韓国ドラマ「ラブストーリー・イン・ハーバード」に託つけて、恋愛ドラマ必須の演出について。
「ラブストーリー・イン・ハーバード」は、全18話を通してキム・ヒョヌ(キム・レウォン)とイ・スイン(キム・テヒ)の相思相愛ぶりを描く。もちろんヒョヌのライバル、ホン・ジョンミン(イ・ジョンジン)などが周りを彩るが、例えば「バリでの出来事」のように二人の男に揺れる一人の女ということにはならない。ただ横恋慕するだけで、ヒョヌもスインもお互いのことしか見えない。
では、二人の行く手を阻むのは、外的な障害でしかないのだろうか?
もし、そのように描かれていたとしたら、どれだけ退屈なものになったろう。
口ではそう言うが、私はあなたの目に宿るものを見逃さない、なぜならあなたを愛しているから。
口にせずとも、私にはあなたのことがわかる、なぜなら愛しているから。
愛し合っていても、お互いを知り尽くすことはできない。
にもかかわらず、その空虚に耐えることができない、なぜならそれが愛するということだから。
ありもしない相手の底意を、愛するが故に知りえたのだと捏造し、その空虚を埋めようとする、なぜなら愛しているから。
これは愛するが故に相手のことを想って身を引くという恋愛ドラマにおける黄金律を説明している。相思相愛は決してスタティックな対称性におさまるのではない。外側からの妨害だけでなく、内側からも崩壊するのだ、愛し合うが故に。
では、この非対称な眼差しをどのように演出するか?
相思相愛の見つめ合う二人をカットバック(対称性)で捉えても、そこに孕まれる非対称な眼差しを顕在化することはできない。
最も容易なのは、第三項を導入することである。第三項は例えばジョンミンであっても、何か景色であっても何でもいい。相手がその第三項を見るのを一方的に見つめさせればよい。が、それはいつ相手に見返されてもおかしくない束の間の眼差しであり、そこには相手が第三項を見る眼差しもあるのだから、見られずに見るという眼差しの非対称性だけを際立てるのは難しい。
「ラブストーリー・イン・ハーバード」に限ったことではないが、恋愛ドラマ(にも限らないが)に頻出する黄金パターンがある。
二人のうちのどちらかを眠らせるのがそれだ。
「ラブストーリー・イン・ハーバード」では、ヒョヌもスインも本当に良く眠る。もちろん二人とも寝ているシーンだけを見せられても視聴者は困るだけなので、どちらかは起きているのだが。いつの間にか寝てしまうだとか、一人眠れず起き抜けるだとか、先に目覚めてしまうだとか。
眠っている相手の眼差しは死んでいる。見られることなく見る非対称性は、透明な二人の対称性を曇らせる契機となる。
どれだけ愛し合っていても、人は同時に眠ることもできず、同時に目覚めることもできない。
それは、人は同時に死ぬことができないこと(同時に生まれたわけでもないこと)と相同的である。
「ラブストーリー・イン・ハーバード」は、全18話を通してキム・ヒョヌ(キム・レウォン)とイ・スイン(キム・テヒ)の相思相愛ぶりを描く。もちろんヒョヌのライバル、ホン・ジョンミン(イ・ジョンジン)などが周りを彩るが、例えば「バリでの出来事」のように二人の男に揺れる一人の女ということにはならない。ただ横恋慕するだけで、ヒョヌもスインもお互いのことしか見えない。
では、二人の行く手を阻むのは、外的な障害でしかないのだろうか?
もし、そのように描かれていたとしたら、どれだけ退屈なものになったろう。
口ではそう言うが、私はあなたの目に宿るものを見逃さない、なぜならあなたを愛しているから。
口にせずとも、私にはあなたのことがわかる、なぜなら愛しているから。
愛し合っていても、お互いを知り尽くすことはできない。
にもかかわらず、その空虚に耐えることができない、なぜならそれが愛するということだから。
ありもしない相手の底意を、愛するが故に知りえたのだと捏造し、その空虚を埋めようとする、なぜなら愛しているから。
これは愛するが故に相手のことを想って身を引くという恋愛ドラマにおける黄金律を説明している。相思相愛は決してスタティックな対称性におさまるのではない。外側からの妨害だけでなく、内側からも崩壊するのだ、愛し合うが故に。
では、この非対称な眼差しをどのように演出するか?
相思相愛の見つめ合う二人をカットバック(対称性)で捉えても、そこに孕まれる非対称な眼差しを顕在化することはできない。
最も容易なのは、第三項を導入することである。第三項は例えばジョンミンであっても、何か景色であっても何でもいい。相手がその第三項を見るのを一方的に見つめさせればよい。が、それはいつ相手に見返されてもおかしくない束の間の眼差しであり、そこには相手が第三項を見る眼差しもあるのだから、見られずに見るという眼差しの非対称性だけを際立てるのは難しい。
「ラブストーリー・イン・ハーバード」に限ったことではないが、恋愛ドラマ(にも限らないが)に頻出する黄金パターンがある。
二人のうちのどちらかを眠らせるのがそれだ。
「ラブストーリー・イン・ハーバード」では、ヒョヌもスインも本当に良く眠る。もちろん二人とも寝ているシーンだけを見せられても視聴者は困るだけなので、どちらかは起きているのだが。いつの間にか寝てしまうだとか、一人眠れず起き抜けるだとか、先に目覚めてしまうだとか。
眠っている相手の眼差しは死んでいる。見られることなく見る非対称性は、透明な二人の対称性を曇らせる契機となる。
どれだけ愛し合っていても、人は同時に眠ることもできず、同時に目覚めることもできない。
それは、人は同時に死ぬことができないこと(同時に生まれたわけでもないこと)と相同的である。
映画ではない上に今更の感もあるが、当時「バリラバー」「バリ廃人」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した韓国ドラマ「バリでの出来事」について。
一人の女、ヨンジュ(パク・イェジン)を巡る二人の男、ジェミン(チョ・インソン)とイヌク(ソ・ジソプ)に、もう一人の女、スジョン(ハ・ジウォン)が加わり、ヨンジュを頂点としたラブトライアングルが、底辺はそのまま、頂点をスジョンにシフトするというストーリー。
ラブトライアングルを描くドラマが構成する各シーンは、次の組み合わせから成る。
1)各頂点のどれか
2)どれか一辺
3)三角形全て
このドラマの視聴者はどこにいるのか?
3)のトライアングルを見るように、外側から距離をもって見ていたのであろうか?
とすれば「バリラバー」「バリ廃人」などという熱狂的ファンは出てこないはず。
であれば、1)の誰か一人に感情移入して見ているのだろうか?
それもどうも違うようだ。韓国ではネット上でジェミン派、イヌク派の論争が湧き起こったそうである。つまり誰か一人の主人公に感情移入させる構造でもない。
残るは2)になるが、視聴者はそこにもいない。
では、どこに?
視聴者は2)で排除されているもう一人とともにそこで、2)の二人を見ているのだ。
「バリでの出来事」に特徴的なのは、次のような描写である。
二人が部屋にいる。そこでのやりとりは当然そこにいないもう一人に関係してくる。にもかかわらず、そのもう一人はそこにいることができない。この無力感は、視聴者の受動性と手を結ぶ。その二人が部屋を出る。するとそこに、そのもう一人がいて状況を瞬時に察する。その察した内容から行動を起こす。ここで視聴者の偽の能動性が満足させられる。
そして、そのもう一人の行動は新たな二人の状況をつくり、今度はそこで排除される新たなもう一人とともに視聴者はその状況を見ることになる。
以下延々とそれが繰り返され、その都度視聴者は不在の人物の視点に立つが、その人物が登場するや、今度はそこからはじかれた人物の視点に立つ。この視点のスパイラルが「バリ廃人」を生み出したのだ。
なぜスジョンは、ヨンジュから頂点の座を奪うことができたか?
どのように見られるかの効果を知悉している最初のトライアングルの各頂点は、それゆえわかりやすい。例えば相手の嫉妬を引き出す為に恋人のフリをするのは、それがフリである為にかえって、その意図が透けて見える。
そこに、何を考えているのか視聴者にもわからないスジョンが登場する。彼女の行動は何かを隠しているようにも見え、が他の登場人物と異なりそれで何を得ようとしているのかわからない。彼女が何かを隠しているとしたら、隠しているものは何もないということを隠しているのだが、それゆえ隠しているものが見え透いているヨンジュは頂点の座を追われることになるのだ。
ジェミンとイヌクのヨンジュに対する見かけにすぎなかったはずの斥力が、スジョンに対する引力に変わるのは、スジョンを頂点とするトライアングルでは見かけこそが全てになるからである。
一人の女、ヨンジュ(パク・イェジン)を巡る二人の男、ジェミン(チョ・インソン)とイヌク(ソ・ジソプ)に、もう一人の女、スジョン(ハ・ジウォン)が加わり、ヨンジュを頂点としたラブトライアングルが、底辺はそのまま、頂点をスジョンにシフトするというストーリー。
ラブトライアングルを描くドラマが構成する各シーンは、次の組み合わせから成る。
1)各頂点のどれか
2)どれか一辺
3)三角形全て
このドラマの視聴者はどこにいるのか?
3)のトライアングルを見るように、外側から距離をもって見ていたのであろうか?
とすれば「バリラバー」「バリ廃人」などという熱狂的ファンは出てこないはず。
であれば、1)の誰か一人に感情移入して見ているのだろうか?
それもどうも違うようだ。韓国ではネット上でジェミン派、イヌク派の論争が湧き起こったそうである。つまり誰か一人の主人公に感情移入させる構造でもない。
残るは2)になるが、視聴者はそこにもいない。
では、どこに?
視聴者は2)で排除されているもう一人とともにそこで、2)の二人を見ているのだ。
「バリでの出来事」に特徴的なのは、次のような描写である。
二人が部屋にいる。そこでのやりとりは当然そこにいないもう一人に関係してくる。にもかかわらず、そのもう一人はそこにいることができない。この無力感は、視聴者の受動性と手を結ぶ。その二人が部屋を出る。するとそこに、そのもう一人がいて状況を瞬時に察する。その察した内容から行動を起こす。ここで視聴者の偽の能動性が満足させられる。
そして、そのもう一人の行動は新たな二人の状況をつくり、今度はそこで排除される新たなもう一人とともに視聴者はその状況を見ることになる。
以下延々とそれが繰り返され、その都度視聴者は不在の人物の視点に立つが、その人物が登場するや、今度はそこからはじかれた人物の視点に立つ。この視点のスパイラルが「バリ廃人」を生み出したのだ。
なぜスジョンは、ヨンジュから頂点の座を奪うことができたか?
どのように見られるかの効果を知悉している最初のトライアングルの各頂点は、それゆえわかりやすい。例えば相手の嫉妬を引き出す為に恋人のフリをするのは、それがフリである為にかえって、その意図が透けて見える。
そこに、何を考えているのか視聴者にもわからないスジョンが登場する。彼女の行動は何かを隠しているようにも見え、が他の登場人物と異なりそれで何を得ようとしているのかわからない。彼女が何かを隠しているとしたら、隠しているものは何もないということを隠しているのだが、それゆえ隠しているものが見え透いているヨンジュは頂点の座を追われることになるのだ。
ジェミンとイヌクのヨンジュに対する見かけにすぎなかったはずの斥力が、スジョンに対する引力に変わるのは、スジョンを頂点とするトライアングルでは見かけこそが全てになるからである。
「HOT FUZZ ホットファズ-俺たちスーパーポリスメン!-」はもちろんのこと、「ダークナイト」の銀行強盗のシーンやジョーカーのカリスマからも、「ハートブルー」が髣髴としてよみがえった。
ボーディ(パトリック・スウェイジ)のライディングを見つめるジョニー・ユタ(キアヌ・リーヴス)、そのジョニーにタイラー(ロリ・ペティ)が説明する。ボーディは、究極の波の探求者だと。
映画は、究極の波を求めるボーディに魅せられるジョニーを媒介にして、観客を魅惑する。
人は何かに魅せられている人に魅せられるものだが、映画は何かに魅せられている人に魅せられている人で魅惑する。
銀行強盗(陸)、サーフィン(海)、スカイダイビング(空)を司る神、ボーディ。
哲学を語るボーディを見つめるジョニーの目、付き合いきれないとその場を立ち去るタイラー。タイラーのように魅せられることのない人物を配することで、ジョニーがボーディに選ばれたように、観客も映画に選ばれているという気にさせられる。だから、タイラーがジョニーに彼らのようにはならないでという時にはすでに、観客は自らに言われているかのような錯覚を抱くにいたっている。
マインドコントロールされた観客と、ブレインウォッシュされたジョニー。
ボーディ(パトリック・スウェイジ)のライディングを見つめるジョニー・ユタ(キアヌ・リーヴス)、そのジョニーにタイラー(ロリ・ペティ)が説明する。ボーディは、究極の波の探求者だと。
映画は、究極の波を求めるボーディに魅せられるジョニーを媒介にして、観客を魅惑する。
人は何かに魅せられている人に魅せられるものだが、映画は何かに魅せられている人に魅せられている人で魅惑する。
銀行強盗(陸)、サーフィン(海)、スカイダイビング(空)を司る神、ボーディ。
哲学を語るボーディを見つめるジョニーの目、付き合いきれないとその場を立ち去るタイラー。タイラーのように魅せられることのない人物を配することで、ジョニーがボーディに選ばれたように、観客も映画に選ばれているという気にさせられる。だから、タイラーがジョニーに彼らのようにはならないでという時にはすでに、観客は自らに言われているかのような錯覚を抱くにいたっている。
マインドコントロールされた観客と、ブレインウォッシュされたジョニー。

(ネタバレあり)
公式サイトのインタビューで、脚本のポール・ラバティはタイトル「この自由な世界で(原題 It's a Free World...)」について次のように言っている。
英語ではこんな言い回しがある。例えば友達との会話の中で、「私は〜をする」と言うと、友達がこう答える、「それはするべきじゃないと思うけど、ここは自由な世界だから好きにすれば(But it’s a free world, do what you want.)」という具合に。あたかも人がとる行動は、何にも影響を及ぼさないかのようだ。だけど、僕たちが映画のなかで見せようとしているのは、自身の行動には何かしらの結果がつきまとうということなんだ。
つまり、無関心/無関係でいる言い訳として。
だから映画は、アンジー(キルストン・ウェアリング)がどのようにして労働許可を持たない移民労働者に対して無関心/無関係であることをやめるかを描く。
だがアンジーにとって彼らへの無関心をやめることは、即ち違法行為に手を染めることである、そう容易くできることではない。映画はアンジーに寄り添い丁寧にその葛藤を描いていく。
にもかかわらずその一線はいとも呆気なく越えられる。
その契機は、足繁く通う一人のイラン人労働者に声をかけるそれである。
交差点に佇むイラン人労働者が頭を抱え込むのを、カメラはロングで捉える。
そこにアンジーのバイクがフレームインして、イラン人のところに横付けされ、何らかの会話が交わされた後、イラン人をバイクの後ろに乗せる。
アンジーの変節=映画のターニングポイントが、ただ引いたロングの画で見せられるだけなのである。なぜか?
それを説明するには、呼応するもう1つのシーンを検討しなければならない。
そのシーンとは、アンジーと共同経営者のローズ(ジュリエット・エリス)が、斡旋する労働者の為にトレーラーハウスを求めるそれである。
雨の降る中、車でやってきた二人は、トレーラーハウスがすべて埋まっていることを知らされる。困ったアンジーは、移民局に退去させるよう電話を入れる。その車のフロントガラスごしに見られるのは、あのイラン人家族の娘たち。
ここでのアンジーの決断は、フロントガラスというスクリーンを通してなされる。フロントガラス越しの、イラン人少女ら移民家族の暮らすトレーラーハウスの光景は、アンジーにとって「a free world」でしかない。関係ない、距離がある、つまり観客と視点を同じくしている(POV)。
先程の問いに戻ろう。アンジーは、頭を抱えるイラン人を「a free world」として見過ごすことができなかった(車のように、フロントガラスというスクリーンをもたない/隔離された空間をもたないバイクに乗っていることに注目)
つまりこのシーンを「a free world」として見ているのは観客である。観客をアンジーと同じ視点に立たせることはできない。なぜなら、映画は「a free world」でしかないからだ。
映画がどれだけ声高に問題提起しても、所詮観客にはスクリーンの先の「It's a Free World...」でしかないが、観客が「It's a Free World...」というようにしか映画を見ていないということを告発することはできる。
1)意識の戻った三村新之丞(木村拓哉)は、目が見えなくなっていることにも動揺の色を見せず、加世(檀れい)を心配させまいとその事実を伏せる。
2)新之丞に詰め寄られ、失明の事実を隠し通せず白状してしまったと徳平(笹野高史)から聞いた加世は、不快なおもいをさせて申し訳なかったと新之丞に謝る。
新之丞は、自分の為によかれと思ってしてくれたことなのだし、つらいのは自分よりも加世の方なのだから、気にしなくていいと言う。
しかし、1)の時と違い、言っている内容とその態度は遠く隔たっている。
こうあらねばならぬという予め用意されていたかのようなセリフと、その内容を信じてはいけないとでも言いたげな態度。
苛立ちながらも、静かに一人にしてくれと告げる新之丞。
つまり一人にしてくれるなと叫んでいる。
額面どおり受け取らざるをえない加世はその場を退出し、残される新之丞。
秀逸なのは、そこにオフで聞こえてくる徳平と加世の風呂が焚けたかだのどうのという、どうでもいいやりとり。
それを聞いた新之丞は、茶碗を投げ捨てる。
3)刀の在処に託つけて憤りを爆発させる新之丞。
1)〜3)を経ることではじめて、新之丞は失明を受容できる。
失明の苦しみを描いているには違いないが、それは経験したものにしかわからない。ここではそれを、誰もが経験する理想と現実の乖離に苦しむ姿として描いている。そうすることで、失明の経験など持たない観客に、自己投影させ共感を引き出すことに成功している。
2)新之丞に詰め寄られ、失明の事実を隠し通せず白状してしまったと徳平(笹野高史)から聞いた加世は、不快なおもいをさせて申し訳なかったと新之丞に謝る。
新之丞は、自分の為によかれと思ってしてくれたことなのだし、つらいのは自分よりも加世の方なのだから、気にしなくていいと言う。
しかし、1)の時と違い、言っている内容とその態度は遠く隔たっている。
こうあらねばならぬという予め用意されていたかのようなセリフと、その内容を信じてはいけないとでも言いたげな態度。
苛立ちながらも、静かに一人にしてくれと告げる新之丞。
つまり一人にしてくれるなと叫んでいる。
額面どおり受け取らざるをえない加世はその場を退出し、残される新之丞。
秀逸なのは、そこにオフで聞こえてくる徳平と加世の風呂が焚けたかだのどうのという、どうでもいいやりとり。
それを聞いた新之丞は、茶碗を投げ捨てる。
3)刀の在処に託つけて憤りを爆発させる新之丞。
1)〜3)を経ることではじめて、新之丞は失明を受容できる。
失明の苦しみを描いているには違いないが、それは経験したものにしかわからない。ここではそれを、誰もが経験する理想と現実の乖離に苦しむ姿として描いている。そうすることで、失明の経験など持たない観客に、自己投影させ共感を引き出すことに成功している。




