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「ポエトリー アグネスの詩」(イ・チャンドン)
 (ネタバレあり)
 映画は川面をゆっくりと溶明して始まり、そのままパンアップして川にかかる橋をロングにとらえる。聞こえてくる子供たちの声、その音源をフレーム内に探す。橋の上からなのかと目を凝らすが、遠すぎてわからない。キャメラはおもむろに川の流れをフォローし上手にパンをはじめ、音源の主である中州で遊ぶ子供たちをとらえる。そこではじめてオフフレームから聞こえてきた声だったのだと了解する。いくら橋の上に目を凝らしても、なにも見えないはずだ。ところが、その子供が流れてくる死体に気づく段になって、果たして我々観客は重要ななにかを見落としたのではないのだろうかという気分にさせられる。ここで奪われているのは、あったはずのアグネスの落下なのだ。
 ミジャ(ユン・ジョンヒ)が通う詩作教室の講師は、次のように言う。あなたがたはリンゴを知っているかもしれないが、実はリンゴのなにも見ていない、詩を書くということは見ることだと。
 ミジャは、孫の犯した事件や、アルツハイマーの罹患など自身に降り掛かる重大事よりも、詩作に夢中になる。ミジャはそれと知らずに詩作に救いを求める(仮託する)。だから、示談金がどうにもできないことより、アルツハイマーが進行することより、詩が書けないことが、重大事なのだ。
 彼女は、いつのまにか詩が書けるようになっている。いや、最初から書けたのだ。書けることを認めなかっただけだ。だから映画は、彼女の気づきにいたる過程を描く。
 詩を書くことが世界を見ることであれば、ミジャはただ今まで見なかったものを見るだけでいい。
 ミジャが見なかったものとは、我々観客も見なかった、橋の上のアグネスである。(奪われたアグネスの落下は、帽子の落下が先取りしていた。ただ我々も見たことを認めなかっただけだ)
 詩が書けたこと(その内容)など実はどうでもいい(これは映画なのだから)。見ることができたことが、ただただ感動的なのだ。
2012/03/10(Sat) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「J・エドガー」(クリント・イーストウッド)
(ネタバレあり)
 映画は、J・E・フーバー(レオナルド・ディカプリオ)が、自身の回顧録を口述筆記させる現在と、そこで語られる過去とを平行して描いていく。ラスト、トルソン(アーミー・ハマー)が指摘するように、そこで語られるのはフーバーにとって都合良く脚色されたストーリーだ。つまりフーバーは「信頼できない語り手」であるということ。
 白い馬は横切らなかった。横切ったのは、年老いたトルソンの型板ガラス越しのシルエット。フーバーの口述を躊躇わせたのは、白い馬ではなく、トルソンだった。
 白い馬とトルソンのシルエット(黒)に仮託されるフーバーのためらいの描写も見事だが、さらに巧いと思ったのは、口述の冒頭だ。
 パーマー司法長官宅の爆破テロ。若きフーバーは、その現場で警察と話し込むパーマー司法長官を見る。そしてそこに落ちているビラを見つけ拾う。そのフーバーの姿をパーマー司法長官が見て、自分の部下だと警察に説明する。フーバーが再び顔をあげ、パーマー長官の方を見るとすでに彼らはフーバーの方を見ていない。
 これこそフーバー(信頼できない語り手)が、そのように見てもらいたい姿そのものである。人知れずやったはずのことを、実は見ている人がいた。この話形のもつ誘惑はフーバーならずとも抗いがたい。人は人知れずやったことこそ、人知られたいものなのだ。

 フーバーが鏡の前で女装するのは、回顧録を閉じたのちのフラッシュバックで示されるが故に感動的だ。鏡と言えば、この「J・エドガー」ほど鏡を利用した演出がなされているイーストウッド作品を他に知らない。どれもさりげなく、エドワード・ヤン的な鏡の使用(盗聴器を仕込みにいくところや、トルソンにスーツを見繕ってもらうシーンなど)もあって、リフレクション好き(私)には最高の映画である。
 
 フーバーが亡くなったと知らせを聞いたトルソンが、玄関からメイドに案内され階段をのぼり、部屋のドアをあけ、調度品の間を縫って、ベッドわきで横たわる遺体に辿り着くまでが、執拗なまでの丁寧さで描かれる。これがイーストウッドの天才なのだ。イーストウッドでなければ、遺体に辿り着くまでの描写はそこそこに、対面してからのトルソンの嘆きを延々と撮るだろう。イーストウッドにおいては、それが顛倒している。そこでなされる嘆きの演技よりも、それに至る迂回にこそエモーショナルなものがあるのだという演出は、なかなか真似できるものではない。
2012/03/06(Tue) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「ブルーバレンタイン」(デレク・シアンフランセ)
 評判は知りつつも劇場で見逃して、DVDにて。REDで撮影された現在部分と、Super16で撮影された回想部分の差異もDVDではさしてわからず劇場で観なかったことを後悔。

(ネタバレあり)
 犬に"Love-A-Lot"と名前を付けたのは「愛のそよ風」(クリント・イーストウッド)だが、いなくなるのを夫ディーン(ライアン・ゴズリング)が先に知り、その死を妻シンディ(ミシェル・ウィリアムス)がみつけ、そしてそれをより悲しみ嘆くのはディーンだという本作の犬は、それだけでこれから描かれる2人の"Love"を先取りしている。

 最初の回想シーンで、老人の部屋から出て来たディーンは、その戸口で何かを見て立ち止まる。その何かを見ているディーンの顔に、現在のシンディのクロースアップを繋げ回想あけとしているのだ。その現在のシンディは、庭で犬(Love)を埋めるディーンを見ている。つまりここでは過去のディーンが何を見て立ち止まったのかはわからない。

 それがわかるのは、後のシンディに寄り添った回想シーン。シンディは祖母の部屋のドアを閉めようとして、廊下を挟んだ対面の部屋からディーンが出てくるのを見る。それは我々観客が最初の回想ですでに見ているディーンだ。つまり老人の部屋を出たディーンが見たのは、シンディだったのだとここで初めてわかる。

 都合二度繰り返されるディーンのまなざしの先は、
1)犬(Love)を埋めるディーンを見るシンディ(現在)
2)一目惚れするディーンを見るシンディ(過去)
 
 一目惚れしたというディーンが、同時に主張するのが、以前にも彼女を知っていたような気がするということ。これを聞いて我々観客は居心地がわるくなる。なぜなら我々は、ディーンがシンディに出会う回想の以前に、すでに結婚数年後の2人を見せられているからだ。つまり彼女を知っていたような気がするという以前が、結婚数年後の現在を指しているような倒錯した感覚に陥る。

 一目惚れ"Love at first sight"であるはずのまなざしには、同時にその"Love"の埋葬も折り込まれている。映画は現在と過去を交互に描いていき、一目惚れは結婚に、犬/"Love"の死は離婚に形を変える。
 しかし"Love at first sight"が"Love"の死に、結婚が離婚に形を変えるのではない。それらは相互に折り込み済みであって、視点の相違でしかないのだ。

 朝の8時から飲むような(情けない)仕事なのか、それとも朝の8時から飲める(ぜいたくな)仕事なのか。ここにあるのは視点の相違でしかない。(例えば、山中貞雄の「河内山宗俊」にも次のようなセリフがある。「なんだ、お前片足が短けえな」「馬鹿野郎、ほんの片足が長いだけだ」)

 恋愛とは男と女が出会うのではない。出会いと別れが出会うのだ。
 
2011/11/08(Tue) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「未来を生きる君たちへ」(スザンネ・ビア)
 原題はHÆVNEN、「復讐」という意味だそうだ。映画が復讐を描くとき、それは大抵自分ではない誰か(おおむね愛するもの)の無念を晴らすためになされる。なぜだろうか。

(ネタバレあり)
 
 劇中、医師アントン(ミカエル・ペルスブラント)は、子供のケンカの仲裁に入り、相手の父親に殴られてしまう。しかしアントンは決して抵抗しない。やりかえすべきだと主張する息子エリアス(マークス・リーゴード)とその友人クリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)に、復讐など愚かなことだと身をもって教え諭す。暴力にしかうったえるすべをしらない奴はバカだと切り捨てるのだ。
 それでも納得のいかないクリスチャンは「でも奴は自覚していない」と反論する。アントンはそれを説き伏せる言葉をもたない。
 
 クリスチャンの発言は全くもって正しい。バカであることを自覚させなければならないのだ。(しかし、誰に?)
 なぜそれがアントンにはわからないのか?
 それはアントンが殴られた当事者で、クリスチャンは当事者ではないからだ。
 クリスチャンは殴られたアントンの仕返しがしたい。クリスチャン本人は気づいていないが、復讐に託つけているだけなのだ。つまりクリスチャンはそのことを自覚していない。だから彼の反論は「でも僕は自覚していない」という訴えなのだ。バカなのは自分だとクリスチャンに自覚させなければならない。

 難民キャンプに戻ったアントンは、そこで自分ではないものの無念を晴らすために復讐をなす。なぜバカだと切り捨てることができなかったのか?それはアントンが当事者でなく、尚かつ彼がこの復讐に託つけているものに無自覚だったから。復讐を成し遂げても、復讐に託つけていた当ものは無傷のまま残る。それゆえ復讐は虚しい。

 冒頭の問いに戻ろう。なぜ映画は、自分ではない他者の無念を晴らすための復讐を描くのか?
 それは、その主人公の姿がそのまま映画を観る観客の姿に重なるからだ。観客は、映画に描かれる内容の当事者ではない。にもかかわらず、いや、だからこそ主人公の行動に託つけて感情移入を果たすことができる。だから、主人公が自分の託つけてきたものに気づくときカタルシスが訪れるのだ。
 
 
 
2011/09/08(Thu) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「ロスト・アイズ」(ギリェム・モラレス)
<ネタバレあり>
 フリア(ベレン・ルエダ)の視力は、劇中徐々に失われていく。であるから完全に盲目になるまでの描写には、そのPOVショットを用いることができる。視野狭窄を模するかのようにキャメラはフリアに寄り添い、客観的なカットは抑えられる。
 POVショットは、その主を隠す。であるから一人称映画(「湖中の女」、「視線のエロス」)は、鏡を使ってその主を見せるのだし、ヒッチコックは、POVショットとその主をとらえた画を交互に編集する(サブジェクティブトリートメント)。もちろんフリアのPOVショットは、ヒッチコックと同様、フリアをとらえる画と交互に編集される。
 しかし「ロスト・アイズ」のPOVショットはフリアのみならず、宿の雑用係の老人を殺しその場を立ち去る犯人にも施される。その際当然のことながら、交互編集のサブジェクティブトリートメントはなされない。主を隠すためのPOVショットである。そのPOVショットのなかで、駆けつけすれ違う警官とフリアは、その主に気づかない。まさに透明人間なのだ。

 盲目になって以後は、POVショットは使えない。4年以上前の記事で盲目の主人公の描写として最高だとした「見えない恐怖」(R・フライシャー)と同様に、POVショットが使えないかわりに、キャメラが主人公にぴったりと寄り添う。それだけに観客も多くを見渡すことができない。つまり主人公が触れることのできる範囲だけがフレーミングされる。
 「見えるってどういうこと?」と問う盲目の子供の疑問に、母親は「うんと遠くまでいっぺんに触れるようなものよ」と答えたという話がある。逆に見えないということは、触れる範囲だけ見えるようなものとも言えよう。
 したがってフリアの出会う人の顔が、フレームから/暗く陰って視覚から、排除されるのはフリアが触れることができないか/触れても認識できないからだ。POVショットを用いて登場人物の視点を借りずとも、サブジェクティブトリートメントは可能だという好個の例。

 しかし最もこの映画がサスペンスフルなのは、フリアが包帯をとってからだ。フリアは、見えないフリをする。一方的に見る人であって、見られることのなかった犯人は、今やもっとも状況が見えていないのだ。
2011/07/06(Wed) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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