眠っている街という字幕に続けて、眠っている街のカットがモンタージュされ、目覚めた街という字幕に続けて、目覚めた街のカットがモンタージュされる。それぞれの的確なカットの積み上げに感心するのだが、なかでも目覚めた街として、水面に映る建物/街をいくつか重ねているのには、なるほど水面への反映が光の存在を喚起させるのだと膝を打つ。
モスクワにやってきた男(ウラジーミル・フォーゲリ)が、行く当てもなくベンチに座り込み微睡むのだが、そこに尖塔の先に太陽を隠すカットがインサートされる。そのカットで隠しきれない太陽のフレアがゆっくりと動いているのがわかる。午睡へと誘惑する秀逸なカット。
ウラジミールが身を寄せるのが、ニコライ・バターロフとリュドミーラ・セミョーノワの夫婦宅。その部屋は半地下になっていて、外の往来が窓から差し込む光線を動かす。
夫のニコライが、ウラジミールに自分は出張するが遠慮はいらないと告げるのを、衝立越しに聞き耳をたてる妻リュドミーラ。そのプロフィールに落ちる往来の影の動きが、全てを語っている。
ニコライの雨の日の訪問は、風を孕むカーテンで見えないドアの開閉を示し、テーブルの上の新聞が風でそり上がる。リュドミーラはやり過ごそうとするが、ニコライを追いかけ呼び戻す。その時開けられたドアからの風で、その前のカットではそり上がるだけで耐えていた新聞がテーブルから落ちてしまう。巧い。
とにかく(原題は違うらしいが)「ベッドとソファ」というタイトルがいい。このタイトルに惹かれて観に行ったようなもの。
モスクワにやってきた男(ウラジーミル・フォーゲリ)が、行く当てもなくベンチに座り込み微睡むのだが、そこに尖塔の先に太陽を隠すカットがインサートされる。そのカットで隠しきれない太陽のフレアがゆっくりと動いているのがわかる。午睡へと誘惑する秀逸なカット。
ウラジミールが身を寄せるのが、ニコライ・バターロフとリュドミーラ・セミョーノワの夫婦宅。その部屋は半地下になっていて、外の往来が窓から差し込む光線を動かす。
夫のニコライが、ウラジミールに自分は出張するが遠慮はいらないと告げるのを、衝立越しに聞き耳をたてる妻リュドミーラ。そのプロフィールに落ちる往来の影の動きが、全てを語っている。
ニコライの雨の日の訪問は、風を孕むカーテンで見えないドアの開閉を示し、テーブルの上の新聞が風でそり上がる。リュドミーラはやり過ごそうとするが、ニコライを追いかけ呼び戻す。その時開けられたドアからの風で、その前のカットではそり上がるだけで耐えていた新聞がテーブルから落ちてしまう。巧い。
とにかく(原題は違うらしいが)「ベッドとソファ」というタイトルがいい。このタイトルに惹かれて観に行ったようなもの。
オープニングクレジットがのる黒味に「バンドエイドない?」というセリフがズリ上がり、開演前の楽屋裏をバンドエイド求めて歩き回るタオをキャメラは延々フォローする。いたるところで「没有」と首を振られながら、それでも大声で怒鳴る。ようやく貰えたバンドエイドを貼ろうと腰掛けると、ジッパーが上がらないと仲間が邪魔をする。開演を告げるスタッフがダンサーらを急き立て連れて行き、楽屋に一人残されたタオは徐にバンドエイドを貼り、1カットを終える。
理屈抜きに素晴らしいオープニングである。
チャオ・タオが、「バンドエイドない?」と歩き回るだけで、それが映画=世界になっている。
しかし理屈抜きで、理屈抜きの素晴らしさを巧くつたえることができないので、とりあえず理屈っぽく以下に記してみるが、理屈にすらなってないかもしれない。
映画史に名だたる「黒い罠」(オーソン・ウェルズ)のオープニングの長まわしは、時限爆弾にセットされた時間に引き延ばされて、キス=爆破とともに1カット目を終えた。
タオの繰り返される「バンドエイドない?」という声と楽屋の喧噪は、ヘンリー・マンシーニによる「黒い罠」のパーカッションやメキシコ国境の喧噪に比うべきサウンドトラックであるし、バンドエイドを貼る=開演は、キス=爆破に比肩する。
どちらもカットが、ボーダー(舞台/舞台裏、アメリカ/メキシコ)を跨ぐ。
映画=世界は、異質なもの(舞台/舞台裏、アメリカ/メキシコ)どうしを接着(バンドエイド、キス)し、それを展開(開演、爆破)する。
北京を出ないで世界を回れる世界公園を、我々は日本を出ないで映画館で回ることができるのだが、そこで我々が見る世界は、北京を出ないで回ることのできる世界ではなくて「世界」なのだ。
理屈抜きに素晴らしいオープニングである。
チャオ・タオが、「バンドエイドない?」と歩き回るだけで、それが映画=世界になっている。
しかし理屈抜きで、理屈抜きの素晴らしさを巧くつたえることができないので、とりあえず理屈っぽく以下に記してみるが、理屈にすらなってないかもしれない。
映画史に名だたる「黒い罠」(オーソン・ウェルズ)のオープニングの長まわしは、時限爆弾にセットされた時間に引き延ばされて、キス=爆破とともに1カット目を終えた。
タオの繰り返される「バンドエイドない?」という声と楽屋の喧噪は、ヘンリー・マンシーニによる「黒い罠」のパーカッションやメキシコ国境の喧噪に比うべきサウンドトラックであるし、バンドエイドを貼る=開演は、キス=爆破に比肩する。
どちらもカットが、ボーダー(舞台/舞台裏、アメリカ/メキシコ)を跨ぐ。
映画=世界は、異質なもの(舞台/舞台裏、アメリカ/メキシコ)どうしを接着(バンドエイド、キス)し、それを展開(開演、爆破)する。
故郷についての3本の作品を撮り終えて、僕は今回初めて自分の映画美学の場を、小さな 町から大都市へと移してみました。そして、僕にとっての“世界”とは、抽象的な概念で はなく、町の片隅そのものなのだと確信しています。 (公式サイトより「Director's Notes」)
北京を出ないで世界を回れる世界公園を、我々は日本を出ないで映画館で回ることができるのだが、そこで我々が見る世界は、北京を出ないで回ることのできる世界ではなくて「世界」なのだ。
健忘症ゆえいつ録画したのか全く身に覚えがないが、観ていないことは確かだと、しかしそれすらも覚束無く思え、とはいえまぁ面白そうなのでとにかく観る。鏡像好きキャメラマンを公言してはばからないにもかかわらず、この傑作を観ていなかったとは不覚。
ミリー(シェリー・デュヴァル )を見つめるピンキー(シシー・スペイセク)、やがてピンキーはミリーと入れ替わろうとする。
決して感情移入させることはないが、映画はピンキーの視点にたって展開する。「恐怖のメロディ」を髣髴させるイエローと鏡像にあふれるのミリーの部屋。圧巻は次の1カットである。
ミリーからもらったイエローのバスローブを仕立て直すピンキーの水槽越し手元から、それを鏡の前であてがうピンキーにフォローすると、その抜けに話しかけるミリーをとらえる。よく似合うと言われたピンキーが着替えるために部屋の奥に引っ込むのをキャメラはフォローせず、かわりにその姿を鏡のなかでとらえる。ゆっくりズームアップされる鏡の中のピンキーは、やがて抜けのミリーと同じサイズになり、ミリーからもらったイエローのバスローブを身にまとうのだ。(この1カットを観るためだけでも、この映画を観る価値はある)
ミリーになろうとしたピンキーがそれを拒否されプールへと飛び込む。このプールは、「詩人の血」(ジャン・コクトー)で詩人が中に入る鏡がプールだったのとは逆に、ピンキーにとって鏡であり、プールへ飛び込むことは即ち、鏡の中、黄泉の国へと旅立つことに他ならない。
それに跳ね返されたピンキーは、一命をとりとめ、しかしピンキーではなく、ミリーとして甦る。ピンキー視点で語られてきた映画は、ここから先ミリー=シェリー・デュヴァル 視点で語られるようになる。人格が入れ替わるだけでなく、それを語る視点も入れ替わるのだ。
最後にウィリー(ジャニス・ルール)であるが、ミリーがとりあげた子供は冷たかった。
先にピンキーを救ったのは、ウィリーであったが、プールは鏡でもあり、羊水でもあってウィリーによってとりあげられたピンキーは、そのときウィリーの子供と入れ替わっていたのだ。産まれたばかりの子を見つめるかのごとく病室のピンキーをガラス越しに見つめ、その鏡像が二重化するウィリーとミリー。
であるから、ピンキー=シシー・スペイセクはミリーになり、そのミリー=シシー・スペイセクは、ウィリーの子供になる。
ウィリーの子供をとりあげたミリー=シェリー・デュヴァル は、ピンキーを救ったウィリーになる。
さて、ウィリー=ジャニス・ルールは・・・。
ミリー(シェリー・デュヴァル )を見つめるピンキー(シシー・スペイセク)、やがてピンキーはミリーと入れ替わろうとする。
決して感情移入させることはないが、映画はピンキーの視点にたって展開する。「恐怖のメロディ」を髣髴させるイエローと鏡像にあふれるのミリーの部屋。圧巻は次の1カットである。
ミリーからもらったイエローのバスローブを仕立て直すピンキーの水槽越し手元から、それを鏡の前であてがうピンキーにフォローすると、その抜けに話しかけるミリーをとらえる。よく似合うと言われたピンキーが着替えるために部屋の奥に引っ込むのをキャメラはフォローせず、かわりにその姿を鏡のなかでとらえる。ゆっくりズームアップされる鏡の中のピンキーは、やがて抜けのミリーと同じサイズになり、ミリーからもらったイエローのバスローブを身にまとうのだ。(この1カットを観るためだけでも、この映画を観る価値はある)
ミリーになろうとしたピンキーがそれを拒否されプールへと飛び込む。このプールは、「詩人の血」(ジャン・コクトー)で詩人が中に入る鏡がプールだったのとは逆に、ピンキーにとって鏡であり、プールへ飛び込むことは即ち、鏡の中、黄泉の国へと旅立つことに他ならない。
それに跳ね返されたピンキーは、一命をとりとめ、しかしピンキーではなく、ミリーとして甦る。ピンキー視点で語られてきた映画は、ここから先ミリー=シェリー・デュヴァル 視点で語られるようになる。人格が入れ替わるだけでなく、それを語る視点も入れ替わるのだ。
最後にウィリー(ジャニス・ルール)であるが、ミリーがとりあげた子供は冷たかった。
先にピンキーを救ったのは、ウィリーであったが、プールは鏡でもあり、羊水でもあってウィリーによってとりあげられたピンキーは、そのときウィリーの子供と入れ替わっていたのだ。産まれたばかりの子を見つめるかのごとく病室のピンキーをガラス越しに見つめ、その鏡像が二重化するウィリーとミリー。
であるから、ピンキー=シシー・スペイセクはミリーになり、そのミリー=シシー・スペイセクは、ウィリーの子供になる。
ウィリーの子供をとりあげたミリー=シェリー・デュヴァル は、ピンキーを救ったウィリーになる。
さて、ウィリー=ジャニス・ルールは・・・。
スリの小武(ワン・ホンウェイ)は、カラオケバーのホステス、メイメイにマイクを向けられても決して歌わない。
スリ仲間が、テレビの街頭インタビューでマイクを向けられ押し黙ってしまうのを助けるのも、小武である。
しかし昔のスリ仲間であるヨンは、自身の結婚をつたえるニュースでマイクを向けられ、喜々としてそれに答える。それをつたえるテレビは続けて、「心雨」というデュエット曲を歌い、それを映画は、そのテレビを自宅で見るヨンと、飲食店で見る小武で、カットバック=デュエットする。マイクで歌う/答えるヨンと、そのヨンから掠めたライターで「エリーゼのために」を密かに奏でる小武のデュエット/カットバック。
小武は、街頭カラオケでデュエットするカップルを人ごみに紛れて見つめる。
店を休んだメイメイを見舞う小武。メイメイが歌い、メイメイは小武も何か歌ってくれと頼む。メイメイの目を瞑らせ「エリーゼのために」を奏でる小武。
誰もいない銭湯で「心雨」を一人で歌う小武。
見られてはいけない。
しかし続くカラオケバーのシーンで、小武は「心雨」をメイメイとデュエットしてしまう。
メイメイは姿を消し、小武は捕まってしまう。
オートバイに手錠で繋がれた小武と、「エリーゼのために」を奏でるテレビ。
小武の手にあったはずの曲が、密かにヨンから盗み取ったはずの曲が、テレビで流れている。
さらにテレビは小武の逮捕をつたえ、しかもそのインタビューに冒頭で押し黙っていたのと同じスリ仲間が、まるでヨンのように喜々として答えている。
メイメイからのポケベルが、すべて見られていることを告げる。
ラストシーン、電柱につなげられた小武は、オートバイにつなげられたのと同じ姿勢で待つ。見られる小武。
スリ仲間が、テレビの街頭インタビューでマイクを向けられ押し黙ってしまうのを助けるのも、小武である。
しかし昔のスリ仲間であるヨンは、自身の結婚をつたえるニュースでマイクを向けられ、喜々としてそれに答える。それをつたえるテレビは続けて、「心雨」というデュエット曲を歌い、それを映画は、そのテレビを自宅で見るヨンと、飲食店で見る小武で、カットバック=デュエットする。マイクで歌う/答えるヨンと、そのヨンから掠めたライターで「エリーゼのために」を密かに奏でる小武のデュエット/カットバック。
小武は、街頭カラオケでデュエットするカップルを人ごみに紛れて見つめる。
店を休んだメイメイを見舞う小武。メイメイが歌い、メイメイは小武も何か歌ってくれと頼む。メイメイの目を瞑らせ「エリーゼのために」を奏でる小武。
誰もいない銭湯で「心雨」を一人で歌う小武。
見られてはいけない。
しかし続くカラオケバーのシーンで、小武は「心雨」をメイメイとデュエットしてしまう。
メイメイは姿を消し、小武は捕まってしまう。
オートバイに手錠で繋がれた小武と、「エリーゼのために」を奏でるテレビ。
小武の手にあったはずの曲が、密かにヨンから盗み取ったはずの曲が、テレビで流れている。
さらにテレビは小武の逮捕をつたえ、しかもそのインタビューに冒頭で押し黙っていたのと同じスリ仲間が、まるでヨンのように喜々として答えている。
メイメイからのポケベルが、すべて見られていることを告げる。
ラストシーン、電柱につなげられた小武は、オートバイにつなげられたのと同じ姿勢で待つ。見られる小武。
完璧な映画をあげるとしたら外すことの出来ない映画。
映画は前半、キース(エリック・ストルツ)が、ハーディといるアマンダ(リー・トンプソン)を見つめる描写を重ねる。ハーディとアマンダを結ぶ一辺からはじかれた頂点としてのキース。トライアングルを描く為にハーディは必須の頂点であるから、常にキースはハーディといるアマンダを見ることになる。
並行してワッツ(メアリー・スチュアート・マスターソン)がキースを想う描写もあるが、まだトライアングルとして描かれることはない。
そして映画の転轍点であるが、そこではまず「ハーディとアマンダを見るキース」というトライアングルが描写され、その中でハーディとアマンダが仲違いをし、キースがアマンダを誘う。トライアングルの一辺を見つめる頂点であったキースが繰り上がり、アマンダと新しく一辺を結ぶ。そこではじかれたのはハーディであるが、映画はハーディではなく、新しい頂点としてその一辺を見つめるワッツにトラックアップするのである。ここで新しいトライアングルにシフトされた。この後、前半で執拗に繰り返された「ハーディといるアマンダを見るキース」というトライアングルと相似形である「アマンダといるキースを見るワッツ」というトライアングルが反復される。
観客はそこから排除された頂点と共にトライアングルを構成する、見ることしかできないという無力感を共有して。
であるから、そのポジションが繰り上がることで観客の偽の能動性が満たされる。
しかし、それはあくまで偽の能動性にすぎない。キースとともに映画の世界を生きようとしても、キースと違い我々観客はそれを見ることしか出来ない。その新たな無力感を共有するのがワッツというわけである。
切なさとはこの距離感であり、見ることしか出来ない観客の切なさである。
映画は前半、キース(エリック・ストルツ)が、ハーディといるアマンダ(リー・トンプソン)を見つめる描写を重ねる。ハーディとアマンダを結ぶ一辺からはじかれた頂点としてのキース。トライアングルを描く為にハーディは必須の頂点であるから、常にキースはハーディといるアマンダを見ることになる。
並行してワッツ(メアリー・スチュアート・マスターソン)がキースを想う描写もあるが、まだトライアングルとして描かれることはない。
そして映画の転轍点であるが、そこではまず「ハーディとアマンダを見るキース」というトライアングルが描写され、その中でハーディとアマンダが仲違いをし、キースがアマンダを誘う。トライアングルの一辺を見つめる頂点であったキースが繰り上がり、アマンダと新しく一辺を結ぶ。そこではじかれたのはハーディであるが、映画はハーディではなく、新しい頂点としてその一辺を見つめるワッツにトラックアップするのである。ここで新しいトライアングルにシフトされた。この後、前半で執拗に繰り返された「ハーディといるアマンダを見るキース」というトライアングルと相似形である「アマンダといるキースを見るワッツ」というトライアングルが反復される。
観客はそこから排除された頂点と共にトライアングルを構成する、見ることしかできないという無力感を共有して。
であるから、そのポジションが繰り上がることで観客の偽の能動性が満たされる。
しかし、それはあくまで偽の能動性にすぎない。キースとともに映画の世界を生きようとしても、キースと違い我々観客はそれを見ることしか出来ない。その新たな無力感を共有するのがワッツというわけである。
切なさとはこの距離感であり、見ることしか出来ない観客の切なさである。





