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「パリ・オペラ座のすべて」(フレデリック・ワイズマン)、「脳内ニューヨーク」(チャーリー・カウフマン)、「This Is It」(ケニー・オルテガ)
 上演されても一切観客の姿、拍手歓声などをとらえることのない「パリ・オペラ座のすべて」。
 上演されることのない舞台演出をとらえる「脳内ニューヨーク」。
 マイケルの死により公演されることのなかったそのリハーサルをとらえた「This Is It」。
 いずれも映画内観客不在のバックステージものである。

 「This Is It」は、届けられるはずであったステージを可能な限り再現しようと意図されている。であるから全てはマイケル・ジャクソンその人に集約されていく。

 「脳内ニューヨーク」は、ステージを創造することそれ自体をステージにしようと意図する劇作家ケイデン・コタード(フィリップ・シーモア・ホフマン)を描いている。であるから必然、全てはこの映画を創造/監督するチャーリー・カウフマンその人へと遡行される。

 「パリ・オペラ座のすべて」は、ステージが特権化されることもなく、リハーサルも本番も、ダンサーもスタッフも、無人のショットですら、同じ資格でならんでいる。であるから「This Is It」のようにパリ・オペラ座のステージに集約されるわけでもなく、「脳内ニューヨーク」のように監督フレデリック・ワイズマンに遡行することもない。 
 
 「パリ・オペラ座のすべて」で注がれたフレデリック・ワイズマンの眼差しと同じようにどの映画もとても面白く観ることができたと、「脳内ニューヨーク」のように自己言及してみるが、さめざめと泣いたのは「This Is It」
2009/11/28(Sat) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「千年の祈り」(ウェイン・ワン)
 (ネタバレあり)
 
 「悲しみは空の彼方に」(ダグラス・サーク)のタイトルバックは、宝石が降り積もるのをスローモーションで捉えていた。「千年の祈り」では、空港のターンテーブルに吐き出される手荷物が、その傾斜のためあたかもスローモーションのように落ちてくる。この感覚。

 最近観たお互いに母国語でない英語でコミュニケートする「きみに微笑む雨」(ホ・ジノ)に続き、「千年の祈り」でもシー(ヘンリー・オー)とイラン人のマダムは、お互いの母国語まじりの片言の英語でコミュニケートする。母国語での娘イーラン(フェイ・ユー)との会話より、お互い母国語ではない英語でのイラン人マダムとの会話の方が通じ合えるというのは、ホ・ジノのニュアンスとしてのそれより、やや図式的のきらいはあるが、それがイーラン自身もまた母国語でない方がコミュニケートできたのだとの告白に至っては見事と言うより他ない。彼女もまた夫との母国語での会話より、ロシア人の不倫相手との英語を介した会話に通じ合えるものがあった。
 
 シーがイーランを待ち受け問いただすシーンは、リビングでの縦の動きで演出された長まわしと、キッチンでのカット、イーランの部屋での鏡像を利用した演出で構成されている。その3パートで最もシンプルな演出のキッチンのカット、このバックにシーが中華鍋で料理中、油で壁が汚れないようにと張られた新聞紙がある。このカットのために、あの件があったのではとさえ思わさせる。
 
 イラン人のマダムとのベンチでの会話は、常に向かって右にマダム、左にシーを座らせていた。幾つかのピローショットに続きベンチに座る親子を、向かって右にシー、左にイーランと、シーの位置を逆転させている。この的確さに感動してしまう。
 
 ラスト、電車の音に気づくイーランは、「東京物語」(小津安二郎)の香川京子。
2009/11/24(Tue) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「母なる証明」(ポン・ジュノ)
 (ネタバレあり)
 漢方薬店で働く母(キム・ヘジャ)が、その奥まった店内から外の道端に佇む息子トジュン(ウォンビン)を見ている。徐徐にその視線が手元に及ばなくなっていき、トジュンが車に跳ねられると、その拍子に自分の指を切ってしまう。「吸血鬼ノスフェラトゥ」(F・W・ムルナウ)でも、怯えながらパンにバターをぬっていると(サイレントだが)突然時計が鳴り、その拍子に指を切ってしまうシーンがあった。何に心を奪われているかの巧みな演出である。さらにこの手前と奥という空間配置、キャメラの視点といい実に巧い。
 次にこの構図が繰り返されるのは、手前に漢方薬店の女主人、奥に連行されるトジュンを配してである。ここでも観客は、そこまで蔑ろにしてはクビを切られるのではと危ぶみながら、そこまでトジュンが心配でならないのだと了解する。

 トジュンに面会する母は、なんでもいいから思い出せと言う。そしてトジュンが思い出すのは、ミラーを壊したのは自分ではなくジンテ(チン・グ)だと事件に関係のないこと。しかし母はそれを、殺したのはトジュンではなくジンテだとパラフレーズする。
 次にトジュンが思い出したのは、子供の頃母が自分を殺そうとしたということ。母は、嫌な思い出を忘れることのできるツボに鍼を刺してやると言う。トジュンは、今度は鍼で殺すのかと応える。
 
 ラスト、トジュンは母に字義どおり忘れものを手渡す。母は思い出す、その忘れ物のことではなく、忘れようとしていたことを。それは、トジュンが全て知っているのではないか、全ておぼえているのではないか、無垢なフリをしているだけなのではないか、ということだ。気づいてしまった母を、バスの中で踊る乗客から一人際立たせる。その恐れを忘れる為に、そして今度は自分を殺す為に、自ら鍼を刺すのである。そのようなツボがあるわけがない。しかし母は、あたかもトジュンが何も知らないかのように無垢なままであるかのように、あたかも全て忘れてしまったかのように踊りだすのだ。無垢なフリであることを気づかないフリをすることが、「母なる証明」なのである。フリであるだけに、ラストカットの埋もれ方それ自体が埋もれたままに際立ち、迫りあがってくるのだ。
 冒頭の野原での踊りは2度繰り返されるが、背景に退く野原に対してポジ像として現れる。バス車内のカットで乗客の踊りは、一人座る母に対してネガ像として現れる。そしてラストカットの踊りは、ネガポジ、つまりはなにものも背景に退くことなくかたまりとなって迫ってくる。
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2009/11/01(Sun) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
「ファイナル・デッドサーキット3D」(デヴィッド・R・エリス)
 恥ずかしながら今までアトラクション映像ではない3D映画を観たことがなかった。今回「ファイナル・デッドサーキット3D」を観て思ったのは、望遠よりの長いレンズを使用した画が、特有の遠近感を圧縮する効果により3Dの立体感が損なわれ、ただ薄っぺらいレイヤーを重ねているようにしか見えないということだった。50㎜レンズだけで撮影した(しかもローアングル)小津のようなやり方の方が、3Dには相応しいのではないか。

 (ネタバレあり)
 それぞれの死は、蝶の羽ばたきにも似たかすかな失調がやがて嵐のような大惨事にいたるバタフライ効果によってもたらされる。その蝶の羽ばたき(失調)と嵐(死)を、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンにも似た行程を経てむすぶ。しかし、シリーズも4作目ともなるとマンネリ化は避けられない。それで、ミスディレクションを誘うような、死に結びつかない失調を配するのだが、それ自体もまたマンネリ化の道を辿る。そうして行き着いた先が最も皮肉な美容院での死になる。そのシーンの劈頭、くわえ煙草でガソリンを注ぐ男に子供が石を投げるが、なんら連鎖することなく事無きを得る。美容院に入ってから様々な失調を見せられ、それぞれに連鎖もするのだが、どれも死まではいたらない。そして全ての失調がミスディレクションとして回収されたと思われたとき、あの子供が投げ外れた石が、あの男が駆る芝刈り機に弾かれ母親を殺す。あれはミスディレクションだったのだと思わせることが、ミスディレクションになっている。またこの映画のラスト、死の連鎖を止めることができたとする3人のだしぬけの死という大枠の構成を、凝縮し予告している。(忘れた頃にというのは、TVドラマ「探偵物語」の最終回を髣髴させる)

 3Dである意味として飛び出す映像をどう演出するかは誰もが考えるところだろう。その点デヴィッド・R・エリスが抜きん出ているのは、飛び出さない映像とのコントラストにその答えを求めたところにある。それは劇中で登場人物が3D映画を観ているシーンで、そのスクリーン内スクリーンの映像は当然ながら2Dの二重にずれた像として示される。並行してスクリーン裏で進行する連鎖を描き、ついにはその2Dのずれた像を映すスクリーンをつきやぶり3Dで爆破が飛び出す。面白いのは、爆破が飛び出してくるかもしれない2Dの二重にずれた像を映すスクリーンの画の方が、実際に飛び出す3Dよりもスリリングなのである。この飛び出す3Dを孕んだ2Dのスクリーンを前にして、我々観客は否応なしに自身がかけている3Dメガネを意識せざるをえない。普通の2Dの映画で映画館のシーンがどのように撮影されていようと、我々観客は観客席での自身を省みることはほぼないだろう。3Dの相対的な迫力の追求ではなく、3Dを成立させる絶対的なあり方を描いているのだ。
2009/10/29(Thu) | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
カラーコレクションによる銀残し効果
 前回のエントリーで定礎するケミカル/アナログの優位に快哉を叫んだのだが、とは言えそれに準拠する手段として、やはりデジタルを切り離すことはできない。

 そこで今回はデジタルで簡単にシュミレートできる銀残し効果を解説してみる。
 銀残しの特徴である、コントラストが増し、黒がしまり、サチュレーション(色の彩度)が落ちることを表面的にそのままデジタルでシュミレートしても、それなりにそれ風には見えるが味がない。そこでPHOTOSHOPではよく知られたやり方であるがそれを利用する。

 便宜上Colorでの説明になるが、Final cut proでも同様にできる。
 Colorの場合、次のプラグインを予めインストール必要があるが、使用するノードは無料で手にはいるので心配いらない。
 Nattress Advanced Plugins for Color V1.0
 上記のリンクで、DEMOをダウンロードする。ColorFXのウォーターマーク入りのノードがいくつか手に入るが、必要なのはウォーターマークの入っていないG Blendノードだけである。

  シルバーカラーのプロセス
     ○発色現像
      停止
      水洗
     ○白黒現像
      停止
      水洗
      定着
      水洗
      乾燥
 
 これが前回のエントリーで紹介した銀残し(シルバーカラー)の現像行程である。まず発色現像であるが、これを通常のカラー現像と異なり途中でストップするのがポイントである。
元画像

これが元画像、つまり通常のカラー現像の画。






Creative Commons License

byGabo Morales, Some rights reserved.

発色現像
1)まず発色現像を途中で止めた浅いカラーポジをシュミレートするために、Curveノードを選択し暗部を持ち上げる



白黒現像
2)次に白黒現像のシュミレート。これは単純にB&Wノードを使う。


シルバーカラー
3)最後にカラー現像に白黒現像を重ねる「二液現像処理」をシュミレートする。ここでG Blendノードを使い1)と2)を統合してBlendモードをMultiplyにすると、このようにシルバーカラーになる。
Blend Amountを調整したり、Curveをいじることで、銀量の調節に相当するルックの微調整ができる。

Final cut proの場合は、1)のように色補正で暗部を浮かせた画の上に、2)のようにモノクロ化した画をタイムライン上で重ねる。そして合成モードを乗算にすればよいだけ。


 以上がシルバーカラーを模したやり方。BlendモードをMultiplyにするのは、主にシャドー部に効果が現れ黒がしまるポジ銀残しの特徴を模している。Screenにすれば、さしずめハイライト部が明るく吹き飛んだ感じになる特徴をもったネガ銀残しである。
 
 これを基本にしてデジタルはさらにいろいろできる。

 応用編
1)BlendモードをOverlayに変える。つまりポジ銀残しとネガ銀残しのミックス。
2)B&WノードをRGB Splitノードに変えRedを選択する。つまりこれでモノクロ現像にニュアンスをつけることができる。Redチャンネルにするのは、顔色に多く含まれるRが白く抜けるので顔の彩度を落とし明るくすることができるから。Final cut proの場合はチャンネルミキサーで同じことができる。

 デフォルトでBleachBypassのノードもあるが、パラメーターもなく味もない。G Blendノードはフリーなのに工夫しだいで色々使える。極端な例だと鉛筆画のような動画も可能である。
pencil
 これはB&Wノードでモノクロにした画を二つ作り、その片方をInvertノードで反転しBlurノードでブラーをかける。そしてその二つをG Blendノードで統合し、ColorDodgeモードにすれば鉛筆画の完成。ブラーの調整でニュアンスを決定できる。
2009/10/25(Sun) | 撮影TIPS | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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