撮影監督の映画批評

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

「フライボーイズ」と「メンフィスベル」

フライボーイズ

 経済的なストーリーテリングが見事。
 登場人物それぞれの簡潔な紹介に続き、パリへとやってくる彼ら志願兵達をプラットホームにて会させる。そのバックの空に飛ぶ複葉機につけてカメラがパンすると、そこはすでに仏軍の戦闘機隊基地になっている。運ばれるコーヒーにつけてカメラはテントに入っていく。そこには、司令官のセノール大佐(ジャン・レノ)がいて、彼がカメラが入ってきた入口とは別の出口から外に出るのを、そのままカメラも追って外に出る。すると、そこには先程プラットホームにいた若者たちがすでにユニフォームに着替えて整列している。セノール大佐が訓示を垂れるその頭上を、先輩パイロットのキャシディ(マーチン・ヘンダーソン)が操縦する複葉機が煙をあげながら旋回していて、志願兵らの気がそがれる。そこに遅刻して一人私服で現れる、ゆえに主人公たりえるローリングス(ジェームズ・フランコ)。不時着してやってくるキャシディとローリングスが反目しあう。
 ここまで語られるのに一体何分、何カットだったであろうか。つまり、とても経済的な語りがなされていたと言いたいのだ。

 その後の訓練シーンにおける時間経過も、体を回転させた後、平均台のような板の上を真っすぐ歩かせるトレーニングのその踏破する距離を伸ばすことで端的に描写していて、実に経済的。

 ひとつひとつのエピソードが、いわゆるベタと言われるものであるのは相違ないが、それらの経済的な結構はベタとは程遠い。
 「メンフィスベル」的な友情物語と、キャシディとの世代間の物語で、エピソードも縦と横にわたっていて、複葉機の落下も含む縦横の視覚的な動きと呼応しあっている。

 
スポンサーサイト

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2007/11/29(木) 02:22:53|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

「クワイエットルームにようこそ」と「17歳のカルテ」

クワイエットルームにようこそ

 (ネタバレあり)
 巷間よく言われる「17歳のカルテ」との類似だが、実際よく似ている。
 公式サイトでのインタビューでは、「カッコーの巣の上で」の影響を語っていて、明日香(内田有紀)が蕁麻疹になったときに婦長(りょう)と闘って勝利するシーンを例にあげているが、「カッコーの巣の上で」からなら、そのくらいだろう。いっそ「17歳のカルテ」の本歌取りなのだと言ってしまった方が潔い気がするのだが。(後に述べるように、その本歌との違いが、この映画の最も魅力的な部分なのだから)あるいは言わずもがなということか。
 類似点(例えば「オズの魔法使い」の引用や、かたや蒼井優を「化け物」と言い、かたやアンジェリーナ・ジョリーを「死んでる」と言うことが、どちらも終盤の転換点になっている点など)をあげつらっても面白くないので(実際には、それはそれで面白いのだが)、異なる点を。

 「17歳のカルテ」で退院していくスザンナ(ウィノナ・ライダー)は、リサ(アンジェリーナ・ジョリー)に退院して必ず会いに来いと言う。さらにラスト、スザンナのモノローグで、後に退院した幾人かと実際に再会したと語られる。
 これに対して「クワイエットルームにようこそ」では、先に退院する栗田(中村優子)に皆の連絡先を捨てさせるのだし、明日香もまたその栗田の連絡先を捨てる。明日香に寄せ書きを渡すミキ(蒼井優)もまたこの寄せ書きは捨てろと命ずる。
 「クワイエットルームにようこそ」での友情は稀薄だったということなのだろうか?
 確かに友情の描写という点では「17歳のカルテ」に分があるかもしれない。
 しかし「クワイエットルームにようこそ」の登場人物らに通底する諦念が、「17歳のカルテ」でのハリウッド的友情讃歌を凌いで、むしろ友情を一瞬の輝きとして際立たせているとは言えまいか。
 両者を比較すると、同じ題材をかたやシリアスに(「17歳のカルテ」)かたやコメディタッチで(「クワイエットルームにようこそ」)描いているように言われていて、ほぼそのとおりなのだが、この上記の一点でそれは逆転しているように思われる。

テーマ:日本映画 - ジャンル:映画

  1. 2007/11/20(火) 01:21:38|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「once ダブリンの街角で」

once ダブリンの街角で

 巻頭、街角で歌う主人公の男(グレン・ハンサード)は、チップを盗んで逃げる男を追いかける。捕まえた犯人に、小銭を恵む男。
 主人公の職業と、その人となりを簡潔に紹介するファーストシーンを、カメラは距離をとって収めている。ダブリンの街角に立つ、これから始まる物語の主人公となるであろう男を、我々は離れて見つめる。ダブリンの街角から、たまたまこの男をピックアップしてみましたという感じ。手持ち撮影のブレが、その感じを助長している。素敵な導入だと思う。
 
 そして夜、一人街角でオリジナルの曲を奏でる男に、はじめてカメラは近づいていく。男のクロースアップまでいくと、カメラは折り返しトラックバックする。すると往路では誰もいなかったはずの男の前に、それゆえこの物語の主人公たりえる女が佇んでいる。そこでの二人のカットバックはすでに、冒頭の泥棒とのカットバックのようにカメラが距離をとることはない。完璧。

 この二人が出会うまでの運びに比べると、その先の展開に特筆すべきものが見当たらないのは残念。決して悪いわけじゃないんだけどね。

 
 

テーマ:ONCE ダブリンの街角で - ジャンル:映画

  1. 2007/11/14(水) 17:46:57|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「エディット・ピアフ 愛の讃歌」

エディット・ピアフ 愛の讃歌

 日本人撮影監督永田鉄男氏による撮影が素晴らしい。揺れ動く手持ち撮影と、ステディカムによる流麗な移動撮影との択一が的確。
 衆目の一致するところだと思うが、マルセル・セルダン(ジャン=ピエール・マルタンス)の事故死を知らされるシーンの長まわしは本当に見事である。それにしても欧米には実に優秀なステディカムオペレーターがいるものだと感心しきり。

 肝心のストーリーはといえば、団子の串刺しと言われるエピソードの羅列でしかなく、ストーリーが語られるだけでそこにプロットがない。(つまりエピソード間の因果関係がない)

 聖テレーズに祈ったことで視力を回復したエディットは、聖テレーズに庇護されているのだと信じ続け、父親がサーカスを離れるところや折々で願いごとをするのだが、全てが叶うわけではない。それでも信じ続けるのは、やはり視力が回復したことが大きく、そのただ一度の成就を担保にすがりつく。それは死ぬ間際にフラッシュバックする両親と重なる。エディットにとって、良い両親として少しも描かれてこなかったのに、ここにきてフラッシュバックされる両親は、エディットにやさしい。気まぐれで見せたやさしさだけで、両親を肯定して死にゆくエディットが哀しい。



 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2007/11/11(日) 23:20:20|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「タロットカード殺人事件」

タロットカード殺人事件

 ピーター(ヒュー・ジャックマン)のパーティーで、サンドラ(スカーレット・ヨハンソン)とシドニー(ウディ・アレン)が、ピーターの目を盗んでワインセラーの隣にある地下室に忍び込むくだりは、ヒッチコックの「汚名」を髣髴させる。
 サンドラの戻りが遅いので地下へと向かうピーター、地下室に閉じ込められ解錠するための暗証番号を思い出せないシドニー。万事休すと思わせてピーターの目前で既に脱出し終えたシドニーとサンドラを見せる、この極端な時間の縮減はジョン・バダム得意の演出を髣髴させる。
 九死に一生を得たサンドラは、ピーターと一夜を共にし、ピーターが眠っているのを見計らい再度地下室へと向かう。そこで発見するタロットカード。それを見るサンドラのクロースアップに続いて、寝室でサンドラの不在に気づくピーターのクロースアップ。再度、(今度こそ)見つかるかもしれないというサスペンス。結論から言えば、今回も回避される。しかしその回避のされかたが予想を裏切る。
 サンドラの不在におかしいと気づいたピーターが、地下室へと向かうだろうことは前回のくだりを見ている観客の自然な発想。さらに前回の学習から今回もそこで既に脱出し終えているのではないかという発想も想定内。しかし今回はサンドラが既に寝室に戻っているという迎え撃ちには、想定外の不意打ちを受けるのだ。

 ウディ・アレンのカメラワークは、さりげなさこそ最もテクニカルなことだという証で、ズーミングがこれほど自然になされているカメラを知らない。(撮影者の目から見るとさりげないズームほど、さりげなく見逃せないものはない)
 長まわしのイメージはウディ・アレンにはないが、それは本当の長まわしができる演出家の証であって、それは縦の演出とパンの演出ができるということに他ならなく、本作でそれは遺憾なく発揮されている。
 

テーマ:ミニシアター系 - ジャンル:映画

  1. 2007/11/09(金) 02:18:29|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:0

「ブレイブワン」

ブレイブワン

 復讐に至る原因となる事件が冒頭すぐに描かれるのだが、観客をエリカ(ジョディ・フォスター)に感情移入させる充分な描写になっているのが巧い。

 暴漢にただ襲われるのではなく、それがビデオで撮影されるに及び観客は否応なくこの復讐劇の世界に入り込む。なぜか?
 この許せない暴挙を撮影しているのが、「ブレイブワン」の撮影監督フィリップ・ルースロ(厳密に言うと彼のオペレーター)ではなく、登場人物である暴漢だからである。(もちろんそれも厳密に言えばオペレーターが撮影しているのであろうが)
 いまだ映画の外にいる観客が、観客席に身を沈めスクリーンを見つめる。予告編が始まり、本編が始まる。いつ観客は映画の中に入るのか?
 「撮影されたものとしての映画」として見られている限り、依然として映画の外=観客席にいる冷静な観客のままである。
 が、ビデオで撮影された許されざる暴行を見る観客のフレームは、その時すでに映画の中にシフトしているのだ。
 映画というフレームを忘れさせる為のフレーム内フレーム。
 「撮影されたものとしてのビデオ映像」を撮影されたものとして見られることがない限り、観客はすでに映画の中にいる。
 これは登場人物のPOVが、観客を感情移入させるのに極めて効果的であることと同根である。


 婚約者が犬を連れてくる間、アパートの入口でひとり待つエリカの背中を、カメラは内側から外向けでドアのガラス窓で矩形に切り取っているのは、幸せの最中に来たりくるものを先取りしているようで素晴らしいカットになっている。
 幸せだった主人公が不幸な事件に巻き込まれ・・・というようなストーリーを語るときに、ただシーケンシャルに描写するのではなく、このように予感させるようなカットをストーリーの要請とは関係なく紛れ込ませるセンスを映画的だとしたい。

 

テーマ:ブレイブワン - ジャンル:映画

  1. 2007/11/04(日) 00:53:27|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

Follow Me on Pinterest

メールフォーム

お問合せはこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

全記事(数)表示

全タイトルを表示

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。