撮影監督の映画批評

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

NEXT ネクスト

NEXT ネクスト

 ネタバレあり

 2分先が見えてしまうのか、意図して見るのか?

 リズ(ジェシカ・ビール)にどうアプローチすればよいかをシュミレートするシーンなどでわかるように、意図的/選択的に見ることができるようだし、またカジノ強盗等のシーンのように見えてしまうもののようでもある。
 2分先からどれだけの時間持続して見れるのかは、恣意的だったように思われたが、いずれにしても実時間をかけてその予知を見るわけではなさそうだ。2分先がよぎった現在に、その都度戻る。クリス(ニコラス・ケイジ)のセリフにもあるように未来はその都度変わるのだから、再度予知すれば別の2分先が見れるはずだ。
 とまぁ、実は際限ないわけで、ビル・マーレイ主演の名作「恋はデジャ・ブ」で同じ日が繰り返されてしまう地獄と同じなのだ。
 もちろん選択的に見ることができるのなら、リズとの出会いにあるように天国なのであって、そんな都合の良さに身を任せることができれば、この映画を楽しむことができる。
 つまり、2分先が見えてしまう(受動的)男に感情移入/自己投影するのではなくて、2分先を見る(能動的)男に感情移入/自己投影すればいいのだ。

 そこで、予知夢オチ。シシュポスの岩。全てが水泡に帰すような徒労感を味わわせる。
 あえて曖昧にしてあった予知の受動的側面、つまり「恋はデジャ・ブ」的地獄の提示。

 
スポンサーサイト

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2008/05/14(水) 21:52:48|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ミスト

ミスト

 (ネタバレしてます)
 霧は、その奥に恐ろしい怪物を隠している。最初、霧自体に毒性があるのではというような運びもあったが、そうではないことが程なくしてわかる。
 霧に潜む怪物を強調することで、霧自体にではなく、霧の奥からやってくる怪物が、恐怖の対象となる。
 霧は、恐怖の対象を隠す覆いでしかない。そのように描かれる。(誰も霧自体を恐れることはなくなる)
 次に、極限状況におかれた人間の恐ろしさ=愚かさが描かれる。
 恐ろしいのは、モンスターなのか、あるいは人間なのか?

 この映画のラストが素晴らしいのは、上記の答えがそのどちらでもないことを物語るからだ。

 霧は、モンスターを隠しているから恐ろしいのではなく、時間を隠しているから恐ろしい。本当に恐ろしいのは、時間を隠す霧なのだ。
 霧は、全てを変えるが自らは変わらない時間が形象化したものだ。
 だからラスト、霧の中から主人公を襲うのは、モンスターではなく、モンスターよりも恐ろしい時間なのだ。

テーマ:ミスト - ジャンル:映画

  1. 2008/05/13(火) 20:19:02|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ダージリン急行

ダージリン急行

 個人的な嗜好にすぎないが、パンが好きである。
 といっても、breadではなくて、カメラを左右にオペレートするpanのことだ。
 一口にパンと言っても、移動する被写体をフォローするパンであったり、原意のとおりパノラミックに見せるパンであったり、ただフレームAからフレームBをつなぐためのパンであったり、まぁ様々である。
 なぜパンが好きなのかを誤解を恐れずに言うならば、音符をつなぐタイやスラー(レガート)のようなものに思え、それらがシンコペーションのような変化をもたらすように思えるからだ。(フォローパンがタイで、AからBへのパンがスラーかしら)

 以前のウェス・アンダーソンと比べて、あくまでそのフォルムに限れば、「ダージリン急行」が最も変化に富んでいる。
 平面的なフォルムのままかつ立体的。
 シネマスコープサイズ、シンメトリーの多用、トレードマークともなっている横移動、大胆なカット割りなどから、ウェス・アンダーソンの平面性は以前から強調されてきた。
 さてそこに過去作にも散見されはしたが、「ダージリン急行」において飛躍的な伸びをみせたのが、パンなのだ。
 このパンの圧倒的物量(トータルの回転角度はおそらく近年随一ではないだろうか)に驚かねばならない。そしてさらに驚くべきは、そのパンが平面性を損なわないところだ。
 パンとは、即ちアングルを変えることであるから、視点となるカメラ位置が、その場所でそれぞれの被写体に対しどのような位相にあるかを立体的に再構成することができる。つまり奥行きの感覚をカメラと被写体の間に生じさせるはずなのだ。

 ではなぜ「ダージリン急行」において平面的なパンというものが可能なのか?

 ウェス・アンダーソンのパンは、ただフレームAからフレームBをつなぐだけのパンであって、その間の画に奥行きを構成する力を与えないからである。つまりカットでつなげていいはずのAとBをパンでつなげているだけなのだ。だからAとBをカットでつないでも、AとBをスウィッシュパンしても、物語上は全く影響ない。

 映画をシンコペーションさせる為のパン。
 空港の搭乗待ちの長まわしにおける公衆電話への三人それぞれへのパンが、映画を躍動させてはいないだろうか。
 カットでつなぐかパンでつなぐか(どこでシンコペさせるか)、その選択が的確なのだ。
 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/05/12(月) 22:08:00|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

最高の人生の見つけ方

最高の人生の見つけ方

 (ネタバレあり)
 入院する病室で大富豪と同室にならなければ話がはじまらない話をそつなくはじめているのは、さすがハリウッド。(どう考えても前フリにしか思えないマスタングのキーホルダーは御愛嬌といったところか)
 寝たまま首を曲げずにテレビを見ることのできるメガネをかけたエドワード(ジャック・ニコルソン)とエドワードのおしゃべりがうるさくてヘッドフォンをするカーター(モーガン・フリーマン)。
 エドワードに余命をつげる医師、いつのまにかヘッドフォンを外してエドワードを見つめるカーター。
 カーターに背をむけるエドワードだが、医師がカーターに余命をつげると、いつのまにかカーターを見つめているエドワード。
 そんなエドワードとカーターをカットバックすることで、二人の背景が異なることは際立たせつつ、二人の類似を強調していく。

 病院を抜け出して、エドワードの金に物言わす二人旅がはじまる。それを律儀に二人のカットバックで構成するシーンが続く。最初のスカイダイビングやカーレースなどはそれなりだが、それから先どんなに背景が豪華に変わろうとカットバック主体の背景では、貧しすぎるし退屈なのだ。
 エドワードがよこした女性と、登ることのできなかったチョモランマの話をしているカーターの目の輝き、観客もまたそこで語られる見えない光景に魅了される。
 どんなにスペクタクルなものでも、手が届かなそうなものでも、手にしてしまうとその輝きを失う。
 やりたいことがやれたことにではなく、やりたいことをやれるまでの時間にこそ、人は魅了される。

 透明な無時間的なカットバックは、アメリカに戻って非対称なカットバックになる。カットバックを非対称にするものは何か?
 (残された)時間である。
 同じように入院し、同じように余命を生きてきたが、死ぬのはカーターの方が早い。
 アメリカに戻ってきてから消されるリストは、結果消されることになるものばかりだ。なぜならそこに時間が介入したから。時間がリストを消していく。
 
 エドワードとカーター二人を延々カットバックでつなぐことだけで構成された映画。ただそのカットバックの意味合いが途中で変わる。何気ない風情を装いながら、実に計算された見事な映画。


 追記 オチのあざやかさもさることながら、エドワードの秘書がいい。ハリウッドらしいキャラクターだと思う。




 

テーマ:最高の人生の見つけ方 - ジャンル:映画

  1. 2008/05/12(月) 03:32:41|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「ブレス」と「接吻」

ブレス

 面会室の透明な仕切りで対峙する二人を、キムギドクはどのようにとらえるのだろうか?
 例えば、「悪い男」であれば、マジックミラー越しに娼婦を見つめている男の話だったように、キムギドクは一方通行で非対称な視線を好んで描いてきたように記憶している。
 面会室での視線の対峙は、透明な仕切り越しゆえに逃げ場がない、文字通り透明なカットバックが常套手段になる。
 さらに鏡像を好んで利用するキムギドクであるから、透明な仕切りに登場人物を映すという些か手垢のついた表現に、どのような距離をとるのか?
 
 保安課長が操作する監視カメラによって捉えられた二人の姿をモニターに映し出す。そのカットが適宜インサートされ、紋切型を回避している。さらに、透明な仕切りに二人のうちのどちらかを映すということをするのではなく、二人を映したモニターに、その二人を見つめる保安課長の姿を映し込んでいる。(ただ、二人の行為と同時にタバコに火をつけるのは、紋切型にすぎる)
 しかし、ここに導入された非対称な視線は、保安課長と二人の間にはしるものであって、二人の間のものではない。非対称であることがはらむそのポテンシャルは、どのようにしてこの映画を駆動していくのか?
 このポテンシャルは、保安課長によってキープされつづけてしまう。保安課長は、二人に関わってこない、行き過ぎる行為にブザーを鳴らして止める(=カットする)だけだ。つまり保安課長は監督=観客でしかない。実際、保安課長をキムギドク本人が演じているというのだから徹底している。しかしそれではこのポテンシャルを活かすことができない。そこで夫(ハ・ジョンウ)が、そんな観客のいらだちを知ってか知らずか、そのモニタールームに入ってきて二人をモニター越しに見るのだ。

 メタレベルの導入は一向に構わないのだが、それがやはり降りていかなければならないと思う。その点で、それが遅かったように思われるし、映画もそれでさして動揺しなかった。

接吻

 其の伝で行くと、「接吻」(万田邦敏監督)は面白い。面会室で、京子(小池栄子)に眠らせるのだ。
 他でも、裁判長が坂口(豊川悦司)に言いたいことがないかと問うのに、「ありません」と答えたり、坂口の手紙には、こうして返事を書いているからといって誤解しないようにと書かれていたりする。

 つまり「接吻」では、限られた面接時間に話すことなく眠らせたり、 あなたの声が聞きたいという京子の願いに言いたいことがないと言うことで答えたり、誰とも交流したくないという旨の手紙を返信したりする、コミュニケーションを拒否するメッセージの往還が、コミュニケーションになっている。
 透明なカットバックで、会話や視線をやりとりするのではなくて、そのやりとりするものがないと表明することで、逆説的に二人をコミュニケートさせている。

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2008/05/10(土) 20:18:06|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「つぐない」

つぐない

(ネタばれあり)
 冒頭、戯曲を書き終えたブライオニー(シアーシャ・ローナン)は、母親に読んでもらおうと屋敷を探しまわる。ブライオニーのカメラに対して縦方向の動きを、カウンターの移動で捉え、スピード感を増している。カメラ奥に去って行く動きにはトラックバック、カメラ手前にやってくる動きにはトラックアップ(contract dolly)。
 カウンターの移動ショットは特殊で多用されるものではないのだが、もう一ヶ所使われている。
 ブライオニーの視点から、セシーリア(キーラ・ナイトレイ)の視点に変わり、もう一度噴水前の出来事までが語り直される際に、そのセシーリアのやはり屋敷内での動きをカウンターで捉えている。
 同じ時制が、異なる視点から語り直されるのに、それぞれの視点主の動きをカウンターで捉えて、最終的に噴水前の共通するイメージに収束されて別視点で語り直されていたのだとわかるまでの別々のイメージに同じフォルムを与えている。

 いとこたちとの会話に割って入る蜂の羽音。それが邪魔をしたわけでもないが、いとこたちは劇に興味を示さず部屋を出て行ってしまう。そこでやっと蜂の羽音に導かれ、窓ガラスにとまる蜂を見るブライオニー。その窓外、噴水前のセシーリアとロビー(ジェームズ・マカボイ)。
 蜂の羽音は、窓際に誘導して目撃させる為の道具にすぎないのだろうか。もしそうであれば、羽音が聞こえるのはもっと後でいい。彼女がいとこたちに話していた自作劇上演のための話の間中、ひっきりなしに聞こえていた。
 ラスト、彼女は作家として何冊かの小説を出版し、この「つぐない」が遺作なのだと語る。「つぐない」以前の作品に、セシーリアとロビーのことが蜂の羽音のように過っていたのではないだろうか。過剰な羽音は、彼女の生涯通じて消えることの無かったノイズ=セシーリアとロビーに対する罪悪感なのであろう。

 セシーリアは、タバコをくわえたまま池に飛び込む。バスタブから顔を出すロビー、見上げると窓外に戦闘機が飛んでいる。
 火と水、水(in&out)で繋ぎつつ屋外から屋内、水中(屋内)から空中(屋外)へと紡いでいく。このセシーリアからロビーを経て、来るべき戦争の兆しへと、後半の戦場での描写になって遡及的にそれとわかるさりげない配置。

 ブライオニーに顕著なのだが、プロフィールの構図を多用している。
 昨日観た「賭博師ボブ」(ジャン=ピエール・メルヴィル )でも、男を見送った後、残されるアンヌ(イザベル・コーレイ)をプロフィールで捉えていた。
 横顔は語義どおり、あまり知られていない一面なのだ。かいがいしく男を見送ってもアンヌは貞淑な女ではないという横顔。ブライオニーの知られていない企み。
 語義どおりと言いつつも、あまり知られていない一面としての横顔は、実は我々には隠されている方の横顔のことではないだろうか?
 隠された方の横顔を喚起する為に撮影されるもう一方の横顔。
 プロフィールは、二つあるはずの目を一つ隠してしまう。その隠された目に何が宿っているのか、問わずにはいられない。

 セシーリアのアパートを訪ねるブライオニー、そこにはロビーがいた。全てを話すブライオニー。セシーリアとロビーに詰られ、窓外を見るブライオニー。そこには乳母車を押す老婆がいる。
 この老婆は一体何なのか?
 この一連は作家ブライオニーの創作だと後でわかる。
 そう解ってはじめて、この老婆は、老作家ブライオニー自身なのだと遡及してわかる。
 

テーマ:つぐない - ジャンル:映画

  1. 2008/05/07(水) 20:45:20|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「フィクサー」

フィクサー

 「レザボアドックス」でオレンジ(ティム・ロス)が、潜入の為におぼえる小話がある。練習シーンと、実際披露するシーン、想像上の視覚化されたシーンで、繰り返すことなく一つのストーリーを語り継いでいた。
 同じように「フィクサー」でもカレン・クラウダー(ティルダ・スウィントン)が、インタビューの回答をあらかじめ練習しているシーンと、実際インタビューを受けているシーンを交互に繋いでいる。

 カレンがその少ない出番にもかかわらず、主人公マイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)にも負けないくらいの存在感を放っているのは、ティルダ・スウィントンが上手いだけではない。
 例えば、「レザボアドックス」のブロンド(マイケル・マドセン)のようにエキセントリックゆえの存在感でもない。
 ただエグゼクティブであるだけの、あえて言うなら普通の女性として描かれている。
 では、何かそれだけで共感できてしまうような人となりを紹介するエピソード、例えばエグゼクティブな仮面の下に隠れている人間的な一面だとかが描かれているのか?
 そのような描写は一切ない。あってはいけない。
 なぜなら、どのように見られたいかに腐心している描写だけで、この存在感を得ているからだ。
 エグゼクティブである描写では不足、エグゼクティブであるのは仮面なのですという描写さえあれば、その仮面の下の人となりは描かれなくてもいい、むしろ描かれない方がいい。
 あなたが今見ているのは、本当の私ではない、あくまでも仮面なのだと常に観客に喚起することだけに徹すればいいのだ。
 それだけで観客は、その仮面の下の素顔に思いを馳せるのだから。

テーマ:フィクサー - ジャンル:映画

  1. 2008/05/07(水) 01:13:11|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

Follow Me on Pinterest

メールフォーム

お問合せはこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

全記事(数)表示

全タイトルを表示

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。