「ハートブルー」Sex with the Gods!
 「HOT FUZZ ホットファズ-俺たちスーパーポリスメン!-」はもちろんのこと、「ダークナイト」の銀行強盗のシーンやジョーカーのカリスマからも、「ハートブルー」が髣髴としてよみがえった。
 
 ボーディ(パトリック・スウェイジ)のライディングを見つめるジョニー・ユタ(キアヌ・リーヴス)、そのジョニーにタイラー(ロリ・ペティ)が説明する。ボーディは、究極の波の探求者だと。
 映画は、究極の波を求めるボーディに魅せられるジョニーを媒介にして、観客を魅惑する。
 人は何かに魅せられている人に魅せられるものだが、映画は何かに魅せられている人に魅せられている人で魅惑する。

 銀行強盗(陸)、サーフィン(海)、スカイダイビング(空)を司る神、ボーディ。

 
 哲学を語るボーディを見つめるジョニーの目、付き合いきれないとその場を立ち去るタイラー。タイラーのように魅せられることのない人物を配することで、ジョニーがボーディに選ばれたように、観客も映画に選ばれているという気にさせられる。だから、タイラーがジョニーに彼らのようにはならないでという時にはすでに、観客は自らに言われているかのような錯覚を抱くにいたっている。

 マインドコントロールされた観客と、ブレインウォッシュされたジョニー。


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2008/08/24(Sun) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「この自由な世界で」
この自由な世界で

 (ネタバレあり)
 公式サイトのインタビューで、脚本のポール・ラバティはタイトル「この自由な世界で(原題 It's a Free World...)」について次のように言っている。

英語ではこんな言い回しがある。例えば友達との会話の中で、「私は〜をする」と言うと、友達がこう答える、「それはするべきじゃないと思うけど、ここは自由な世界だから好きにすれば(But it’s a free world, do what you want.)」という具合に。あたかも人がとる行動は、何にも影響を及ぼさないかのようだ。だけど、僕たちが映画のなかで見せようとしているのは、自身の行動には何かしらの結果がつきまとうということなんだ。


 つまり、無関心/無関係でいる言い訳として。
 だから映画は、アンジー(キルストン・ウェアリング)がどのようにして労働許可を持たない移民労働者に対して無関心/無関係であることをやめるかを描く。
 だがアンジーにとって彼らへの無関心をやめることは、即ち違法行為に手を染めることである、そう容易くできることではない。映画はアンジーに寄り添い丁寧にその葛藤を描いていく。
 にもかかわらずその一線はいとも呆気なく越えられる。
 その契機は、足繁く通う一人のイラン人労働者に声をかけるそれである。

 交差点に佇むイラン人労働者が頭を抱え込むのを、カメラはロングで捉える。
 そこにアンジーのバイクがフレームインして、イラン人のところに横付けされ、何らかの会話が交わされた後、イラン人をバイクの後ろに乗せる。
 アンジーの変節=映画のターニングポイントが、ただ引いたロングの画で見せられるだけなのである。なぜか?
 
 それを説明するには、呼応するもう1つのシーンを検討しなければならない。
 そのシーンとは、アンジーと共同経営者のローズ(ジュリエット・エリス)が、斡旋する労働者の為にトレーラーハウスを求めるそれである。
 雨の降る中、車でやってきた二人は、トレーラーハウスがすべて埋まっていることを知らされる。困ったアンジーは、移民局に退去させるよう電話を入れる。その車のフロントガラスごしに見られるのは、あのイラン人家族の娘たち。
 ここでのアンジーの決断は、フロントガラスというスクリーンを通してなされる。フロントガラス越しの、イラン人少女ら移民家族の暮らすトレーラーハウスの光景は、アンジーにとって「a free world」でしかない。関係ない、距離がある、つまり観客と視点を同じくしている(POV)。
 
 先程の問いに戻ろう。アンジーは、頭を抱えるイラン人を「a free world」として見過ごすことができなかった(車のように、フロントガラスというスクリーンをもたない/隔離された空間をもたないバイクに乗っていることに注目)
 つまりこのシーンを「a free world」として見ているのは観客である。観客をアンジーと同じ視点に立たせることはできない。なぜなら、映画は「a free world」でしかないからだ。

 映画がどれだけ声高に問題提起しても、所詮観客にはスクリーンの先の「It's a Free World...」でしかないが、観客が「It's a Free World...」というようにしか映画を見ていないということを告発することはできる。
 

 
 
2008/08/22(Fri) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「武士の一分」
1)意識の戻った三村新之丞(木村拓哉)は、目が見えなくなっていることにも動揺の色を見せず、加世(檀れい)を心配させまいとその事実を伏せる。

2)新之丞に詰め寄られ、失明の事実を隠し通せず白状してしまったと徳平(笹野高史)から聞いた加世は、不快なおもいをさせて申し訳なかったと新之丞に謝る。
 新之丞は、自分の為によかれと思ってしてくれたことなのだし、つらいのは自分よりも加世の方なのだから、気にしなくていいと言う。
 しかし、1)の時と違い、言っている内容とその態度は遠く隔たっている。
 こうあらねばならぬという予め用意されていたかのようなセリフと、その内容を信じてはいけないとでも言いたげな態度。
 苛立ちながらも、静かに一人にしてくれと告げる新之丞。
 つまり一人にしてくれるなと叫んでいる。
 額面どおり受け取らざるをえない加世はその場を退出し、残される新之丞。
 秀逸なのは、そこにオフで聞こえてくる徳平と加世の風呂が焚けたかだのどうのという、どうでもいいやりとり。
 それを聞いた新之丞は、茶碗を投げ捨てる。

3)刀の在処に託つけて憤りを爆発させる新之丞。

 1)〜3)を経ることではじめて、新之丞は失明を受容できる。
 失明の苦しみを描いているには違いないが、それは経験したものにしかわからない。ここではそれを、誰もが経験する理想と現実の乖離に苦しむ姿として描いている。そうすることで、失明の経験など持たない観客に、自己投影させ共感を引き出すことに成功している。
2008/08/19(Tue) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「修羅雪姫」(1973年 梶芽衣子主演版)
 ボルへスの『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』に「鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌まわしいものだ」と(いう「鏡と百科事典との結びつき」となる「寸言」が)ある。
 
 鏡に自らを映すようにして、復讐を託す子供、雪(梶芽衣子)を出産し死んでしまう母親。
 雪に託された復讐は、鏡のように映された復讐の像に過ぎず、その根を雪自身は持たない。
 あえて言うなら、復讐の為にこの世に生を受けたことへの復讐。

 その鏡のイメージは、本編中何度か変奏されることになる。
 まず竹村伴蔵(仲谷昇)を浜辺で殺す、波間に漂うその死体をわざわざ引き上げ、断崖絶壁まで運んでから、再度海へと投げ入れる雪。
 これは命を狙われた伴蔵を窮地からわざわざ助け、そして殺すという雪自身の行動とも呼応しているが、何よりも伴蔵の娘、小笛(中田喜子)が、売れない人形を同じ崖から海へと投げ入れるのと鏡合わせになっている。さらに小笛は、父親の借金の為に体を売っているわけだから、母親の復讐の為だけに存在する雪の鏡像に他ならない。親にコントロールされる親の鏡像としての中身のないふたり。小笛が人形を投げ入れるのは、それゆえ鏡像としての父親(あるいは人形のように空っぽの自分)を投げ入れるに等しい身振りだとは言えまいか。つまり自分を映す鏡を割ろうとすること。自分が自分の主だと告げること。
 だから鏡像を失った小笛が、もう1つの鏡像である雪を殺そう(割ろう)とするのは、当然の帰結なのだ。

 雪と足尾竜嶺(黒沢年男)は塚本儀四郎(岡田英次)を仕留めるが、それは儀四郎の鏡像、替え玉であった。当の本人は、マジックミラーを通してその一部始終を見ていた。それに気づいた雪と竜嶺は、ふたりを映す鏡(自らの鏡像)を割る。現れる竜嶺の鏡像である父親、儀四郎。自身の鏡像の向こうにいた父親という鏡像を追いつめ、雪の手によって父親と向かい合わせに串刺しにされる竜嶺。鏡を抱いて死ぬ。

 墓前に雪の姿を捉えるシーンが2度ある。
 1度目は、母親の墓前に額ずく雪。2度目は、死を偽装した塚本儀四郎の墓に斬り掛かる雪。
 この二つもまた交換可能な鏡像関係にある。
 つまり2度目の墓参は、儀四郎のではなく、子に復讐を託した母親の墓に対する憤りにもとることができるのだ。
 なぜ復讐しなければならないのか?という問いかけが雪の復讐行為そのものであり、その問いかけに答えは与えられない。
2008/08/18(Mon) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ダークナイト
ダークナイト

 (ネタバレあり)
 映画は冒頭、ピエロのマスクを手にしたジョーカー(ヒース・レジャー)を後ろ姿で登場させる。マスクに空いた両目の穴から、向こう側が透けて見える。
 マスクを外し現れるジョーカーの顔は、くずれかけの白いメイク。
 なぜ、ボロボロのメイクが魅力的なのだろうか?
 
 ジャック・ニコルソン演じるティム・バートン作品でのジョーカーは、薬品により漂白された白い顔そのものとして登場した。その顔/表情はジョーカーの邪悪さを表現している。
 一方、ヒース・レジャー演じるジョーカーのそれは、メイクでありマスクなのだ。
 しかも、そのメイク/マスクの向こうには何もない。何かを隠す為のメイク/マスクではない。だから、ボロボロでいいのだし、メイクの上からでもマスクを被る。

 口の傷跡もそうだ。その由来はそれを語って聞かせるごとに異なるように、オリジンをもたない。
 悪行の理由として納得のいく金は、それゆえに燃やされる。

 メイクの向こうに、傷跡の向こうに、悪行の向こうに、何もないことが恐怖なのだ。
 
 バットマン(クリスチャン・ベール)の正体が暴かれてはいけないのは、実はその為。善行の向こうに、何もないことを知られてはいけない。そこには正義があると、ジャック・ニコルソンの演じたジョーカーが悪の化身であったように、バットマンも正義の化身でなければならない。

 その向こうに何もないことを知っているハービー・デント(アーロン・エッカート)は、それゆえコインの絵柄をどちらも顔/表/正義にする。善行を行うのはそれが正しいからという同語反復。
 が、それは知られてはいけない。この秘密を知ったレイチェル・ドーズ(マギー・ギレンホール)と、それをあかしたデントは、ともにジョーカーの凶手にかかる。
 
 知られてはいけないことを知っているバットマンは、それゆえデントをwhite knightとするのであるし、同じく翻意したジョーカーも裏切り社員の口を封じようとし、それゆえ生き延びる。

 煤けたコインの裏表は、当然トゥーフェイスの左右の顔なのだが、生き延びたバットマンとジョーカーでもある。
 バットマンが表で、ジョーカーが裏ではない。どちらも表で(同語反復で)、ただそれが煤けているか否かの違い。
 だから裏であったジャック・ニコルソン演じるジョーカーと違って、表であるヒース・レジャー演じるジョーカーのメイクは煤けているのである。
 
 

 
 
 
 
2008/08/14(Thu) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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