをやめるかを描く。
 だがアンジーにとって彼らへの無関心をやめることは、即ち違法行為に手を染めることである、そう容易くできることではない。映画はアンジーに寄り添い丁寧にその葛藤を描いていく。
 にもかかわらずその一線はいとも呆気なく越えられる。
 その契機は、足繁く通う一人のイラン人労働者に声をかけるそれである。

 交差点に佇むイラン人労働者が頭を抱え込むのを、カメラはロングで捉える。
 そこにアンジーのバイクがフレームインして、イラン人のところに横付けされ、何らかの会話が交わされた後、イラン人をバイクの後ろに乗せる。
 アンジーの変節=映画のターニングポイントが、ただ引いたロングの画で見せられるだけなのである。なぜか?
 
 それを説明するには、呼応するもう1つのシーンを検討しなければならない。
 そのシーンとは、アンジーと共同経営者のローズ(ジュリエット・エリス)が、斡旋する労働者の為にトレーラーハウスを求めるそれである。
 雨の降る中、車でやってきた二人は、トレーラーハウスがすべて埋まっていることを知らされる。困ったアンジーは、移民局に退去させるよう電話を入れる。その車のフロントガラスごしに見られるのは、あのイラン人家族の娘たち。
 ここでのアンジーの決断は、フロントガラスというスクリーンを通してなされる。フロントガラス越しの、イラン人少女ら移民家族の暮らすトレーラーハウスの光景は、アンジーにとって「a free world」でしかない。関係ない、距離がある、つまり観客と視点を同じくしている(POV)。
 
 先程の問いに戻ろう。アンジーは、頭を抱えるイラン人を「a free world」として見過ごすことができなかった(車のように、フロントガラスというスクリーンをもたない/隔離された空間をもたないバイクに乗っていることに注目)
 つまりこのシーンを「a free world」として見ているのは観客である。観客をアンジーと同じ視点に立たせることはできない。なぜなら、映画は「a free world」でしかないからだ。

 映画がどれだけ声高に問題提起しても、所詮観客にはスクリーンの先の「It's a Free World...」でしかないが、観客が「It's a Free World...」というようにしか映画を見ていないということを告発することはできる。
 

 
 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/08/22(金) 17:50:50|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「武士の一分」

1)意識の戻った三村新之丞(木村拓哉)は、目が見えなくなっていることにも動揺の色を見せず、加世(檀れい)を心配させまいとその事実を伏せる。

2)新之丞に詰め寄られ、失明の事実を隠し通せず白状してしまったと徳平(笹野高史)から聞いた加世は、不快なおもいをさせて申し訳なかったと新之丞に謝る。
 新之丞は、自分の為によかれと思ってしてくれたことなのだし、つらいのは自分よりも加世の方なのだから、気にしなくていいと言う。
 しかし、1)の時と違い、言っている内容とその態度は遠く隔たっている。
 こうあらねばならぬという予め用意されていたかのようなセリフと、その内容を信じてはいけないとでも言いたげな態度。
 苛立ちながらも、静かに一人にしてくれと告げる新之丞。
 つまり一人にしてくれるなと叫んでいる。
 額面どおり受け取らざるをえない加世はその場を退出し、残される新之丞。
 秀逸なのは、そこにオフで聞こえてくる徳平と加世の風呂が焚けたかだのどうのという、どうでもいいやりとり。
 それを聞いた新之丞は、茶碗を投げ捨てる。

3)刀の在処に託つけて憤りを爆発させる新之丞。

 1)?3)を経ることではじめて、新之丞は失明を受容できる。
 失明の苦しみを描いているには違いないが、それは経験したものにしかわからない。ここではそれを、誰もが経験する理想と現実の乖離に苦しむ姿として描いている。そうすることで、失明の経験など持たない観客に、自己投影させ共感を引き出すことに成功している。

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

  1. 2008/08/19(火) 19:52:08|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「復讐鬼」(ジョセフ・L・マンキーウィッツ)

 弟は黒人医師ルーサー(シドニー・ポワチエ)に殺されたのだと復讐鬼と化すレイ(リチャード・ウィドマーク)。
 レイの弟の臨終は、観客から奪われている。病室の外にあるキャメラは、廊下に響くレイの叫び声で室内の異常に気づくからだ。

 自分の処置は正しかったとするルーサーは、死因を特定する解剖を要求する。
 ルーサーの殺人なのだとするレイは、解剖を許可しない。
 ルーサーの上司、ウォートン(スティーヴン・マクナリー )は、解剖が裏目にでるかもしれないと思っている。

 臨終の瞬間が奪われていようが、ルーサーが自身の無罪を信じる以上に、それを確信して疑わないのが我々観客である。にもかかわらず映画は解剖を先送りにする、なぜか?

 わかりきった答えを先送りにすることで、観客は「わかっているのだが、もしかして」と思うようになるからだ。ルーサーもまた観客と同じである。であるからこそ、早く知りたいと思うのもまた同じである。

 理由を必要としない復讐であればこそ、力を持つ。黒人街襲撃を指揮するのは、不在でありながらそれゆえ中心となりえる、動くことのできないレイである。

 それが証拠に、自分が殺したのだとルーサーが自首することで(もちろんすぐにひっくりかえされるが)復讐に正当な理由が与えられ、さらにベットから離れ、自ら動きだすことで、急速にその力を失っていったではないか。

 人種差別もまた、正当な理由を必要としていないがゆえに厄介なのだ。

 
 
  1. 2008/08/19(火) 01:04:06|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「修羅雪姫」(1973年 梶芽衣子主演版)

 ボルへスの『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』に「鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌まわしいものだ」と(いう「鏡と百科事典との結びつき」となる「寸言」が)ある。
 
 鏡に自らを映すようにして、復讐を託す子供、雪(梶芽衣子)を出産し死んでしまう母親。
 雪に託された復讐は、鏡のように映された復讐の像に過ぎず、その根を雪自身は持たない。
 あえて言うなら、復讐の為にこの世に生を受けたことへの復讐。

 その鏡のイメージは、本編中何度か変奏されることになる。
 まず竹村伴蔵(仲谷昇)を浜辺で殺す、波間に漂うその死体をわざわざ引き上げ、断崖絶壁まで運んでから、再度海へと投げ入れる雪。
 これは命を狙われた伴蔵を窮地からわざわざ助け、そして殺すという雪自身の行動とも呼応しているが、何よりも伴蔵の娘、小笛(中田喜子)が、売れない人形を同じ崖から海へと投げ入れるのと鏡合わせになっている。さらに小笛は、父親の借金の為に体を売っているわけだから、母親の復讐の為だけに存在する雪の鏡像に他ならない。親にコントロールされる親の鏡像としての中身のないふたり。小笛が人形を投げ入れるのは、それゆえ鏡像としての父親(あるいは人形のように空っぽの自分)を投げ入れるに等しい身振りだとは言えまいか。つまり自分を映す鏡を割ろうとすること。自分が自分の主だと告げること。
 だから鏡像を失った小笛が、もう1つの鏡像である雪を殺そう(割ろう)とするのは、当然の帰結なのだ。

 雪と足尾竜嶺(黒沢年男)は塚本儀四郎(岡田英次)を仕留めるが、それは儀四郎の鏡像、替え玉であった。当の本人は、マジックミラーを通してその一部始終を見ていた。それに気づいた雪と竜嶺は、ふたりを映す鏡(自らの鏡像)を割る。現れる竜嶺の鏡像である父親、儀四郎。自身の鏡像の向こうにいた父親という鏡像を追いつめ、雪の手によって父親と向かい合わせに串刺しにされる竜嶺。鏡を抱いて死ぬ。

 墓前に雪の姿を捉えるシーンが2度ある。
 1度目は、母親の墓前に額ずく雪。2度目は、死を偽装した塚本儀四郎の墓に斬り掛かる雪。
 この二つもまた交換可能な鏡像関係にある。
 つまり2度目の墓参は、儀四郎のではなく、子に復讐を託した母親の墓に対する憤りにもとることができるのだ。
 なぜ復讐しなければならないのか?という問いかけが雪の復讐行為そのものであり、その問いかけに答えは与えられない。

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

  1. 2008/08/18(月) 17:59:24|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ダークナイト

ダークナイト

 (ネタバレあり)
 映画は冒頭、ピエロのマスクを手にしたジョーカー(ヒース・レジャー)を後ろ姿で登場させる。マスクに空いた両目の穴から、向こう側が透けて見える。
 マスクを外し現れるジョーカーの顔は、くずれかけの白いメイク。
 なぜ、ボロボロのメイクが魅力的なのだろうか?
 
 ジャック・ニコルソン演じるティム・バートン作品でのジョーカーは、薬品により漂白された白い顔そのものとして登場した。その顔/表情はジョーカーの邪悪さを表現している。
 一方、ヒース・レジャー演じるジョーカーのそれは、メイクでありマスクなのだ。
 しかも、そのメイク/マスクの向こうには何もない。何かを隠す為のメイク/マスクではない。だから、ボロボロでいいのだし、メイクの上からでもマスクを被る。

 口の傷跡もそうだ。その由来はそれを語って聞かせるごとに異なるように、オリジンをもたない。
 悪行の理由として納得のいく金は、それゆえに燃やされる。

 メイクの向こうに、傷跡の向こうに、悪行の向こうに、何もないことが恐怖なのだ。
 
 バットマン(クリスチャン・ベール)の正体が暴かれてはいけないのは、実はその為。善行の向こうに、何もないことを知られてはいけない。そこには正義があると、ジャック・ニコルソンの演じたジョーカーが悪の化身であったように、バットマンも正義の化身でなければならない。

 その向こうに何もないことを知っているハービー・デント(アーロン・エッカート)は、それゆえコインの絵柄をどちらも顔/表/正義にする。善行を行うのはそれが正しいからという同語反復。
 が、それは知られてはいけない。この秘密を知ったレイチェル・ドーズ(マギー・ギレンホール)と、それをあかしたデントは、ともにジョーカーの凶手にかかる。
 
 知られてはいけないことを知っているバットマンは、それゆえデントをwhite knightとするのであるし、同じく翻意したジョーカーも裏切り社員の口を封じようとし、それゆえ生き延びる。

 煤けたコインの裏表は、当然トゥーフェイスの左右の顔なのだが、生き延びたバットマンとジョーカーでもある。
 バットマンが表で、ジョーカーが裏ではない。どちらも表で(同語反復で)、ただそれが煤けているか否かの違い。
 だから裏であったジャック・ニコルソン演じるジョーカーと違って、表であるヒース・レジャー演じるジョーカーのメイクは煤けているのである。
 
 

 
 
 
 

テーマ:バットマン ダークナイト - ジャンル:映画

  1. 2008/08/14(木) 02:31:51|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「心のともしび」

心のともしび

 ボブ・メリック(ロック・ハドソン)の身代わりとなって死ぬヘレン(ジェーン・ワイマン)の夫フィリップスは、映画を通して登場することはない。(肖像画すらも見せてもらえない)
 
「狂気の要素を持っている馬鹿馬鹿しい話は、まさにそのために芸術に近づくんです」とサークは言う。「狂気の要素」であるオブセッションとは、ボブがフィリップスに取り憑かれていると嘆くように、フィリップスその人である。この「馬鹿馬鹿しい話」とは、ボブがフィリップスになる話。

 名前と人がそれぞれ一致しないヘレンとの出会いから、画家のエドワードのアドバイスを経て、ヘレンの許しがほしいボブはフィリップスの真似をしようとする。フィリップスの像に近づこうとする試み。
 しかしヘレンを失明させることで、ボブの真似る像は奪われる。(ヘレンから奪うことでボブからも奪われる)
 ヘレンに像を戻そうと奔走するボブ。
 しかし、手術は無理だと診断される。
 ヘレンに正体をあかすボブ。
 ボブだと知っていたヘレン。
 いつからボブだとわかっていたのか?とヘレンに問うことは、いつから真似ることに意味はないと知ったのか?とボブに問うことと同義である。
 いつのまにかボブだと知ったヘレン。
 いつのまにかフィリップスを真似ることがフィリップスになることではないと知ったボブ。
 となればあとは、その目的を消せばいい。
 姿を消すヘレン。
 フィリップスになる目的=ヘレンを失ってなおフィリップスになろうとするmagnificent obsession
 そして見事フィリップスになったボブに、ヘレンの視力が戻り与えられるのは、それゆえフィリップスではなくボブの像なのだ。
 


 「心のともしび」の1つ前に撮影された「アパッチの怒り」で、ラッセル・メティですらどうしようもなかったのであろう、ただアンダーなだけの擬似夜景には辟易させられたが、本作の窓外は素晴らしい。どのバックも良かったが特に、最後、ナイターの病室でレースカーテンから透け見える山と夜空はおそらくデイシーンのバックと同じものを使用しながら、本物以上に美しい。(もちろん本物のナイターであれば映らない)


 
 
 

  1. 2008/08/02(土) 06:27:10|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「いつも明日がある」と「マディソン郡の橋」

いつも明日がある

 「いつも明日がある」のようなストーリーから連想される作品は多々あるだろうが、例えば「マディソン郡の橋」。

 後半フレッド・マクマレイがおもちゃのロボットに自身を重ねあわせたように、でもまだそうであるとは気づいていない冒頭、フレッド・マクマレイを家族が通り過ぎていく。そのロボットのことを劇中walkietalkie space man(おしゃべり宇宙飛行士?)と言ってる箇所があったと思われるが、まさにフレッド・マクマレイはspace(何もない空間)manとして登場する。

 「マディソン郡の橋」でも、メリル・ストリープが家族に顧みられることなく過ごす食事のシーンを回想の冒頭に据えている。

 どちらもそれを騒々しく描き、その騒々しさから疎外されるものとして主人公を登場させる。そして主人公を除く家族がすべて外出し、空っぽの家にただ一人になって、不倫相手が訪ねてくる。
 
 出会いの後メリル・ストリープは、そのややもすれば過剰ともうけとれる演技力で、自ら恋に落ちていく主婦を演じる。恋に落ちるのが、自らであるのは当然であるはずにもかかわらず、「いつも明日がある」のフレッド・マクマレイは自ら恋に落ちていくようにはみえない。自らでないのなら、一体どのようにして。

 息子の父親への疑いは、どれだけそれを否定するような材料がでてきても関係ない。なぜなら、不倫を否定するはずの事実でさえ、不倫を支持する事実に転化させるからだ。息子に言わせれば、家族に包み隠さず話すことこそ、不倫をしているまぎれもない証拠である。
 そう、あたかも息子の不倫なのではないかという疑いが、その原因である不倫を生み出したかのように描かれる。
 息子の疑いは不倫の一部であって、しかも誰もそれに気づいていない。
 そのように演出されている。
 例えば、バーバラ・スタンウィックに入室を断られ去って行くフレッド・マクマレイを、サークは振り返らせるのだが、スタンウィックがカーテンを閉めたため光線が遮られその表情を窺うことができない。もし、ここでの表情を捉えたとしてフレッド・マクマレイはどのような表情をすればいいのか?自ら恋に落ちていく男の表情として捉えられざるをえない。だから避けられている。
 バーバラ・スタンウィックの部屋で写真を見つけた時の表情も、その当時に想いを馳せている顔ともとれなくはない抑えた芝居で躱している。
 
 
 つまりフレッド・マクマレイは、おもちゃのロボットなのだ。それは彼自身が卑下して劇中言っているが、そこでの謂いは擬餌にすぎない。
 フレッド・マクマレイは、こどもに操縦される自らは意志を持たないただのおもちゃとして描かれているのだ。
 
 


  1. 2008/08/02(土) 01:11:13|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

Follow Me on Pinterest

メールフォーム

お問合せはこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

全記事(数)表示

全タイトルを表示

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。