撮影監督の映画批評

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「告発のとき」と「ハードコアの夜」

告発のとき

 (ネタバレ注意)
 公式サイトを見てみたが、ポール・シュレイダー監督作「ハードコアの夜」への言及はなかった。もしかしたら、どこかでその影響関係について語られているのかもしれないが、とにかく似ている。

 行方不明になった息子を探す為に、単身フォート・ラッドの帰還地へ向かい、モーテルを拠点に調査するハンク(トミー・リー・ジョーンズ)。
 息子の携帯電話を手に入れ、そこにかろうじて残っていた画像が手がかりとなる。
 結局息子は焼死体で見つかり、その真相を探るなかでわかってきたことは、ハンクの考えているような息子ではなかったということ。そして息子を殺した仲間たちも決してそのようには見えなかった。

 一方「ハードコアの夜」は、ジェイク(ジョージ・C・スコット)が失踪した娘を探す為にロサンゼルスへと向かい、やはりモーテルを拠点に調査をはじめる。
 手がかりは、娘の出演している成人映画。
 娘を無事見つけるが、誘拐されたのだと信じていたジェイクに、娘は自分から飛び出したのだと告げる。

 どちらの父親も、別世界(イラク/ポルノ業界)を映像(携帯画像/成人映画)を通して垣間見、別世界でありながら、そこに住まう人々(息子の仲間の兵士/娘の捜索を手伝うポルノ女優ニキ〔シーズン・ヒューブリー〕)とは心通じ合う。では肝心の彼らの子とはどうなのかと言えば、どちらも彼らがそうだと信じていたかつての子供達とは異なっていた。
 どちらの父親もそのことを知りえる以前に、半ばそうと知りつつあっても、自らが抱く子供像に固執し続ける。
 自らの望まない結末を望むかのような倒錯した捜索。
 
 シュレイダーにハギス、どちらのポールも脚本家出身監督であるのは瑣談にすぎないが、双子のように見えてしまう両作品。
 二つの作品がよく似ているということが結論ではない。
 二つの作品がよく似ているということで、二つの作品の最大の違いであるはずの戦争とポルノが共に、決してなくならない別世界として並列する、そしてその別世界とは決して(ここではない、ある)場所なのではないと両作品とも語っている。
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テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/06/28(土) 20:55:54|
  2. 映画感想
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ぼくの大切なともだち

ぼくの大切なともだち

 (ネタバレあり)
 友人をつくる為に奔走するフランソワ(ダニエル・オートゥイユ)。
 実は自分は友人をつくる方法を知っていて歯がゆい思いで映画を観賞していた方も、なかにはいらっしゃるのかもしれないが、われわれ観客は少なくともフランソワの方法で友人をつくることができないことだけは知っている。だからフランソワを笑うことができる。
 すでにブリュノ(ダニー・ブーン)という友人ができているのにもかかわらず、それに気づいていないことも、われわれは知っているのでさらに可笑しい。
 ブリュノもまた、答えを知っているのにもかかわらず緊張のあまり答えることができず念願のクイズ番組出場を逃してきている。
 
 すでに手にしているのにもかかわらず、それに気づくことのできない二人の話。

 フランソワの証明(ブリュノは自分の為に危ない橋をわたってくれた)。
 共同経営者のカトリーヌ(ジュリー・ガイエ)が、10日以内に友人をつれてくるという賭けをした時点ですでにあなたは負けていたのだと喝破するのだが、さて本当にそうなのか?
 
 もしそうなら二人がともだちになれたのは、いつ?

 カトリーヌが言ったように、友人を証明だてること自体がその反証になるのだから、あの時点で二人は友人ではなかった。少なくともフランソワはブリュノを友人として見ていなかったということになる。だから壷の一件は、ともだちどうしのケンカではない。ともだちではない証明なのだから。
 しかし、ラスト二人の友情からふりかえれば、あれは、すでに、ともだちどうしのケンカなのだ。その時はともだちどうしのケンカではなかったものが、ふりかえってすでにともだちどうしのケンカになる。
 
 つまりさかのぼってしか名付けえないのが(出会った時からか、いつの間にかとしか答えられないのが)、ともだちなのだから。

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/06/23(月) 23:07:26|
  2. 映画感想
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ぐるりのこと。

ぐるりのこと

 (ネタバレあり)
 カナオ(リリー・フランキー)が法廷画家となり獲得していったものは、対象に対する距離のとり方、つまり自分という主体のたちあがるその仕方。
 法廷画家によって描かれる絵に意味はない。どれだけ重大事件の裁判であろうが、絵そのものに意味はない。意味は無いが必要とされる。
 カナオは、意味はないが必要とされる絵を描く為に、重大な意味があるとされる事件の被告人と距離をとる。それは、絵を描く為に必要な距離であり、カナオ自身がたちあがる為に必要な距離。
 何事もきちんと決めなければ気のすまない翔子(木村多江)のその意味を求める近すぎる距離とも、以前のカナオの逃げて見ようとしない距離とも異なる。

 意味のある絵を描こうとするのでもなく、かといって描かないのでもない。
 意味はない絵だけど描く。
 その距離感。
 たちあがる、「ぐるりのこと。」を見るということ。
 たちあがる、そのように「ぐるりのこと。」を見る私。

 翔子は、意味のある絵(天井画)を描けたから再生できたわけではない
 意味のない法廷画であろうが、意味のある天井画であろうが関係ない、絵を描く為に対象を見つめること、対象=「ぐるりのこと。」から身を引き離し距離をとること、意味があるとすれば、それは対象にも絵にも求められるものではなく、その距離感にこそ求められるべきであり、なぜならそこでこそ個がたちあがるからだ。
 翔子は「ぐるりのこと。」を見ることで、自分を取り戻していく。
 かつて日本画を描いていたカナオが、全く卑下することなく翔子の天井画を見ることができるのは、何に意味があるかをすでに知っているから。
 ラストその美しさに感動するのは、天井画ではなく、天井画を横になって見上げ同じ距離で見つめることでたちあがる夫婦である。
 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/06/19(木) 22:40:07|
  2. 映画感想
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  4. | コメント:5

シークレット・サンシャイン

密陽

(ネタバレ注意)

 フロントガラス越しの青空から映画は始まる。続くカットで、それはシネ(チョン・ドヨン)の息子が助手席から見ている空だとわかる。車外に出たがらない息子をひっぱりだすシネだが、駄々をこねる息子はその場に横たわる。そんな息子を叱りつけ河原まで降りる親子、亡くなった夫の故郷へと引っ越してきた。お父さんはいないのにと訝る息子。

 次にフロントガラス越しの空が現れるのは、警察車両の助手席からシネの見た目として。警察に促され、躊躇いがちに外にでるシネ。冒頭で先取りされている息子の横たわる姿をここで見せる必要はない。息子が殺されていることを知らされているはずのシネが、車から出るのを躊躇うのは、父親がいないのに父親の故郷に行かなければならない息子の戸惑いと同じく、息子はもうこの世にいないのに息子の死体がある現場に行かなければならないから。

 息子は、死んだ父親の鼾の真似をして父親を想う。息子が亡くなって、死んだ父親の鼾の真似をする息子を真似して、息子を想い涙するシネ。

 火葬場の外で涙を流さないと難詰されるシネ、それを見ていたジョンチャン(ソン・ガンホ)があんまりだと家族に抗議する。カメラはそれをフォローして当のシネはフレームアウトする。容喙される筋合いではないと去って行く家族、フレームに一人残されるジョンチャン、やるせなくタバコをとりだしその場にしゃがみこみシネの方を一瞥する。カットが変わって、いつの間にかジョンチャンと同じようにしゃがみこんでいるシネただ一人(ジョンチャンのそれと同じ構図)、そこにジョンチャンがフレームインする。思わず溜息がこぼれる美しいシークエンス。

 シネが通う教会に、足繁くやってくるジョンチャンを詰問する、なぜ来るのか?
 神様を信じているからだと答えるジョンチャン。
 他の目的があるのではないかと問いただすシネ。
 否定するジョンチャン、信仰の為だ。
 神に誓ってそうだと言えるか?と問うシネ。
 答えられないジョンチャン。
 
 神に誓うことができないということが、何よりも神を信じているという証拠なのであって、ジョンチャンは自分でも知らないうちに神を信じ始めている。
 シネが面会に行くのを、許すのであれば会う必要はないのではないかというジョンチャンは正しい。許すとは執着をなくすことなのだから。
 「許してやるー許してもらう」という構図にとらわれ、それによって相手を組み敷くことを無意識に望むシネ(意識せず信仰をもったジョンチャンとは対称的)が、毀れてしまうのは当然の帰結。



 さて、密陽、秘密の陽射しとはなんなのであろうか?



 薬局で見えないものを信じない人だと指摘され、見えるものも信じないと答えるシネ。
 見えないものもこの世にはあるのだと言われたとき、見えないのは息子の姿。
 
 見えるものも見えないものも信じないシネが、最も信じたくないのは夫に愛されていなかったこと。信じたくないシネは、愛し合っていたというフリをする。なぜなら、それを(自分も含め)信じる人がいるからだ。だから、知り合いのいない夫の故郷に引っ越してきたのだし、それを言いふらし他人にも認めてもらいたがった。
 見えるものも見えないものも信じないシネでも、フリをすることで信じる人がいることは信じているのだ。
 息子が隠れているのを悲しむフリをして誘いだすのも、そのフリを息子が信じることは信じているからだ。
 シネが信じているのは、他人の視線、他者の眼差しである。
 だから、ジョンチャンを俗物だと非難しながら自らが最も俗物なのだ。



 薬局で陽射しにも神様がいると言われたとき、陽射しに手を持っていって、何もない、ただの陽射しだと反論するシネは、それとは知らず正解を口にしている。


 そう、そこには何もない、ただスクリーンに反映する光があるだけだ。シネも薬局のおばさんもその背景も、スクリーンに投射された映写機の陽射しにすぎない。
 その映写機の陽射しは、カメラの眼差し=観客の眼差しでもある。
 シネが信じる、フリ=演技をすることで信じる人とは、他者であり、観客でもある。
 それが証拠に、シネが隠れている息子を騙そうと心配するフリ=演技をしたとき、それに騙されるのは息子だけでなく観客もではなかったか。
 陽射しとは、眼差しのことであり、秘密の陽射しとは、観客の眼差しのことである。つまり映画そのもののこと。
 秘密の陽射しは、映画内の登場人物が知ってはいけないから秘密なのだ。映画の登場人物は決してカメラレンズを見てはいけない。なぜなら映画という虚構が瓦解してしまうから。
 それゆえ、薬局の主人を誘惑し仰向くシネが、カメラ目線に限りなく近く、あたかも観客に問うかのごとく、よく見えるかと聞いた後、吐き気を催すのはその罰としてなのだ。
 


 
 
 


 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/06/10(火) 00:40:39|
  2. 映画感想
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シューテム・アップ

シューテム・アップ

 監督のマイケル・デイヴィスは、この映画を「ハードボイルド 新男たちの挽歌」(ジョン・ウー)でのチョウ・ユンファの赤ん坊を抱きながらの銃撃戦(赤ん坊がおしっこ=小で火を消し、チョウ・ユンファを助ける)にヒントを得て製作したそうだが、その主人公スミスに「トゥモロー・ワールド」ですでに赤ん坊をとりあげた経験のあるクライヴ・オーウェンをキャスティングしているあたり、すでにうまくできている。(「シューテム・アップ」では赤ん坊の大がスミスを助ける)
 というのも、スミスの隠れ家に入るには、ネズミを使ったルーブ・ゴールドバーグ・マシン(というそうだ。いわゆるピタゴラ装置、「グーニーズ」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でおなじみ)で鍵が開く仕組みになっていて、要はこのようなルーブ・ゴールドバーグ・マシン化したブリコラージュ的アクションが終始展開するからだ。
 ガンアクションもつまるところ単純化すれば、会話シーンと同じでカットバックにいきつく。それでは面白くないと、そのカットバックをルーブ・ゴールドバーグ・マシン化するわけである。
 ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのコンテストは、ひとつの工程をどれだけのステップを踏んで行うかで判定されるらしい、「シューテム・アップ」は、一対のカットバックで済んでしまう銃撃をさまざまなステップを踏んで魅せてくれる。
(ちなみにスミスの人参は「ワイルドアニマル」(キム・ギドク)の冷凍サバに比肩する凶器だと思う)
 

テーマ:シューテム・アップ - ジャンル:映画

  1. 2008/06/01(日) 23:03:18|
  2. 映画感想
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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