撮影監督の映画批評

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『ハドソン川の奇跡』(クリント・イーストウッド)

(ネタバレあり)


有名な実話をエンターテイメントに昇華するには、事実を曲げない程度のアイディア(脚色)が必要で、本作でそれは、サレンバーガー機長(トム・ハンクス)に、判断が間違っていなかったのにもかかわらず、間違っていたかもしれないと思わせることである。つまりイーストウッドは、間違っていたかもしれないと思わせるだけでドラマになると看破したのだ。

これはミッドライフ・クライシス(中年の危機)を描いた映画、例えば『アメリカン・ビューティー』(サム・メンデス)のような話型に近い。
ジョセフ・キャンベルはミッドライフ・クライシスを「梯子を上まで登って、それが間違った壁にたてかけてあったと気づくようなもの」だと言っているのだが、まさにサリーはパイロットとして42年かけて登ってきた梯子が、間違った壁に掛けてあったのではと苦悩するのだ。
イーストウッドが巧いのは、何が起こったのかという回想を、サリーが妻に電話をし初めて間違っていたのかもしれないと口にする、そこから始めているところだ。平凡なストーリーテラーなら、何が起こったかを最初に見せてしまうだろう。しかしイーストウッドはそうしない。だから、観客も間違っていたのかもしれないという視点から、何が起こったのかを見ることになる。

名作『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ)で、主人公ジョージ(ジェームズ・スチュアート)は、すべてに絶望し、自分がいなければみんな幸せになっていた、生まれてこなければよかったと洩らす。それを聞いたジョージの守護天使は、彼が生まれてこなかった世界(パラレルワールド)に彼を連れていく。そこでジョージは自分がいないことでみんなが不幸になっているのを目の当たりにして気づく。自分は必要とされていたのだと。

イーストウッドは、サリーが機長でない世界(パラレルワールド)を、守護天使を登場させる代わりに、国家運輸安全委員会(NTSB)による公聴会でのフライトシュミレータで見せている。サリーがいなければ悲惨な事故になっていたのだ。

42年かけて登ってきた梯子の上の208秒で、間違った壁にたてかけてあったのかと、別の壁(パラレルワールド)があったのかと苦悩する。しかし、別の壁(ラガーディア空港か、テナーボロ空港に緊急着陸)では、その梯子は倒れてしまう。やはりそれは正しい壁だったのだと気づくストーリーに脚色されているのである。

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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

  1. 2016/09/27(火) 00:13:17|
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『シング・ストリート 未来へのうた』(ジョン・カーニー)

(ネタバレあり)

──自伝的な物語なのですか?
監督:自分自身を反映した作品を作りたかった。ただの音楽の物語にはしたくなかったんだ。映画では基本的に、僕が主人公の年頃にやりたかったけれどできなかった全てのことを映画の中で実現した願望充足の映画なんだ。

『シング・ストリート 未来へのうた』ジョン・カーニー監督インタビュー




”Drive It Like You Stole It”のMV撮影シーンで、コナー(フェルディア・ウォルシュ・ピーロ)は「やりたかったけれどできなかった全てのこと」を妄想する。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(ロバート・ゼメキス)でのプロムのシーンのような、そこにラフィナ(ルーシー・ボイントン)も現れて……しかし一方で、そこで撮影されたであろう、やりたかったことができなかった、ラフィナの現れないMV、つまり思うようにはいかない現実は、我々観客の目からは奪われている。
その理想と現実の距離があるから(しかもその一方の現実は観客が推しはかるしかないから)感動させられる。

そしてラスト近くのステージ。
”Drive It Like You Stole It”のMV撮影シーンで「やりたかったけれどできなかった」ことをここで、全てではないにしろ、妄想ではなく等身大の彼らに実現させている。妄想シーンが描いた理想とは異なり、家族も来ないし、校長も踊らない、それでもラフィナはやってくる。
ここでも理想と現実の距離があり(一方の理想である妄想シーンは観客が思い返すしかない)、しかも観客が察した”Drive It Like You Stole It”のMV撮影当時のしょぼい現実と、現在の理想に少し近づいた現実との距離があるから感動させられる。

監督のジョン・カーニーが「主人公の年頃にやりたかったけれどできなかった全てのことを映画の中で実現した」のは、”Drive It Like You Stole It”のMV撮影の妄想シーンにちがいない。監督にとっての個人的な「願望充足」はここで終わっている。しかしそこに如上の(観客に負荷を与える)距離を導入することで「自分自身を反映した作品」という個人的な願望を、普遍的な「願望充足」の物語に昇華させている。

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  1. 2016/07/22(金) 21:34:05|
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『エヴェレスト 神々の山嶺』(平山秀幸)

(ネタバレあり)

何かに取り憑かれてしまった人物を描いた映画は多々あって、例えば、海に取り憑かれた男を描いた『グラン・ブルー』(リュック・ベッソン)、宇宙に取り憑かれた男を描いた『ガタカ』(アンドリュー・ニコル)等がある。
山に取り憑かれた男を描いた原作の『神々の山嶺』(夢枕獏)を読んだときに思い出した映画がその二つだった。
 
上下巻にわたる長編小説を二時間程度の映画にするための取捨選択は容易ではないが、何かに取り憑かれてしまった男を描く際のテンプレートさえ押さえておけば、そこに描かれているドラマを取り逃すことはない。
実際、原作に描かれていたドラマも、『グラン・ブルー』『ガタカ』と同じテンプレートに則っている。

それはどのようなテンプレートか?

取り憑かれるものが山であろうが、海であろうが、宇宙であろうが、観客自身が今現在それらに取り憑かれていない以上、彼らに感情移入することもできないし、彼らがなぜそれらに惹かれるかすら、われわれ観客には理解できない。

であるから、何かに魅せられている人物を描くには、その人物を「見ることしかできない」別の登場人物が必要なのである。

それが『神々の山嶺』であれば、羽生丈二を「見ることしかできない」深町誠と岸涼子であるし、『グラン・ブルー』であれば、ジャック・マイヨール(ジャン=マルク・バール)を「見ることしかできない」エンゾ(ジャン・レノ)とジョアンナ(ロザンナ・アークエット)であり、『ガタカ』であれば、ヴィンセント(イーサン・ホーク)を「見ることしかできない」ジェローム(ジュード・ロウ)とアイリーン(ユマ・サーマン)である。

観客は登場人物の視点から、彼らが魅せられているもの(山、海、宇宙)を見ることはできるが、観客が登場人物と共有しているのは「見ることしかできない」という一点のみである。同じものを見ることはできるが、同じようには見ることができない。したがって観客が見る以上のものを登場人物が見ている、つまり魅せられているということを観客に見せるには、魅せられている主人公を見ることしかできない他の登場人物の視点が必要になるのである。

拙書『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』


二人の滑落をシャッターを切ることしかできない「見ることしかできない」深町の無力感で始まる物語は、マロリーのカメラを口実に登攀史上最大の謎を解くことができるかもしれない「見ることできる」という賢しらにとってかわる。そこで羽生丈二という天才クライマーを調べることになる深町だったが、その壮絶な人生に圧倒され、山に取り憑かれた羽生という男を「見ることしかできない」。しかし羽生のエベレスト南西壁冬季無酸素単独登頂計画を知ることになった深町は、それを撮ることができる「見ることできる」と羽生に食らいついていく。そして深町は生死の境をさまよい一度は諦めるのだが「おれを、撮れ」という羽生の言葉に「見ることできる」のだとシャッターをきる。

これが大まかに原作の物語であるが、さらに搔い摘めば、「見ることしかできない」という無力感から「見ることできる」という賢しらを経て「見ることできる」という気づきにいたるという成長譚としてみることができる。

「欲望とは存在欠如の換喩である」というラカンの顰みに倣って言えば、観客の欲望とは「見ることしかできない」ことの換喩である。

(略)すべての観客に共通し、かつ具体的なもの――それはつまり「見ることしかできない」ということである。
 主人公の置かれた状況と、観客の個々の事情との近接性が、共感の多寡を左右することに異存はない。しかしターゲットにする観客が多ければ多いほど最大公約数は下がり、つまりステレオタイプにならざるをえなく共感は難しい。そこで観客個人個人の事情ではなく、観客であることの事情にフォーカスすれば、具体的なまま、アクチュアルなまま、すべての個々人にぴたりと当てはめることができる。
 すべての観客は、今まさに客席に縛られ、スクリーンを見ることしかできない、ただただ受動的な存在である。主人公をそのような存在にするだけでいい。

拙書『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』


しかし映画『エヴェレスト神々の山嶺』では、深町(岡田准一)がそのように描かれない。「見ることしかできない」という受動性とは無縁の行動する人物として描かれる。「見ることしかできない」登場人物の視点を欠いたまま進む物語を、われわれ観客は冷めた目で客席から「見ることしかできない」。
そこには少なくとも如上のドラマはない。原作を持つ映画が、原作のドラマを再現する必要はないが、もし再現しようとして失敗したのなら、以上のようなことが原因なのだろう。
  1. 2016/05/15(日) 22:15:10|
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『レヴェナント 蘇えりし者』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)

Alexa 65に24mm(35mmセンサーで12mm相当)、Alexa M(35mmセンサー)に12mmのワイドレンズで、時にマットボックスがレオナルド・ディカプリオの顔にあたりそうになるくらい接近して撮影されたという長回しは、圧巻である。

'The Revenant': Inside the Film’s Cold, Wet, Dirty, Determined Production

被写体との距離が常に3feet以内という極端な接写での長回しは、大自然の中でのサバイバルを描くのにこそふさわしい。
キャメラが、ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)に寄り添えば寄り添うほど、彼を取り巻く大自然との距離が強調され、観客も共に疎外され、その大自然/距離に圧倒される。
ただワイドレンズの接写ということだけでなく、それが長回しであることで、キャメラは文字通り被写体を舐めるように移動し、背景の大自然はそのパララックスでダイナミックに変化する。

誰も見たことがない映像の語り口(ワイドレンズで被写体に限りなく接近した長回し)と語られる内容(大自然の中でのサバイバル)が見事に一致した映画である。が、しかしグラスが蘇えりし者となり、後半パラレルモンタージュで描かれるジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)との追いかけになるとやや様子が異なってくる。

大自然から疎外された人間を魅力的に捉えていたワイドレンズには、見るべき距離が被写体と背景の間にあった。被写体(グラス)と背景(自然)との葛藤がドラマだったのだ。
しかし、パラレルモンタージュで描かれる距離は、被写体と背景の間ではなく、被写体同士の間にあり、ワイドレンズで捉えられる大自然は、残念ながらただの背景として退いてしまう。そこでは被写体同士(グラスとフィッツジェラルド)の葛藤が見るべきドラマになるからだ。

背景が背景であるがままに表面に出てくる、とでも言えそうな長回しで捉えられたグラスvs自然に対し、パラレルモンタージュで捉えられるグラスvsフィッツジェラルドを取り囲む自然は、他の映画同様背景にすぎず、後半になって普通の映画になってしまった感は否めない。

とはいえ、今まで見たことのない映像それだけで、やはり見られるべき映画ではある。





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  1. 2016/04/27(水) 20:24:24|
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『ちはやふる 上の句』(小泉徳宏)

チームプレイを描く青春部活ものというのは、おおよそ物語構造が似通っていて、それだけに採り上げられる部活動が、その映画のカラーを決める。
男子シンクロ部『ウォーターボーイズ』やボート部『がんばっていきまっしょい』、俳句部『恋は五・七・五!』やロボット部『ロボコン』など、運動系、文科系に限らずマイナーなものが好まれるのは、伊丹十三的な着眼点のユニークさ、それ自体が売りになるからだ。
しかし一方、ある意味語り尽くされた感のあるこのジャンルで、物語/語り口で差別化/勝負することを逃げているとも言えなくない。つまり消極的な選択であって、どうしてもその部活動でなければ描けないものではないケースが散見される。

マイナーであればあるほどセンスがあるかのように勘違いした作品が、手を替え品を替え量産される中、競技かるた部をとりあげた『ちはやふる』は、マイナーであるからという理由ではなく、映画的な選択であるという理由で秀逸である。つまり積極的な選択であって、競技かるた部でなければ描けないものを描いている。
もちろん人気漫画原作『ちはやふる』の競技かるた部は、映画のためになされた選択ではない。しかし、他の部活動を描いた原作ではなく、競技かるた部を描いた『ちはやふる』という原作を選択したことが、あるいはこの映画化は映画になると判断したことが、すでに映画的なのである。
では、なぜ競技かるたが映画的なのか?

シネスコのフレームいっぱいにスローモーションで捉えられるにたるアクションだからである。
以下、その考察。

乱発され、いささか食傷気味ではあっても、スローモーションが映画的な表現であることは論を俟たない。





競技かるたは「畳の上の格闘技」とも形容されるように、札を払う一瞬のアクションは、他のスポーツが見せる一瞬のアクションに比肩する。それどころか映画的には、どのスポーツよりもスローモーションに適している。

1)札を払うアクションが、水平の動きである
映画というメディアは、横長のフレームを持つ以上、垂直方向の動きより水平方向の動きに親和性が高い。だから、ありえないと言われようが『ロッキー』のパンチは大振りでなければならないのだ。

とはいえ水平のアクションを持つスポーツは他にいくらでもあるではないかと言う人がいるかもしれない。

2)アクションと顔を同時に捉えることができる
ほとんどのスポーツが、その水平のアクションを中心にフレーミングすると、アクションに合わせ引いた画になってしまう為に顔にクロースアップできないか、あるいは逆にアクションに合わせ寄った画になってしまい顔がフレーミングできない。つまりアクションの瞬間のスローモーションは、アクションか、その瞬間の顔のクロースアップかの二者択一になってしまう。
しかし競技かるたのように顔の前を水平にアクションが横切れば、アクションも、その瞬間の顔も、それぞれベストなフレーミングで同時に捉えることができる。

では、ボクシングはどうか? 顔をクロースアップで捉えつつ、パンチも水平に繰り出されるではないか。ボクシングの他にも『ピンポン』(曽利文彦)がそうだ。

もちろんボクシングは映画が飽くことなく描くスポーツのひとつである。しかし映画に愛されるスポーツ、ボクシングにもできないことが競技かるたにはできる。 

3)全身もまた同時にフレーミングできてしまう
競技かるたの畳を這うように構えるその姿勢は、まるでシネマスコープの高さに合わせるかのようである。全身がフレーミングされ、かつフレームを横切るアクション、さらに顔のクロースアップを同時にとらえられるスポーツが他にあるだろうか?
腕のスイングであろうと全身を使わなければならないのは、ボクシングも競技かるたも同じである。競技かるたであれば、全身で札を払うそのアクションを、キャメラを引くことなく、1カットにおさめることができる。

以上のようなことから逆に、机くん(森永悠希)の肩に手をかける4人の手だけを見せ、顔を見せないという演出が効いてくる。

4)かるたの飛び散る様
スローモーションはしばしば爆破や着弾の一瞬を引き延ばし、飛び散るパーティクルを見せる。『ちはやふる』では、破片の代わりにかるたが飛び散る。
その登場自体がスローモーションのように引き延ばされた千早(広瀬すず)の屋上での初登場シーンもまた、スローモーション。ここでは桜の花びらが、かるたの代わりに飛び散っている。

5)静と動のコントラスト
動の中にインサートされるスローモーション(引き延ばされた動)ではなく、静に続くスローモーション(動)。これはジョン・ウー的なメキシカン・スタンドオフに続くスローモーションに近い。
一瞬のアクションの後、白目を剥いて倒れる広瀬すずは、メキシカン・スタンドオフというより、むしろ一瞬の居合斬りの後、納刀する座頭市の勝新太郎を彷彿させる。そもそも耳へのクロースアップ、「音になる前の音」を聴きわけ一瞬で雌雄を決するあたりが座頭市である。まぁ、勝新の座頭市では居合斬りにスローモーションは使っていなかったと思うが。





文系の部活にみえて運動系、横長のフレームに過不足なくおさめられるアクションと顔、スポーツの絶え間ないアクションではなく膠着の静から一撃の動、砕け散るパーティクル、映画がスローモーションで捉えてきた多くの要素を兼ね備えたアクションが競技かるたにあったのだ。

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  1. 2016/04/18(月) 20:58:37|
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著書

プロフィール

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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