撮影監督の映画批評

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「いつのまにか」の描き方

本日、2016年2月3日の17時から2016年2月7日までの5日間、拙書「いつのまにか」の描き方が無料でダウンロードできます。この機会に是非読んでみてください。
Kindle端末がなくても、PC、Mac、スマホ、タブレット用の Kindle 無料アプリで読むことができます。
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  1. 2016/02/03(水) 07:40:37|
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「時を超える青春の歌 作詞家・松本隆の45年」

SONGSスペシャル「時を超える青春の歌 作詞家・松本隆の45年」という番組を見た。

そこで松田聖子の「瞳はダイヤモンド」(作詞: 松本隆 、作曲: 呉田軽穂、編曲: 松任谷正隆)がかかっていたのだが、今日のこの時までその歌詞「いつ過去形に変ったの?」を「いつか固形に変ったの?」と勘違いして記憶していたことに気づいてしまった。
というか、歌詞をそこまで気にしていなかったのだと思う。とにかく「過去形」という分節より「いつか」という分節でイメージしていたのだろう。

歌詞のなかで過去形に変ったのは、「愛してたって言わないで…」と出だしにあるとおり愛なのであるが、私にとってはその瞬間「固形」が「過去形」に変ったのである。
そして「いつ過去形に変ったの?」といわれれば、番組を見ていて気づいてしまったその瞬間なのだが、もちろんその歌詞はつねにすでに「過去形」であって「固形」であったためしは一度もないのだ。
振り返って気づいたときには、いつのまにかもうすでに過去形なのである。

番組の中で松田聖子初の失恋ソングだと言われていたが、意図して恋に落ちることができないように、意図して心が離れることもない。恋に落ちるのも、失恋するのも、つねにすでになされたあとに振り返って「いつ過去形に変ったの?」と問う他できないのである。

「いつ過去形に変ったの?」というこの距離感がドラマであるし、映画もまたそれを描かなければならない。と、無理矢理映画にこじつけて終わりにする。
  1. 2015/10/31(土) 02:39:05|
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「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析 番外編#1

著書『「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析』に収録したかったのだが、動画の引用が必須であったため、何回かにわけて、ここで番外編として解説していきたい。

もう何年になるだろうか、大学と専門学校で撮影の授業を受け持っている。その導入として学生に「ピストル」と「人の横顔」と「馬」の画を描いてもらうのが恒例だ。別に彼らの画力を問うわけではないし、添削するわけでもない。ちょっとしたクイズのようなものである。これを読んでいるあなたも試しに描いてみてはどうだろう。

さて、それらは左右どちらを向いているだろうか。そのほとんどが左向きだと思う。
もちろんその時々で多少のばらつきはあるが、圧倒的に左向きの画が多い。大学では毎年100人以上の生徒が聴講しているので、その差は歴然である。
では、画家が描く肖像画はどうか。面白い統計がある。自画像では右向きが多く、他人、特に女性の肖像では左向きが圧倒的になる。レンブラントに限って言えば、自画像57点中、右向きが48点、左向きが9点であり、女性の肖像(被親戚)66点中、右向きが14点、左向きが52点だという。ここから導き出されるのは、自分に近いものは右向き、自分から遠いものは左向きに描かれるという傾向である。
また複数の人物が描かれる場合、右側に身分の高い人物を左向きに、左側に身分の低い人物を右向きに、配置する傾向があると言われている。これはテレビのゲストとインタビュアーの関係にも当てはまり、ゲストは右側左向き、インタビュアーは左側右向きに配置される。もちろん例外は多々あって、特に番組ホストの名前を冠したライブトークショーなどは、番組ホストが右側左向き、ゲストが左側右向きで、通常のケースとは逆になる。
(参考 鈴木武『街と都市の空間配置 -左右の位置の意味一』

自分から遠いもの身分の高いもの、つまり自分に相対するものを右側左向きに配置する傾向があるということ。この伝でいうと、番組ホストが右側左向きに位置するのは、ゲストよりもゲストに相対するホストのリアクションを見たい/見せたいのだと解釈できる。

と、とりあえずこのような傾向があることを頭に入れてもらい、次に「教室の真ん中より右側に座っている人は手をあげてください」と唐突に訊ねる。すると、生徒たちは一様に手をあげるべきか否か戸惑い顔になる。もちろん私の言う右側が、私から見て右側なのか、彼らから見て右側なのかが判然としないからだ。
右だの左だのという指示は、話者と聞き手が等方向を向いていない限り、そこに誤解が生じてしまう。そのような混乱を避けるため撮影現場では、キャメラから見て右を上手と呼び、左を下手と呼ぶことになっている。これは客席から見て舞台の右を上手、左を下手と呼ぶ演劇の慣習に由来するものである。

別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ』で著者は、「目に見えない空間の癖」のようなものが舞台には存在し、「舞台には上手から下手に風がゆるやかに吹いている」と述べている。これはそのまま映像にも当てはまる。

走るだけの人物を、いろいろなサイズで撮影したカットをそろえて、動きの方向を統一したものと、カットごとに方向を変えたもののふたつを見比べる実験です。フィルムの長さは両方とも同じにします。
これを映写して見比べると、同一方向の動きにまとめたフィルムのほうが、あきらかに三分の一ほど短く感じられたものです。
次に、右から左に方向が統一されたもののほうが、左から右のものより短く感じます。そして、方向性を逆に取り混ぜたものが、一番長く感じるのです。
富野 由悠季『映像の原則―ビギナーからプロまでのコンテ主義』



と、このように舞台であろうがスクリーンであろうが、上手から下手に風が吹いていて、観客には追い風になる上手から下手の動き(順路)の方が、向かい風になる下手から上手への動き(逆路)よりも速く感じられると結論づけられる。

『スーパーマリオブラザーズ』に代表されるような横スクロール型のゲームでは、プレイヤーキャラクターのほとんどが向かい風(逆路)の方向性、つまり下手から上手に動く。ゲームという性格上、敵に立ち向かいクリアしていくわけだから、向かい風がふさわしいだろうし、プレイヤーキャラクターは、まさに自分に近いものであるわけで、自画像に右向きが多いように上手向きであっていい。上手に相対する敵キャラクターは、プレイヤーにとってまさにゲストである。

ここでようやく映画の話になる。まずは『オールド・ボーイ』(パク・チャヌク )。主人公のオ・デス(チェ・ミンシク)がハンマー片手に単身殴り込みにいくシーンを見てみよう。動画にはスパイク・リーによるリメイクの同シーンが収められている。

oldboy.png




オ・デスを横移動でフォーローするこのショットは、もちろんセットでなければ(壁を壊さない限り)撮影できない。つまりセットであるのだから、進行方向は上下(カミシモ)でも下上(シモカミ)でもどちらでも可能であるが、下手から上手への向かい風(逆路)の方向が採用されている。
これは横スクロール型ゲームの理屈と同じと考えていいし、むしろ横スクロール型ゲームのイメージで撮影されたシーンではないだろうか。
そのリメイクであるスパイク・リー版では、その逆、上下(カミシモ)の追い風(順路)で撮影されている。役者もセットも全く違うので、ニュアンスの違いを即方向の違いにつなげるのは無理があるが、参考にはなると思う。


次に『汚れた血』(レオス・カラックス)の名シーン。

汚れた血



これも下上(シモカミ)の向かい風(逆路)で撮られている。もがくように疾走し、ときにフレームからはみ出そうになるこの動きには向かい風がふさわしい。


そして『フランシス・ハ』(ノア・バームバック)。

フランシス・ハ



この『汚れた血』のオマージュは、オリジナルと進行方向が逆である。ここにはもはやアレックス(ドニ・ラヴァン)の身悶えはない。描かれるのは、上下(カミシモ)の方向、文字通り追い風に乗って走るフランシス(グレタ・ガーウィグ)の軽やかさである。


次に『時をかける少女』(細田守)のケース。踏切のある商店街の坂道が、どのように描かれているか見てみよう。

時をかける少女
時をかける少女2


ご覧のとおり、坂上が上手、坂下が下手で描かれている。上るのに抵抗がある上手への動きは、向かい風(逆路)。勢い良く転がり落ちる下手への移動は、追い風(順路)。
アニメであるからセット撮影の『オールド・ボーイ』と同じく実際の環境に左右されることはない。左右になにを配置してもいい、左右どちらに動かしてもいいときに、上記の傾向を知っていれば迷うことはない。


『いま、会いにゆきます』(土井裕泰)から

fig1.png
117065a.jpg

fig2.png


上が、巧(中村獅童)がオフィスに向かう朝の描写。下が、帰宅する同じ日の午後の描写。どちらも同じ橋の上で、登下校する女子学生とすれ違う。
行きは、女子学生に追い抜かれ、帰りは、雨が降るとわかって高揚する巧が逆に追い抜くという演出はいい。
しかし、その撮り方がよくない。どちらも上下(カミシモ)の方向で描かれているので、日替って翌日の朝の光景かと観客が混乱してしまう。もちろん程なくそうでないとわかるのだが、この混乱は観客にとって全くのノイズでしかなく、ない方がいい。
ではなぜそのようなことになったかと言えば、真ん中のイラストを見てもらえばわかるように、キャメラが動線というイマジナリーラインを越えて上手下手を反転させてしまったからだ。
キャメラカーで並走して撮影しているため、同じ車線を逆走できず、やむなくこのようになったのかもしれない。そうだとしても、そうまでして撮った演出が、ノイズに掻き消されて観客に届かないようでは本末顛倒である。


最期に『スノーピアサー』(ポン・ジュノ )。



台詞に頼らず主人公の選択をどう見せるか?その答えがこのビデオエッセイのタイトル”Left or Right”である。
『スノーピアサー』では、下手(Left )が列車後方、上手(Right)が列車前方で、主人公は下手から上手(逆路)に進んでいく。そして主人公が下す全ての決断は、上手か下手かの選択として表現されている。


今回は、主に人物の動きについて解説した。次回は、人物の配置についてふれたいと思う。


  1. 2015/08/26(水) 17:19:16|
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半沢直樹

半沢直樹演じる堺雅人のあの張り付いたような笑顔がすばらしい。脇を固める俳優陣の芝居がかった芝居がまたすばらしい。木の葉は森に隠せ、死体は死体の山に隠せ、というが、記号的なわかりやすい芝居の山に、そこに何かあると思わせる演出がなされている。視聴者にそう思わせれば、しめたものだ。
ストーリーテリングと演出の観点から順を追ってみていこう。

◯第一話
冒頭の面接のシーンで半沢は、父親の会社を見捨てたのが地元の地銀で、救ってくれたのが御行だと(この時点ではそうとわからないが)嘘をつく。
続くフラッシュフォワード(融資事故)の後、その少し前からストーリーが語られる。
まず融資を願い出る町工場の社長に半沢は、すべてオートメーション化すれば考えてもいいと鎌をかける。であればと固辞する社長に、半沢は例の笑顔を見せる。
本来ここで見せられるべきは、半沢の隠された一面の笑顔である。にもかかわらず、その笑顔ですら何かを隠しているかのように張り付いている。そこに何かあると思わせる笑み。
そして5億融資の話が、キナ臭いながらも、何もできずに進んでいく。サラリーマンとして従うことしかできないという半沢の受動性が、視聴者の見ることしかできないという受動性と結託して、視聴者の感情移入を促す。

フラッシュバックする父親の土下座。
テレビドラマなので他に説明的なフラッシュバックは頻出するのだが、この土下座のフラッシュバックはちがう。そもそもフラッシュバック=回想は、(当の半沢にも)思い出す/見ることしかできないものである。しかも、その回想自体が、土下座する父親を見ることしかできなかったという少年時代の記憶。つまり「見ることしかできなかった当時の記憶を、見ることしかできない」という二重の受動性。それがその都度、執拗なくらいに反復されていく。
このようにドラマ内世界を見ることしかできないという一歩引きこもった視点を主人公に与え、視聴者のそれと共有させることで、感情移入を促す。
一方で、この半沢の受動性は、フラストレーションとして視聴者の中に蓄積されていき、それゆえ半沢が「X倍返し」することで視聴者は溜飲を下げる。これは半沢に感情移入をし終えた視聴者が、偽の能動性を半沢に仮託して実現する。

全エピソードを通して大和田(香川照之)への復讐が描かれ、エピソード毎に小さなカタルシスがあるという構造。
第一話のそれは、聞き取り調査になるのだが、半沢は相手に自己否定させ失語症に陥らせる。相手の放った言葉で相手をやりこめることほど、痛快なことはない。
その直後に竹下(赤井英和)が電話で、冒頭の町工場の社長から話を聞いたと告げ、協力を申し出る。この伏線回収と畳み込みが見事。
これは第三話での裁量臨店でも同じで、エキサイティングなシーン(倍返し)の直後に、その回の冒頭で描かれた伏線(人情話)が回収される。ともすればクサくなってしまうようなご都合主義の顛末も、エキサイティングなシーンの直後に持ってこられると、それなりに感動的になる。

◯第二話
第一話が主人公と視聴者だけが知っていることを共有する感情移入の回だとすれば、第二話は視聴者だけが知りうる(playing God)ことでサスペンスの回になっている。

5千万をめぐっての国税との二重の追いかけ。
ヒッチコックは自身が二重の追いかけ(例えば、警察に追われる主人公が真犯人を追う)にこだわる理由を、観客の同情が追う側より、どちらかといえば追われる側に集まりやすいからだと言っている。
5千万の行方を追いつつ、国税から追われる半沢。視聴者が誰に感情移入すればいいかに迷いはない。
ちなみに部下を引き連れて、いつも一足遅れになり悔しがる国税の様は、「ミッドナイトラン」のFBI捜査官を彷彿させる。

第二話のカタルシスは、板橋(岡田浩暉)に渡した資料が実は偽物だと半沢が告げるところで訪れる。
騙していると思っていた人物が、実は騙されていたという構造は、第一話(聞き取り調査)での、相手を論破したはずの当の理屈で、自分を否定していたというそれと同じである。
つまりどちらも、箱の外側にいると信じて疑わない人物に、実は箱の内側にいるのだと気づかせる面白さなのだ。
メタ視点からの引きずり落とし。倍返し!痛快である。
しかし、誰がその箱の内側の人物を笑うことができるのか?箱の外側にいる人間?
半沢が倍返しした直後、竹下がこう言う。
「あんたのことようわからんようになった。ほんまはものごっつう悪い奴ちゃうかなと思って....」
復讐する時、人間はその仇敵と同列である(ベーコン)とするなら、竹下は、自分は箱の外側にいると信じて疑わない半沢が、箱の内側に堕ちた仇敵を笑っているのをかいま見たのではないか。
竹下にそういわれた半沢は一人、無心に竹刀をふる。
これらの描写が、ただ痛快なだけではない何かを視聴者に感得させる。
(ちなみに二話のラストは、「羊たちの沈黙」で有名なミスリードさせる平行モンタージュ)

◯第五話
半沢と花(上戸彩)との会話
「父親を殺したのも銀行なら、助けてくれたのも銀行」「復讐?それもある...」「銀行を変えたい」
これらは半沢が用意した言い訳にすぎないはずだった。復讐が目的であったはずだった。
しかし半沢自身がいつのまにかこの言い訳を信じ始めているのに、視聴者は気づく。もちろん半沢自身は気づいていないし、気づいたとしても否定するだろう。

半沢の浅野支店長(石丸幹二)への復讐を止めるのは、浅野の妻のすべてを知悉しているかのような視線。
竹下はその半沢をやっぱりいい人だと言う。(ダブルスタンダード)
当たる占い、栄転/出向(ダブルスタンダード)

◯第六話〜(東京編)
大和田に宣戦布告する半沢が、土下座をかける。「そんなことができるものなら、やってみたまえ」
これらは全く大阪編の浅野に対するものと同じである。(基本的なパターンは他もほぼ同じ)
その中で大和田がこう言う。
「ミクロとマクロの違いであって、同じことを言っている」(ダブルスタンダード)
つまり東京編では、基本フォーマットは大阪編と同じくして、半沢の葛藤(仇敵と同列ではないのか)が深化して描かれる。
もうひとつ大きく異なるのは近藤(滝藤賢一)がよりフィーチャーされていることである。大阪編での彼は、半沢もまかり間違えばそうなったかもしれないというコントラストづけの為の役回りだったが、東京編では、半沢に感化され、半沢の似姿、つまりは視聴者の似姿として活躍する。
しかし、それが実に危なっかしい。張り切れば張り切るほど、大阪編での彼を知っている視聴者は本当に大丈夫かとハラハラする。(サスペンス)
その近藤の裏切り。それを許す半沢。
「人の善意は信じますが、やられたらやり返す。倍返しだ!」という半沢の「しっぺ返し(Tit-For-Tat)戦略」が報復連鎖に陥らないようにするには、ときとして許すことが必要である。
「結局俺は大和田と同じ穴のムジナかもしれない」
「おまえは全然違うよ」大和田と違って半沢は人を切り捨てないと言う渡真利(及川光博)

ラスト、大和田への100倍返しとなり、半沢は土下座を要求する。
かつて「土下座はパフォーマンスにすぎない。いくらでもしてやる」と言ったはずの大和田は、その土下座がなかなかできない。パフォーマンスにすぎないものだからこそ(二人にとって)意味があるのだ。(ダブルスタンダード)
報復感情が満足されるには、報復されるものがその理由を知っている必要があり、ここで大和田がパフォーマンスにすぎないはずの土下座を必死に拒むのは、それを知っているからに他ならない。(であるから逆に当初の大和田は、すっかり忘れている必要があった。それゆえに半沢と視聴者の報復感情に火がついたのだから)
一方で、執拗に、しかし、絞り出すように、土下座を強要する半沢は、そのことで仇敵と同列になることを知っている。かつて自分が否定したものに、今、自ら成り下がろうとしている。そうと知っていても止めることができない。
二人は対峙しながらも、抗っているのはそれぞれ己自身なのだ。









テーマ:半沢直樹 - ジャンル:テレビ・ラジオ

  1. 2013/10/01(火) 00:38:10|
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「お家をさがそう」(サム・メンデス)

(ネタバレあり)
 好感がもてるのは、バート(ジョン・クラシンスキー)とヴェローナ(マーヤ・ルドルフ)に子供ができるところから物語ははじまるというのに、ラストに至っても子供の誕生を描かない点だ。映画において出産シーンは、登場人物が死ぬシーンに劣らず飽かず描かれる。なぜならそれだけで十分ドラマチックであるのだし、アナロジカルな使用にも適しているからである。それだけに安易な使用が跡を絶たない。
 妊娠を描きながら、出産を描かず、ラストに描かれるのが、2人が実家のドアを開けるシーンである。キャメラは家の中で2人をとらえる。その後ろに両開きのドアがあって、その明かり取り窓から水面がみえる。バートがその立て付けのわるいドアを片側開けると、そこから(エドワード・ホッパーの「海辺の部屋」のように)水面がはっきりとみえた。しかしまだ半分だ。バートはもう片側のドアも開けようとする。するとあろうことかキャメラは外に出て、外からもう片側のこれまた立て付けのわるいドアを開けようとするバートをとらえる。なぜカットを割ったのか?そのまま割らず、2人の目の前に広がる水面を1カットでとらえるべきではないのか。しかし早計であったと恥じることになる。外からとらえられたカットは、バートが開けようとする片側のドアで、その奥にいるヴェローナを隠している。そしてバートが立て付けのわるいドアを開けてみえるのは、一面の水面ではなく、矩形のフレームに枠取られた夫婦なのだ。われわれがみるべきは、水面ではなく、家の中の夫婦なのだ。慎ましくもすばらしい。
  1. 2011/04/07(木) 22:56:22|
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著書

プロフィール

中澤正行

Author:中澤正行
撮影監督

主な作品
2006「天使の卵」
同年 第50回三浦賞受賞
2008「あの空をおぼえてる」

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